【コミックス6月25日発売】婚約破棄された崖っぷち令嬢は、帝国の皇弟殿下と結ばれる

参谷しのぶ

第1部1章

第1話 発端


「泣かないで愛しい人。可愛いメイドのリリィ、信じてくれ、僕が愛しているのは君だけなんだよ。たとえミネルバ・バートネット公爵令嬢を妻に迎えようとも、僕は君を愛し続ける。お腹の赤ん坊も一緒にね」


「ああ、ジェフリー。どうしてあなたはモートメイン侯爵家の嫡男なの……。あなたのような高い地位にある人が、私のようなメイドと恋に落ちて……それだけでも信じられないのに、お腹に愛の結晶まで授かった。だから私はすっかり欲張りになってしまったんだわ」


 ミネルバ・バートネット公爵令嬢の目の前では、感動的な恋物語が繰り広げられていた。

 登場人物2名の姿は、羽目板の隙間からかろうじて見える程度だ。彼らは自分たちの純愛・溺愛・激愛に夢中になっていて、通路に潜んでいるミネルバの姿は見えていないらしい。


「守り通さなければならない秘密だって、ちゃんとわかってる……。私は決して世間から認められない。でもやっぱり、あなたが私以外の人と結婚するなんて辛すぎるわ。そのうえお腹の赤ちゃんを、ミネルバ・バートネット公爵令嬢が産んだ子どもということにしなくてはならないなんて……」


「わかってくれリリィ。未来のモートメイン侯爵、もしくはモートメイン侯爵令嬢の母が、住み込みのメイドであってはならないんだ。平民の君とは決して結婚できない……生まれてくる子どもを私生児にするわけにはいかないだろう?」


「でも……そんなこと、ミネルバという人が許すとは思えないわ」


 ええ、許すことはできませんね、いろいろな意味で──などとミネルバが考えていると、ジェフリー・モートメインがにやりと口元を歪めた。


「許すも許さないもないさ。あの女を正式な妻として貰ってやろうなんて奇特な貴族は、ほかにいないんだから。王太子フィルバート様から婚約を破棄された傷ものだし、王太子妃になられたセリカ様を苛め抜いた罪で、紳士淑女たちから睨まれているし……。つまり、どう扱ったって構わない女なのさ」


「じゃあ……じゃあジェフリーは、その女を『本当の』妻にするつもりは無いのね? あくまでも名目だけで、ずっと私の事だけを愛してくれるのね?」


「もちろんだよ。結婚式の当日から、僕は毎晩リリィと過ごす。僕の部屋と、君のメイド部屋を繋ぐ秘密の通路のことは、他の人間は誰も知らないからね」


 なるほど、とミネルバは小さくうなずいた。まるで他人事のように。

 自分が今いる狭くてかび臭い場所は、モートメイン家の屋敷の秘密の通路であるらしい。

 歴史ある屋敷には、不測の事態に備えて多くの秘密扉や通路が隠されているもの。

 その点については驚かないが──正式に婚約する前の両家の顔合わせの当日に、愛人であるメイドと密会するジェフリーの馬鹿さ加減と、偶然それを目撃してしまう己の強運には驚かざるを得ない──とミネルバは思った。


「リリィのお腹の子どもが無事に生まれたら……ミネルバ・バートネット公爵令嬢は天に召されるんだ。そうだね、産褥熱で死んだということにしよう。出産まで妊娠に気づかなかったということも稀にあることだから、バートネット公爵家の連中を言いくるめることは難しくないはずだ」


「じゃあ、生まれた赤ちゃんは私が育てていい? だったら私、あなたが結婚することも我慢する。本当は、短い間でも嫌だけど……子どもを自分の手で育てられるなら、耐えて見せる」


「ああリリィ、なんていじらしいんだ。ミネルバの死後、君は子どもの乳母になる。たっぷり愛情をかけて育てておくれ。ミネルバはまあ腐っても公爵令嬢だから、子どもは社交界から受け入れられるだろう。僕は再婚はしないから、リリィは実質的にこの屋敷の女主人になるんだよ。子どもと3人、幸せに暮らしていこう」


「ああジェフリー……っ!!」


 感極まってしまったらしいリリィが、長身のジェフリーの首に縋りつく。ミネルバはその光景を、完全なる無表情で眺めていた。

 ミネルバが王太子フィルバートから婚約を破棄されたのは1年前のこと。

 異世界人であり、いまでは王太子妃となったセリカを『苛め抜いた』というのは事実ではない。フィルバートから頼まれたから彼女の教育係になって、徹底的に淑女教育を施しただけのことだ。

 いつの間にかフィルバートとセリカは恋仲になっていて──セリカにとって目障りなミネルバが排除された。

 婚約が破棄されたとき、悲しいかな、傷者になるのはいつだって女の側だ。


(そう、だから私が新たに婚約できる男は、この程度のもの)


 乾いた笑みを浮かべながらミネルバはそっと踵を返した。大広間にいる両親に、一部始終を報告しなければならない。

 エスコート役の兄が静かに後をついてくる。怒りに両の拳を握り締めているのが見えたが、ミネルバの心情を慮って、声をかけてこないのが有難かった。 

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