第2話 ミネルバの現状
バートネット公爵家のタウンハウスの居間で、一番上の兄ジャスティンが剣の手入れに勤しんでいる。
拳闘の達人である二番目の兄マーカスが仮想の敵を相手に手足を動かし、三番目の兄コリンは両肘をテーブルについて、髪を掻きむしるように頭を抱えていた。
外出していたミネルバの父サイラスが、憮然とした表情で居間に入ってくる。母アグネスが椅子から立ち上がった。
サイラスがアグネスを軽く抱きしめて帰宅の挨拶をし、居間にいる家族をぐるりと眺め回した。
「ジェフリー・モートメインはすべてを認めた。メイドで愛人であるリリィの存在と、隠し通路を使った毎日の密会。そして我が愛する娘ミネルバを亡き者にし、下賤の血を引く赤ん坊をミネルバの産んだ子に偽装する計画をね。モートメイン侯爵夫妻も呆れ果てていたよ。後日、正式に謝罪にくるらしい」
剣を磨いていた長兄ジャスティンが顔を上げた。
「社交界の噂好きどもが飛びつくネタですね。今日明日中には、噂が国中を駆け巡るでしょう。私の愛しいミネルバが、人々の口の端にのぼるのは我慢がならない。ジェフリーにはミネルバを傷つけた報いを受けてもらいます」
「決闘はやめてくださいジャスティン兄様。醜聞の渦に巻き込まれるのは初めてではないですし。ジェフリーがちゃんと認めたのなら、それで十分です」
背もたれの高い椅子に行儀よく腰かけたミネルバは、小さく息を吐いた。
バートネット公爵家とモートメイン侯爵家の顔合わせが行われた昨日、何かに導かれるように秘密の通路に迷い込んで、ジェフリーとリリィの密会を目撃した。
両親に事情を伝えて後の処理を頼み、ミネルバ自身は体調不良を理由に慌ただしく帰宅してから、ずっと頭痛が続いている。
「私はもう疲れました。王太子フィルバート様との婚約破棄のとき、真実ではないことをあれこればら撒かれて……社交界の人々にとって、噂が本当かどうかなんて問題ではないんです。こちらが何を言ったって、ほとんど信用してもらえませんでした」
ミネルバは腿の上で組み合わせた両手を、関節が白くなるまでぐっと握り締めた。
7歳で王太子フィルバートと婚約し、17歳で婚約を破棄され、まともな貴公子が寄り付かなくなって1年。
18歳でようやく出会った真っ当そうな青年ジェフリーの裏の顔は、品性下劣なろくでなしだった。
頭の中で、王太子妃セリカの高笑いが鳴り響く。
ミネルバを徹底的に嫌っている異世界人が、ミネルバを貶める機会を逃すはずがない。
セリカはきっと、ジェフリー・モートメインとメイドのリリィの味方になるだろう。そして彼女お得意の作り話で、ミネルバの置かれている立場をますます難しくするに違いない。
「お父様、お母様……私はもう、まともな結婚はできないに違いありません。フィルバート様との婚約破棄後、私に近寄ってきた男性はみんな『ろくでなし』でしたわ。一見まともに見えたジェフリーもそうだった……」
公爵家の令嬢として、未来の王太子妃として厳しく教育されてきたミネルバは、これまで弱音を吐いたことがなかった。涙を見せたこともなかった。
そんな娘の萎れた姿に、両親が慌てたように駆け寄ってくる。三人の兄たちも一斉に立ち上がった。
「一番のろくでなしは王太子フィルバートだ! 得体のしれない異世界人に魅了されてミネルバを捨てて──王族の誇りも何もあったものじゃないっ!」
激高しやすい二番目の兄マーカスが、居間を飛び出していこうとする。その肩を三番目の兄コリンが掴んだ。
「離せコリン、フィルバートとジェフリーの顔形を、俺の拳でみっともなく変えてやるっ!」
「僕だってそうしたいのはやまやまだが、王太子妃セリカに断罪のきっかけを与えるわけにはいかないんだよ。あの異世界人が、ミネルバを殺したがっているのは知っているだろう。フィルバート殿下に拳を振り上げたら、バートネット公爵家は潰される」
マーカスがうめいた。コリンも悔しそうな顔で唇を噛み締めている。
「マーカス兄様、コリン兄様……お父様、お母様、ジャスティン兄様。バートネット公爵家の娘としての務めを果たせなくてごめんなさい。でも、私はもうお役に立てそうにありません。家族の邪魔にならないように修道院に入って、静かに暮らしたいと思います」
ミネルバは決意を込めた声で言った。両親が小さく悲鳴を上げ、兄たちが息をのむ。
「待ちなさいミネルバ。私が……この父が、必ずミネルバを幸せにしてくれる貴公子を見つけてやる。だから待ってくれ」
「そうよミネルバ……あなたはこんなに素晴らしい娘なのに、異世界人に嵌められて立場を追われて……神様はきっと見ていらっしゃるわ、必ずあなたに相応しい幸せがやってくるから、修道院なんかに行っては駄目よ」
左右から両親の温もりに包まれて、ミネルバはゆっくり目を閉じた。
世間では悪役扱いされている娘を、ここまで愛してくれる両親がいることを心から嬉しく思う。
少し過保護な3人の兄たちも惜しみない愛をくれるけれど──家族以外の誰かから愛を受け取る自分の姿を、ミネルバはどうしても思い浮かべることができなかった。
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