恋する男子にアイドルを教えて(3)
朝っぱらから鳴り止まぬ目覚まし時計を何度も叩き、太陽が高くのぼったころ、ようやく布団から起き上がる。
寝間着姿のまま、あくびをしながら窓のカーテンを開ける。
すると、新聞のチラシが散らばった居間のちゃぶ台に、食品ラップで包んだおにぎりと、小さく折りたたんだ千円札が置かれていた。
知らず知らずのうちに枕を蹴飛ばし、おかしな寝相で寝ていたせいか。顔を洗って鏡を見ると、いつにもまして寝癖がひどかった。
水道の蛇口に歯ブラシをかざし、ついでに髪の毛も濡らしてドライヤーで乾かす。
どうせ散髪に行くのだから髪型など気にしても仕方がないが、俺はちょっと近所のコンビニへ出かける時も、最低限恥ずかしくない恰好に着替えてから行く。
何なら、歯医者に行く時だっていつもよりも入念に歯磨きをする。
ましてや今日は、俺にとって生まれて初めて美容院に行く日だ。
思えば幼稚園のころは、家の中でお出かけ用のピクニックシートを敷き、背中にマントをまとって母親のハサミで切ってもらっていた。
小学生になると、それが恥ずかしくて自分から床屋へ行くようになった。
今となってははっきりと覚えていないが、たぶん周りの友達から馬鹿にされたのがきっかけだったと思う。
中学で野球部に入ってからは、たまに練習にやってくる先輩が儀式と称して、後輩の頭をバリカンで刈るのが伝統だった。
シャンプーのポンプを何度も押さずに済むので、塵も積もればかなりの節約になる。
あんたなんか坊主なんだから石鹸で十分でしょうが、と言われてしまえばそれまでだが。
男の子だって思春期に差しかかると、傷んだ髪の毛をトリーメントせずにはいられないのだ。
学校の近くにある千円カットの理髪店へ行くと嘘をつき、まんまと母親から散髪代をだまし取ったものの、はたして本当にこれでよかったのだろうか?
そもそも、自分でアルバイトしてお金を稼いでいるのに、いくつになっても母親からお小遣いをもらっちゃう息子ってどうなんだ?
俺は、適当に脱ぎ散らかしていた学校の制服をスポーツバッグに詰め込み、自転車に乗ってペダルを漕ぎ出す。
少年野球のころから、練習試合で遠出をする際に使っていた肩掛けの大きな鞄だった。
というのも、このまえテスト勉強のために学校の図書室へ行った時、たまたま居合わせた香川先輩から、
「もしも今度の体育祭で応援団をやることになったら、青木君の制服を貸してくれない?」
と頼まれたからだ。
香川先輩とは、俺が所属している郷土研究部の副部長である。
詳しく話を聞いてみると、ずっと昔から続いている我が校の伝統行事で、体育祭の応援団に選ばれた生徒は、男女を問わず学ランを羽織って和太鼓を叩くのが習わしだという。
「体育祭が終わったら、ちゃんとクリーニングに出して返すから。嫌だったら断ってもいいのよ」
「いえいえ、構いませんよ。俺のでよければ、喜んで」
こういう経緯でもって俺は、入学式以来、一度も洗濯していなかった冬用の制服をクリーニング屋に預けることにした。
普段から気が向いたらハンガーにかけて、除菌効果があるスプレーで消臭しているものの、言うなれば歯医者へ行く前に歯磨きをするのと同じ理由だ。
「じつは俺も、ひとつだけ先輩にお聞きしたいことがあって……」
「どうしたの? 勉強に関する質問なら、何でも答えてあげるわよ」
「先輩は、いつもどこで髪を切ってます?」
「やっぱり、似合わないかしら。もうじき夏だから、思いきって短くしてみたんだけど」
「いいえ、そういう意味じゃなくて。俺、生活指導の先生から丸坊主にするぞって怒られて。もしよかったら、行きつけの美容院とか、教えてほしいなって」
「いつも決まって同じお店に通ってるわけじゃないけど。ちょっと前髪を切りすぎて、失敗しちゃったかなって思ったら、慌ててスマホのアプリで良さげな美容室を探してる感じ。初回ならクーポンで割引してくれるお店も多いし」
「スマホのアプリを使ったらお得になるんですか?」
「とはいえ、まえもってきちんと予約しておかないと、担当する美容師さんによっては当たり外れがあるのよね。――ほら、ケータイの連絡先を教えてごらん。このまえ行ったお勧めの美容室を紹介してあげる」
俺が住んでいるこの町は、近隣の村々との合併によって市へと格上げされた。
俺の両親が離婚して、都会から引っ越してくる前の出来事だ。
人口の減少が止まらない過っ疎過疎の片田舎だから、子育て世帯にはすこぶる優しい。
けれども、昔からこの土地に住んでいるお年寄りたちは、半分に減らされた議席を巡っていまだに票が割れた選挙の話ばかりしている。
そのせいか知らないが、同じ市町村なのに開発から取り残されている地域があって、橋を渡った向こう岸はずいぶんと景色が違う。
山から流れる川に沿って田んぼが広がる、のどかな田園地帯だ。
今はちょうど田植えが始まった時期で、苗が浸かるくらいたっぷりと水を張っている。
ちなみに、俺と同じ郷土研究部に所属している千嵐小夜は、この辺りに住んでいるらしい。
あそこの中学は不良が多いから気をつけろと言われていた場所だ。
俺の土地勘が正しければ、確か以前はここに、リーゼントやパンチパーマを当ててくれるヤンキー御用達の床屋があったはずだ。
まさかとは思いつつも、ケータイの地図を頼りに目的地へ向かってみると、田んぼのあぜ道にまたがる線路のそばに、新装開店したばかりの美容院が出現していた。
「いらっしゃい。今日はどうします?」
「髪の毛を切ってほしいんですけど」
「じゃあカットだね。シャンプーもする?」
「クーポンは使えますか?」
「うちの店は初めてだよね? すぐに終わるから、少し待っててね」
ガラス張りのドアから様子を覗いて店内に入った途端、まるで馴染みの常連客みたいに話しかけられて、俺は身もふたもなくうろたえる。
観葉植物で囲まれた待合スペースに座っていると、床にモップをかけていたエプロン姿のスタッフが、わざわざ空いている席から雑誌を持ってくる。
外国人みたいなモデルが表紙を飾っている女性向けのファッション誌だった。
店内は全体的に落ち着いた静かな雰囲気だが、耳をすませばどこからかノリの良いBGMが聞こえてくる。
やはり人気のカリスマ美容師は忙しくて手が空かないのか、新人らしき女性のスタッフに案内されて実験台に腰かける。
タオルで目隠しをされて、背もたれを倒しながら仰向けに寝かされる。
「かゆいところはございませんか?」
俺は、椅子の肘掛けをぐっと掴んだまま、じたばたともがく。
お花畑みたいに爽やかなシャンプーの香りと、甘ったるい香水の匂いが鼻をくすぐる。
「今日は、どんな感じにします?」
頭にターバンを巻かれて起き上がり、ポンチョをまとって別の席へと移動する。
何が何だか分からぬまま、てるてる坊主にされた格好である。
すると、今度はまた別のスタッフが、椅子の後ろに立って鏡越しに話しかけてくる。
小指を立てて小刻みにハサミをあやつる、金髪ピアスのカッコいいお兄さんだった。
「こんな感じにしてください」
俺は、ほんの少しだけ尻を浮かせてズボンのポケットをまさぐり、あらかじめスマホで検索しておいた画像を見せる。
「ああ、なるほど。何となくこう、ウルフっぽい感じで?」
「えっ? どんな感じですか?」
「オオカミみたいなヘアースタイルって意味ですよ」
「そんな感じでお願いします」
あれ、お客さんって誰かに似てるって言われません? どこかで会ったことありますよね?
と立て続けに質問されて、ええ、よく言われますと適当に答えておく。
「そういえば、柑橘兄弟のタッチ―って、おむすび娘のメンバーと付き合ってるんだってね」
「えっ? そうなんですか?」
「イケメンだらけの学園ドラマで共演したのがきっかけみたいで。グループを卒業する前から、ひそかに交際していたらしいよ。今日のワイドショーは、ずっとその話題で持ちきりさ」
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