第6話 流れる涙
(ルーファス様がこめかみを揉む仕草……前にも見たことが……。そう、セリカとリリィが大声で泣きわめいたときに、軽蔑したような声を出して……頭が痛いと言わんばかりに……)
ふいに感電でもしたような衝撃を受けて、ミネルバは呆然となった。
(私、とんでもないことを言ってしまった! ルーファス様に向かって『邪悪な意図』だなんて……っ!)
心臓が激しく打って喉から飛び出しそうになる。罪悪感の痛みが襲いかかってきて息ができない。
(ルーファス様をろくでなしだと決めつけた。そんなこと、彼のプライドが許すはずがない……っ!)
フィルバートとジェフリーの行いによって、夢も希望も打ち砕かれた。その記憶は、ミネルバの心に深く植え付けられている。また同じことになるのではないかという恐怖のあまり、とんでもないことを口走ってしまった。
ミネルバの額に汗が噴き出す。体を震えが駆け抜けるのを感じた。混乱状態に陥ったせいで頭がぐるぐる回っている。
(し、しっかりしなければ。気持ちを落ち着かせて、ちゃんと謝罪をしなければ。私が愚かなせいで、家族まで咎めを受けることになったら……)
心の中で己を叱咤したが、頭が朦朧としてくる。
震える指先にルーファスの手の感触を感じて、ミネルバははっと体をこわばらせた。
「許してくれミネルバ。あなたを救いに来た
ぼうっとした頭に、ルーファスの悔しそうな声が届いた。
ミネルバはみぞおちがうずくような感覚を覚えながら、自分に触れるルーファスの手を見た。その手は大きくて、指が長くて骨ばっていて、とても力強く見える。
「ミネルバが私を怖がるのも、自分を守ろうと身構えるのも当然だ。フィルバートに残酷な形で裏切られてから1年、ジェフリーから屈辱を与えられて1か月ほどしかたっていない。もうあんな目にあうのは嫌だと思ったんだろう? 本当にすまない、愚行の極みだった」
ミネルバは恐る恐る顔を上げた。ルーファスが身を乗り出して、じっと自分を見つめている。その黒い瞳にあるのは、嫌悪や侮蔑ではなかった。
「2度も過酷な経験をしたミネルバの心の傷が癒えないうちに、傷口に塩を塗りこむような真似をしてしまった。私がするべきことは、いきなりの求婚ではなかった。大事にしてくれる人がいるんだとミネルバを安心させて、たくさん幸せな気持ちにしてやることだった」
この世界で絶大な権力を誇っている人から、やろうと思えば簡単にミネルバの人生を滅ぼすことができる人から、あまりにも真摯な謝罪を受けている。
ミネルバはうろたえた。悪いのは自分のほうなのに──ルーファスのやさしさは、ミネルバの想像を遥かに超えていた。
「……ルーファス様の……広いお心に……感謝いたします……。失礼なことを言ってしまって、申し訳ございませんでした……」
じんと目が痺れて、熱い涙がしたたり落ちるのを感じた。その涙を、ルーファスが指先で拭ってくれる。
「謝らないでくれ、悪いのは私なのだから。ミネルバが経験した絶望が、どれほど深く苦しいものか想像が足りなかったんだ。それに、たやすく人を信用しない用心深さに惚れ直した」
ルーファスからじっと見つめられて、まるでこの空間に二人きりでいるような錯覚を起こしてしまう。
「つらい過去を乗り越えるのは大変だろう。ミネルバの心の傷は消えないかもしれない。でも、見えないほどに薄くする手伝いはできる。あなたはまだ人生を悲観するような年齢ではない。どうか私に、ミネルバが新しい人生に踏み出す手助けをさせてくれないだろうか」
ルーファスはミネルバを安心させようとしている。緊張を解きほぐそうとしてくれている。
「……おやさしいお言葉……ありがとう……ございます……」
ミネルバの喉の奥が震えて、ついに嗚咽が漏れだした。
フィルバートから鼻であしらわれ、社交界から締め出され。まともな結婚のできない女としての人生を受け入れかけたときにジェフリーと出会い、そしてまた裏切られた。
人前で泣くのは恥ずかしいことだとわかっているのに、溢れる涙が止まらない。涙と一緒につらい記憶が流れ出ていくようだ。
「ミネルバを苦境に陥れた人間は、私ほどの地位や力は持っていない。私は必ずあなたの助けになれる。どんな運命からも守ってやれる。やつらがまたミネルバを傷つけようとしたら、力を振り絞って叩きのめしてやる」
ルーファスはミネルバの目を覗き込みながら、穏やかに笑いかけた。
「私といれば、ミネルバが傷つくことはない。約束する。22歳まで理想の人を待ったんだ、どんなに時間がかかっても信頼を勝ち得て見せる。私の気持ちを疑ったりできないくらいに、長く深く愛すると誓おう」
ルーファスの真摯な言葉に、ぞくぞくと神経が昂るのを感じた。
両親や兄たちがうろたえたり、顔を赤くしたり青くしたりしているのが見える。ミネルバは言葉では言い表せないくらい申し訳なく感じながら、次から次へと涙をこぼした。
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