第7話 取り戻した前向きな心

「おお妹よ、気が抜けて熱を出すとは情けない」


 ジャスティンが悪戯っぽく笑い、ベッドに横たわるミネルバの顔を覗き込む。ミネルバは自己嫌悪を感じながら、つられたように笑った。


「本当ね、発熱なんて何年ぶりかしら。でも微熱だから大丈夫。昨日はルーファス様にみっともない姿を見せたし。涙のせいでろくに口がきけないなんて、初めての経験だったわ」


「その後の晩餐会では立派に振る舞ったじゃないか。まあ、目はかなり腫れあがっていたけどね」


 コリンが穏やかな表情を浮かべて肩をすくめる。ミネルバは力なく微笑んだ。


「ミネルバがようやく泣けたと、俺は安心したけどな。お前はフィルバートとジェフリーに裏切られても泣かなかった。理性が強すぎるのは頼もしいが、心がよくもつなと心配に思っていたんだ」


 マーカスがにやりと笑う。

 ミネルバは小さくうなずいた。たしかに昨日は、泣きながらとてもほっとしていたような気がする。

 庭園でのルーファスは言葉を尽くして、ミネルバに安心感を与えようとしてくれた。

 それは喪失感や寂寥感、孤独感といったものを口にすべきではないと強く己を律していたミネルバの心を慰め、大きな安堵を与えてくれた。

 もう何も心配することはない、必ず守る、絶対に傷つけない──もしかしたら現実的には困難なことかもしれない。それでも、ルーファスは覚悟のほどを示してくれた。

 ミネルバを取り巻く世界をひっくり返し、未来が明るく希望に満ちていると信じさせるには『強い言葉』が必要だと、ルーファスは考えたのではないだろうか。


(実際に心が癒されていくのがわかったし、目の前がぱっと明るくなるような気がした……)


 前向きな気持ちでいれば、きっと人生は素晴らしいものになる。心の痛手から立ち直ることができる。そんな気持ちすら湧いてきた。

 しかしながら、ルーファスからの求婚に対する返事はできなかった。彼自身が急がなかったせいもあるが、考えなくてはならない問題が多すぎるのだ。


「ミネルバ。お前のことだからきっと、自分がルーファス様の役に立てるかどうかとか、彼の社会的地位を危うくしないかとか、いろいろと考えすぎて眠れなかったんだろう?」


 ジャスティンがベッドの傍らの椅子に座って、ミネルバの胸中を見透かしたようなことを言う。実際にその通りだったので、ばつが悪くなったミネルバは視線をそらした。


「たしかにグレイリング帝国は別世界だ。踏み出すには決心と勇気がいる。お前は私たち家族にとってかけがえのない存在だ。つねに側にいてやりたいと考えているし、守ってやりたい。でも本音を言えば、怖気づくことなくルーファス様と愛情豊かな家庭を築いてほしい。彼から与えられる特権や名誉の回復が重要なんじゃない。アシュランから抜け出して、ただ幸せになってほしいだけなんだ」


 ミネルバは枕の上で頭を動かし、ジャスティンに向き直った。剣を握るとき以外は穏やかで優しい長兄が言葉を続ける。


「この国じゃだめだ。属国ながら、王族がすべてを握る古臭い国だ。婚約破棄の一件でも罰せられたのはミネルバだけで、フィルバートやセリカは無罪放免。やつらの尻馬に乗って、ジェフリーのように悪辣なことを考える輩もいる。ろくでなしどもが牛耳っているアシュランから脱出するチャンスだ、ミネルバ。お前は環境を変える必要がある」


「でも……私のせいでルーファス様の評判に傷がつくかもしれない。力を弱めてしまうかもしれない。あれこれ検討してみたけど、ルーファス様の社会的地位と、それに伴う責任は重すぎるわ。彼を支えるのは、よほど特別な女性でなくては……」


 ミネルバはため息をついた。

 昨晩ルーファスが屋敷を辞したあと、ミネルバは急に疲労の波に襲われた。感情の振れ幅が大きすぎたせいだろう。

 すぐに眠れると思っていたのだが、あれこれ考えたせいで目がさえてしまった。結局明け方まで眠れず、情けないことに熱を出してしまった。


 コリンがまた肩をすくめた。

「やれやれ、愛する妹は2度も裏切られたせいで自分に自信がなくなったようだ。ミネルバ、お前は自分が思うよりずっと価値のある人間だよ。完璧な皇弟妃、公爵夫人になる資質をすべて備えている」


 そうだそうだ、とマーカスがうなずいた。

「お前はキツイ顔立ちのせいで高慢に見えるが、生まれ持った性格は穏やかだ。おまけに忍耐力と自制心があって、勤勉な努力家ときている。フィルバートに足りない部分を埋めるために、歴代王太子妃より厳しい教育を受けさせられた。男と同じような学問を叩き込まれても、泣き言ひとつ言わなかった」


「マーカス兄さんの言う通りだ」

 コリンが笑みを浮かべる。

「たしかに帝国の社交界では、小国出身のミネルバは異世界人のようなものかもしれない。でもお前は絶対に見劣りしないよ。だって、根本的には負けん気が強いからね。昨晩我が家の図書室から、グレイリングの貴族名鑑とマナー教本が持ち出されたの、僕は知っているんだ」


 ミネルバは頬が赤くなるのを感じた。


「たしかにアシュランでは最高の教育を受けたけれど、1年以上前に水泡と化して、それ以降は新しい情報を積極的に仕入れていなかったし……そんな自分が急に恥ずかしくなったのと、本を読めば眠くなるかもしれないって……。もしも覚悟を決めるなら、グレイリングの淑女たちから向けられる奇異の目に、絶対に負けたくないと思ったのはたしかだけど……」


 ミネルバはしどろもどろになりながら、自分が心の底で覚悟を決めつつあったことに気が付いた。

 なぜ好きになってもらえたのかわからないが、ルーファスは信じられると本能的に感じられたからに違いない。

 ジャスティンが静かに立ち上がる。


「どうやら前向きなミネルバが戻ってきたようだ。私たちに反対する理由は無いから、全力でサポートする。でもその前にゆっくり眠るがいい。本を読むのは熱が下がったあとだよ、いいね?」


「はい……。あの、いろいろな意味でありがとう、兄様……」


 ジャスティンは笑いながらミネルバの頭を撫でた。そして静かに踵を返す。マーカスとコリンも手を振って、長兄の後に続いた。

 静かになった部屋で目を閉じると、昨日の庭園でのルーファスの姿が脳裏に浮かんだ。穏やかな眠気が襲ってきて、ミネルバはすぐにぐっすり眠り込んだ。

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