前夜

おり。

第1話

"The hare limp'd trembling through the frozen grass"

 ──ジョン・キーツ「聖アグネス祭前夜」


 ◯


 朝日に照らされて、きらきらと小さな反射をあげる小道に、私はどことなくおかしみを感じながらゆったりと歩いていた。

 昨夜に薄く積もったであろう雪たちが、その二相系を保てずに全て雪解け水となって、草花につゆを、道端の小石に小さな輝きを与えていたのだ。


 風は穏やかに流れていく。湿った腐葉土の匂いがほのかに香り、思わず足元を見つめると、焦茶色をした落ち葉たちが幾重いくえにも重なり、普段の隘路あいろ鬱蒼うっそうとした森の一部へと変容させていた。


 全く異界めいた古道を歩いていると、この背反した景色が、実はもう全て、自分の心持ちであるような気がするのだった。

 ──昨夜の知らせによる暗澹あんたんとした気持ち……。

 それが混乱の二文字をもって、私の心象をき乱す働きをなしたのである。

 私は決定的なあやまちを犯したのだ。暁闇ぎょうあんのなかで日を求め、さまよい歩く私は、正道を踏み外した挙げ句に乱倫の谷へその身を投げたのだった。


 ひどく冷たい谷だった。そして何より底がなかった。このままどこまでもどこまでも、堕ちていくのだと知った。

 ふと目眩めまいを感じた。敷衍ふえんする土の匂いが、鼻腔を通じて──地面に置かれた生命の営みが、ふんの混じったような匂いとなって──苦しく私の官能を刺激する。

 私はきっと、分かっていたはずのことをずっと言えずにいた臆病者であったのだ。それだけでしかなかったのだ。


  野兎は寒さに打ち震え

  凍った草の中をなえぎつつ進む


 ふと、頭をもたげた詩の一句に、私はひどく動揺した。そうしてやはり、昨晩自殺をしたという彼女のことを思った。


「夢を見ていたいの」


 そう言った彼女の腕を、私は何とはなしに掴んでいた。彼女はいぶかしげにこちらを見遣みやって、聞き分けのない子供に接するように、私の頭を撫でた。

 その仕草がいかにも健気で、より一層彼女を痛ましいように着飾った。

 私にはそれがつらくて、悲しくて。

 先程よりも、掴んだ手の力を強いものにした。


 彼女は困ったような顔をしていた。今更私がどう足掻あがこうと、もうすべきことは決定しているのだ、とでも言うように。

 彼女の目には諦めの色が見えた。何もかもを見限った人だけのする、とても恐ろしい眼差しであった。

 だのに私は「いかないで」とは言えなかった。

 言う間もなくその幻想は崩れ去った。


 橙色を薄く縁取ふちどった雲たちが、東へ東へと流れてゆく。そうであることが当たり前のように。

 ぽっかりと胸に空虚を秘めた私に対して、冬の雲たちは何も語らなかった。

 薄らいで、今にも消えそうになりながらも、ただそこにある。それだけの光景に、私は何だか、雲たちのいじらしさを感じたような気がして、少し笑った。


 額にうっすら浮かんだ汗を拭うと、海から昇ってくる太陽の光が、真っ直ぐに強く私の身を刺した。遠く海のほうから聴こえる汽笛きてきが、私の全身を震わせた。

 それが何だか、私に生へのしがらみを促しているように思えた。

 私はふと、昨夜の彼女を思い返していた。彼女の私に向けた、あの痛ましい姿を……。

 頭の中で何度も反芻すると、最後にはあのキーツの詩句が思い出されるのだった。

 彼女の心のうちは──。


 私は生きなければならないと思った。

 だがそれ以上に、この世界から消えてしまいたかった。

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