第19話 4日目③

「ど……どういう事だよ?」


「あ、でも、過去の話はしないんだったよね。コマがしてくれるなら私も話すよ」


 ここまできてお預けを食らってしまう。中途半端に聞いてしまったら最後まで聞きたくなるのが人間というものだ。第一、実の親でないなら金をむしり取るどころの話ではなくなってしまう。変なところでトチったら俺が大山さんにシメられかねないのだ。


 自分の身の安全とアサヒの事を知りたいという欲求。それらが俺の過去を話す恥ずかしさよりも重いという判断はすぐについた。


「いいよ。俺から話すから、お前も嘘をつかずに全部話せよ」


「うん!」


 アサヒはニッコリと笑うと俺の前に座ってきた。そんなにいい話でもないのだが。


 一通り、電車で思い返していた事をアサヒに話した。なんで俺は一回りも違う女子高生にこんな事を話しているのかとふと冷静になる瞬間もあったが、照れていては話がすすまないので、そんな気持ちを振り切って一気にすべてを話した。


 母親からの虐待。それを見て見ぬ振りをする父。パーキングエリアで見た朝日。ドブのように臭い野宿生活。小学生以来の自販機の釣り銭探し。そして、大山さんとの出会いまで。


 全てを聞いたアサヒは、「自分に比べたら大したことない」とか、いつもの調子で笑い飛ばしてくれるものだとばかり思っていた。そうして欲しかった。そうでないと、俺の惨めな人生が傍から見ても惨めなものだと自覚してしまうから。


 だが、アサヒはそんな俺の思いを裏切るように、何も言わずにそっと膝立ちで俺を抱きしめてきた。女の胸に顔をうずめるなんておっぱいパブ以来だ。人間は生まれてからずっと、この場所に安らぎを覚えるのかもしれない。このまま永久の時が過ぎ去ればいいと思える。そんな感触と匂いだ。


 後頭部にアサヒの手が添えられる。優しく俺の後頭部を撫でてくれる。自然と涙が溢れてきた。これまでの俺の人生は惨めだったと、自覚するように導いてくれる。


 アサヒにはいつものように俺の過去を笑い飛ばして欲しかった。それで終いにしたかった。なのに、俺の過去をきちんと噛み砕いて、咀嚼して、飲み込んでくれた。つまり、掃いて捨てるのではなく消化してくれた。だから、俺も強がらずに年下の女の胸の中で泣きじゃくり、自分の中で過去とケリをつけることができた。




 ひとしきり女子高生の胸で泣きじゃくった俺は、涙と感情の波が収まるにつれて、その体勢でいる事がいかに無様であるかを自覚し始めた。ゆっくりと俯いてアサヒから離れていく。どんな顔をしてアサヒを見れば良いのか分からない。


「コマ、辛かったね」


「そ……そんな事ねぇよ」


「素直になりなって。次は私の話だけど、途中で泣いたりしないでよ? 私だって我慢してたんだからさ」


「ちょ……ちょっと休憩するか」


 話しながら涙ぐむアサヒを見ていると、俺もまた泣きそうになったので、トイレに行くフリをして一度アサヒと別の空間に退避する。


 包容力、というものがどういうものなのか分からなかった。だが、目の前に座っているアサヒに、体だけでなく心までホールドされているように感じた。これが包容力なのかと驚く。アサヒは俺にも同じ事を期待しているのだろう。どんな話であっても受け入れる覚悟を決めて、部屋に戻る。


「お帰り。早かったね」


 アサヒの言葉には反応せずに、無言でさっきと同じ位置に座る。


「よし、次はアサヒの番だぞ」


 アサヒの方を見ながらそう言うと、アサヒは俺の頬をつねってきた。


「そんな怖い顔じゃ話しづらいって! スマイルだよ」


 緊張している上に集中していた俺の顔はかなり怖かったらしい。アサヒは別にビビっているわけではなく、ただ明るく話をしたいだけなのだろう。太陽のように笑いながら俺の顔をこねくり回すアサヒを見ていると、表情筋もすっかり緩んでしまった。


「うんうん! いい笑顔だね! じゃ、アサヒ劇場の始まりだよ」


 アサヒはパンパンと手を叩いて劇の始まりを告げた。


「昔々、まぁそんな昔でもないけど、私のお父さんとお母さんがいました。このお母さんっていうのは今日あって人じゃなくて本当のお母さんね。生物学的に、私を産んでしまった人」


 いくらなんでも「産んでしまった」なんて言い方するもんじゃないと思ったが、言いたいように言わせようと思った。今はアサヒのターンなのだ。


「お父さんはお母さんを毎日殴ってたんだ。私の記憶がある限り、殴ってない日はないくらい。お母さんだけで気が済まないときは私もたまに。お父さんの口癖だった『邪魔だよ』とかは今でも言われると体が竦むんだ」


 始めて会った時のことを思い出す。俺の「邪魔だよ」の一言でスイッチが入ったかのようにアサヒに生気がなくなりボソボソと謝り始めた。あれが当時のアサヒなのだろう。


「それで、お母さんと二人で逃げたの。お父さんは追いかけてこなかったから、その後どうなったかは知らないんだ。お母さんと二人で暮らし始めたんだけど、お金がなくて大変だった。朝から夜までずっと何かの仕事をしてたよ。家に帰ってくるのは週に二日だけだったけど、一番幸せだったなあ。でもある日、本当のお母さんも帰ってこなくなったんだ。理由は分かんないけどね。仲は良かったから」


 俺の過去なんて笑い飛ばしてくれていいくらいに壮絶だった。実の母親はアサヒの事を愛していたのが救いだろうか。それでもある日からパタリと連絡がつかなくなった。継母の失踪よりも前の事だろうからアサヒもまだ小学生か中学生だし、こんな風に探して回るなんてことはできなかったはずだ。


「お母さんの友達だったのが今日会ったお母さん。ややこしいから二人目のお母さんって呼ぶね。本当のお母さんが帰ってこなくなってから、二人目のお母さんが引き取りに来てくれたの。そこからはずっと二人で暮らしてきた。喧嘩もしたけど、この間もそれなりに楽しかったよ」


「それなのに何だってあんな事を言ってきたんだろうな」


「二人目のお母さんが出ていく前に喧嘩したの。それで言っちゃいけないことを言ったんだ」


「なんだ?」


「本当の母親じゃないくせに、って言ったの」


 アサヒからすれば喧嘩のはずみに飛び出た言葉なのだろう。それがあの継母からすればクリティカルな一言だった。だから、別の家庭に逃げた。


 元々、並行して別の家庭を持っていたのか、失踪後に滑り込んだのかは分からないが、子供も懐いていたし前者なのだろう。それ自体は責めることはできない。だが、なぜあと数年世話をしてやれなかったのか。それだけが気になる。


「それがショックで、二人目のお袋さんは家出したのか」


「そうなんだろうね。あの小さい子を見てなんとなく察したけど、私の世話は家族としてではなくて、慈善活動でやってたんだって、そう思っちゃった」


「それは……それでも何年かは面倒を見てくれてた訳だろ。その事に変わりはないだろ」


「そうだけどさ。何なんだろうね、私って。本当に一人ぼっちになっちゃったのかな」


 話をして状況を整理するほど、アサヒは自分の置かれている状況を飲み込めてきているのだろう。電車ではまだ受け入れる事もできず、ただ呆然としていただけだった。


 それが、俺と話す事で、辛い現実と向き合っている。いずれは必要なことなのだが、タイミングや然るべき相手というものがあるだろうと、俺も自分に課された荷の重さに耐えかねてしまう。


 あまりの気まずさに、つい話をそらしたくなった。アサヒの現実から目を逸らす。それに、新たな目標にもなるかもしれないと思った。


「本当のお袋さん……一人目のお母さんはどこにいるんだろうな。写真とかないのか? そっちも探してみようぜ」


 アサヒは望み薄な事は分かっていると言いたげな顔で携帯の写真を探す。かなり遡って一枚の写真を見つけたようだ。携帯を俺に見せてくる。


 俺は言葉を失った。アサヒの一人目の母親を知っている。


 それは、俺が初めての仕事で探していた、借金まみれの女だった。

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