sky high together

樽トッキ

第1話

 韓国でのアイドル文化および市場は、日本とは異なる方針と質で成り立っている。根本から違っていて、日本が、アイドルの成長過程を売るのだとすれば、韓国は成長し完成したアイドルを売ると言える。

 ようは、韓国のアイドルたちは、事務所に所属し、高い水準まで育った上でデビューするということだ。彼ら彼女らがスキルとするダンスやボーカルは、この理由からとても高い。俺がその完成されたステージに魅了されて、韓国アイドル――KPOPスターを夢に見、単身韓国に渡ったのは、高校生になる直前だった。韓国語もわからないまま、今思えば無謀なぐらいの飛び出しで行った韓国の事務所オーディションにて、運良く合格を決めた。


 韓国のKPOPアイドルとなるには、まず芸能事務所に所属する必要があった。所属といっても、仕事のもらえるアーティストとなるわけではない、練習生といって、事務所の所属でありながら、デビューの確証がない立場でひたすらスキルを磨き、デビューを目指す。日本で言うところの、ジャニーズ事務所に所属したジャニーズジュニアのようなもの、だろうか。

 俺は歌もダンスも経験のないまま、ただ漠然と、ああいうステージをするアイドルになりたいと思って韓国に渡ったから、本当に、するべきことはたくさんだった。何十人といる練習生の中、毎日ダンスの練習にボーカルの練習を重ねて、高校に通う。韓国語も平行して習得するべく努める俺は、学校についていくのも大変だったけれど、学校が終われば始まる練習生の時間にも大変さを覚えていた。深夜になってから事務所の練習スタジオを後にし、授業や韓国語の復習をして、二、三時間ほど睡眠を取り、また学校に行く。帰れば練習をして、その繰り返しだ、そうやってようやく、練習生の中での人並みに追いつけるかどうかというレベルなのだから、韓国市場は本当にシビアだと痛感した。


 事務所所属の練習生は、宿舎と呼ばれる、事務所が用意した住居で生活する。家事料理その他は自己責任だ、練習生と学生を両立させながら、歳が同じぐらいの男の子たちと、宿舎で暮らす。三十人弱は、最大でその宿舎に収まっていただろうか、俺も宿舎に入っていたけれど、まあ狭くて騒がしくて大変だった。あれがないこれがない、寝る場所がない煩くて寝られない、エトセトラエトセトラである。

 ただでさえ夢に向かって必死な思春期の自分たちに、わりと酷な集団生活だった。それでも、俺は日本の実家では長男で、下に弟と妹がいたから、なんとなく、そのような扱いには慣れていた。


 練習生のそのとき、やはり寝る場所がどうこうと所狭し全員転がっていたのだが、夜に寝つこうとしていたところ、寝室を覗く影が見えた気がして、俺はベッドの下段で横にした体を少しだけ起こした。視界の隅に見えたシルエットが、慌てたように扉を閉めかけたので、囁いて呼び止める。


「イアン? どうした? まだ寝てなかったのか」


 少し自信なく問うと、相手はぴた、と動きを止め、そうっと再び部屋の中を覗いてきた。やはり相手はイアンで、彼は照明の落ちた宿舎の中、どうやらまだ寝ていなかったようであった。


「ソラヒョン……ごめんなさい、起こしましたか?」


「ううん、今から寝るところだったよ。イアンは?」


「僕……今帰ってきたんですけど、ベッドもどこも空いてないみたいなので、練習室戻ろうかなって」


 ソラヒョン、と俺を呼称したイアンは、変声期前の高い澄んだ声でそう返してきた。囁き合って会話すると、彼は申し訳なさそうに、部屋を後にしようとする。


 韓国では、歳上の相手には敬語を用い、また必ず敬称をつける。年齢序列が鮮明で、歳上は敬うもの、という常識があるからだ。だから、俺より三つ歳下のイアンという彼は、俺の名前――髙田空という俺の下の名前、ソラに、日本語で直訳すると兄さんという意味の"ヒョン"をつけて、ソラヒョンと俺を呼んだ。

 当時俺は高校二年生で、韓国に来てから一年が経っていたようなころだったから、日常会話ならそつなくこなせるほどには韓国語を会得していた。そんな俺に対し、イアンは中学二年、釜山という地方を離れ、ソウルに上京してきたばかりの子で、先に入居していたほとんどが歳上の練習生たちに負い目を感じている節が見られていた。今もそうだ、寝る場所がなければ大抵みんな間に入るとか、無理やり布団を敷くとかするのだけれど、イアンはそうせず、宿舎から出て、朝まで練習室にいようとしている。

 イアン、と彼を呼んで、俺は掛け布団を少しずらした。


「一緒に寝よう。こっちおいで。シャワーは浴びた?」


 イアンはこれに少したじろいで、身を小さくさせていた。黒いぼんやりした影がそのように動く。


「え、えと、はい、浴びてきましたけど……でも、ソラヒョンが狭くなります」


「大丈夫だよ、俺一人だし、二人で寝てもそんな狭くないじゃん。一緒に寝よう、昨日もお前、練習室にこもってたでしょう」


 おいで、と二度目に呼び掛ければ、イアンは数秒うろたえたあとに、扉を開いて、身を滑り込ませてきた。音もなく静かにそこを閉め、足の踏み場もない部屋を慎重に渡ってくる。

 二段ベッドの下段に、それで入ってきたイアンからは、お風呂上がりの香りがした。まだ温かいシャワーの香り、壁側に寄った俺の右隣へと、もぞもぞ収まってきたイアンの髪が、まだしっとりと濡れている。天然でふわふわな様相を見せる彼の髪を軽く手で漉いて、小声で言った。


「濡れてるじゃん。風邪引くよ」


「乾かすの面倒で……」


「まあ、今日はしょうがないけど、次は乾かして寝ないと。体調管理は自分でしなきゃだめだよ、イアン」


「はい、ヒョン」


 近くで彼の顔を見つめ、小うるさくそう言うと、彼はしゅんとしたように頷いた。まだ十四歳のイアンだから、本当なら保護者の監督下にあるはずなのに、練習生の立場となっては仕方がないこともある。こう実感するたび思うのは、一緒に夜遅くまで練習する同じ仲間として、支えられるなら支えたいというエゴのようなものだった。


 イアンはまだまだ小さくて、小柄で華奢で、子犬のような男の子だ。声もまだ高いし、歳上の練習生たちの間で、萎縮し慌てていることもよくある。俺が彼と、どうやって仲良くなったかあまり覚えていないのだが、彼は小さいころからダンスをやってきているのだそうで、当然俺よりもずっと上手かったので、たしか俺から教えを乞うたような気がしている。

 歳上のプライド、みたいなものは、韓国人でない俺にはそこまで強くなくて、一人黙々とダンスをするイアンに、俺がたぶん話しかけたのだと思う。端がいじらしく跳ねている猫目のそこを、ぱちぱちと瞬かせていたイアンは、毎度『この振り付けはどうすればいいの?』と聞く俺に、丁寧に丁寧に時間をかけて教えてくれた。小さな体でそれはもう鮮烈なダンスをするイアンは、歳下なのにとてもかっこいい、可愛い顔をしたそのギャップ、デビューしたらさぞかし人気だろうと思うくらいだった。


 なんとなく、目にかけてしまう弟、みたいな存在だった。彼は練習生期間がまだ三ヶ月ほどで、長くはないけれど、すでに頭が抜けているような存在感を見せている。一年も経つ俺は反して、なんとか周りについていっている現状だった、決して楽ではないこの夢の準備期間、投資する十代という時間の貴重さに反して、必ず実る保証がない。むしろ、デビューできずに事務所を去る仲間の方が多かった。入れ替わりの激しい宿舎で、一年前から見ている顔も、少なくなってきていた。


 もしかすると、イアンもそのうちに、アイドルになる夢を諦めて、親元に帰ってしまうかもしれない。そう思うと、なにかできるならしたいと思うのは、友人や仲間をなくしたくないエゴではあるのだろう。自覚しつつ、掛け布団をイアンの肩までかけてやって、自分も横になったら、イアンは身動ぎして、俺の方に寄ってきた。シーツの衣擦れの音が立つ。


「ソラヒョン、少しくっついて寝てもいいですか?」


 だめならいいんですけど、と付け足された、その弱い声色に、俺はまだ幼く小さいイアンが、夜に抱く故郷や両親への寂しさを見た。高いイアンの声に、自分が親の反対を押し切って韓国に来た頃のことも思い出す。

 すぐ、いいよと言って腕を上げた。イアンはこれでぴたりとくっついてきて、俺の部屋着のTシャツを握ってくる。胸元に顔が埋まる位置だったので、イアンの天然癖毛が顎にそわそわとあたって、少々くすぐったかった。また掛け布団をかけ直して、彼の身に腕を乗せる。抱き込む形になったが、イアンは文句を言わなかった。


 すん、と鼻を鳴らしたイアンが、どこか幼さの強い声で言う。まだ甘えたい時期の歳だと思えば、頭を撫でる手は無意識に動いていた。手のひらにふわふわの毛の感触を受ける。


「ソラヒョン、いいにおいです。いつもそうです、なんの香水使ってますか?」


「うーん? 俺特に、つけてないかもしれない……制汗剤くらい? イアンは、シャンプーのにおいがするね」


「僕、さっきシャワー浴びましたもん。制汗剤かあ、僕、ソラヒョンのにおいすごく好きで……隣でダンスしてるとき、わあいいにおい〜って、いつも思いますよ」


「ふはっ、それ、なんか変態っぽいぞ」


「へへ、ソラヒョン相手にだけです」


 返されたものにも、若干変態っぽさは見られたのだが、イアンが言うと可愛いでしかないから不思議だ。くしゃりと頭を撫で返す。

 イアンは嬉しそうに、にひひっと笑って、俺に額をつけてきた。胸に預かる感触が熱さをみせている、ぽんぽんと手を弾ませたのち、目を閉じて、イアンへと囁いた。


「イアナ」


「はい」


「一緒にデビューしよう」


 "같이 데뷰 하자 "。一緒にデビューしようと、イアンに言った俺を受け、イアンは束の間の空白を挟んでから、囁き返してきた。


「はい、ソラヒョン。デビューします」


 澄んだ質の、綺麗な声が肯定を紡ぐ。ここまですべて、会話は韓国語で、最後のこれも韓国語だったけれど、彼は"したいです"という意味の"하고 싶어요 "ではなく、"します"という言い切りの"해요"を口にした。


 『네 설아형, 데뷰 해요 』――返されたこの、強くて芯のある歳下の言葉に、なぜだか無性に、励まされて力までもらった。優しくイアンの背中を撫でて、うん、と返す。

 おやすみ、イアナ。イアンという彼の名前を、愛称の形で呼ぶと、彼はやはり、はい、と返してきた。すぐに疲れた体は眠りに沈んだけれど、くっつく体温の確かさは、最後まで手の内にあった。デビューしよう、という口癖のような夢への言葉は、俺ら練習生にとって当然で、必然で、そして不確かなものなのに、イアンと交わしたこれには、なぜだか確かさを覚えた。デビューします、イアンの声が夢の中でぼやける。一緒に、と、囁いたのは夢の幻聴か、現実のイアンか、わからなかったが、確かにイアンは、この夜俺と眠りについた。彼と距離が縮まった、練習生時代の夜の一つだった。




***




「あれ、ソラが一人とは珍しいね、可愛い弟はいないのー?」


 練習室の隅で、壁に寄りかかって休んでいた俺の隣に、よいしょ〜とばかり誰かが座ってきた。右を見れば同じ練習生のユチャンがいた。


 十九歳、高校も卒業した俺は、いまだ練習生をしていた。もう四年目になるのだが、ユチャンは俺より二つ歳が上で、今年二十一歳、練習生期間も六年と長い、最年長の一人だった。少し長めの前髪が大人っぽく収まる、実際大人なユチャン――韓国の慣例に則りユチャニヒョン、と兄さん呼びしているが、彼はにこやかに俺へ声をかけてくる。

 足元からペットボトルを拾い上げつつ、はは、と笑って返した。


「それ、もしかしてイアンのこと言ってます?」


「そうそう、ウリイアンはどこにいるのかと思って。大体ソラの隣で忠犬してない?」


 "ウリ"というのは、"俺らの、私たちの"という意味の単語で、俺らのイアンはどこにいるのか、とユチャンは口にした。韓国にはウリナラ文化、私たちの国という意識の慣わしがあるので、仲間意識や共通意識が表出しやすい傾向にある。またやはり年齢にも厳しいのだが、これは歳上を兄として慕い、歳下を弟として可愛がる傾向にもなるために、ウリイアン、などと呼んで、歳下を可愛がることは往々にしてよくあった。


 そんなわけでユチャンが、『ソラヒョン〜! 今日ね、学校でね』とイアンのモノマネをし始めたので、これに不覚にも笑ってしまう。きらきらするような目の取り方が予想外に似ていて、ユチャンの肩を軽く叩いておいた。


「別にそんなんじゃないですよ、たしかに一緒に練習することも多いですけど。たぶん今宿題やってるんだと思います、期末試験があるって」


「あ〜なるほど。そういえば、ヒョンジンもそう言ってた、高校生たちは試験なのね。やあ、懐かしい懐かしい、俺にもそんな時代がありました」


「いうて、三年前くらいじゃないです? ユチャニヒョンだって」


「舐めちゃあきまへんよソラさん、三年前というたらそれはもう大昔の話です。ヒョンはもうアジョッシです、おじさんですよおじさん」


 アジョッシ、中年男性を呼称する単語だが、自虐でそう言うユチャンに首を振っておく。ユチャンはアイドルの練習生なだけあって、やはり顔が綺麗だし、二十歳を超えた色気みたいなものがすごくある。垂れ目と、その下の涙袋、少し大きくな唇が、歳上の魅力なるものを具現化していた。声質も柔らかく落ち着いていて、甘いものなので、きっとこの兄は、アイドルとしてデビューすれば歳上女性に爆受けする。

 それに、ユチャンは練習生期間が長いこともあって、相当な実力者だ。事務所から、次の月末評価――練習生たちが定期的に超える評価の場で、次のデビュー予定のボーイズグループが積極的に選考されると言われている今、ユチャンは確実にその候補一人に見られているはずだった。歌もダンスもトップを切る実力者、特に歌でいうならメインボーカル、歌唱面での支柱メンバーとなれる練習生だ。新グループのメインボーカルはやはりユチャンが最有力だと俺も思う。


 反面、自分がそこに入れるか、と言われればひどく不安だった。今も、苦手なダンスの振りを練習していたところだったけれど、捗ってはいない。普段ならたしかに、イアンが俺の腕を引っ張り上げて、『ソラヒョン〜! 一緒にやりましょう、一緒!』と、明るく空気から底上げしてくれるのだが、今日は前述の通り、学生の本分のためいない。

 ユチャンに言われて自覚した自分に呆れるが、どうやらイアンという弟の可愛さに、だいぶ励まされているようだった。イアンが事務所の練習生として来てからもう二年、あの子も高校一年生になったから、背は伸びたし――と言っても百七十後半なので、俺よりは小さい――声も、声変わりをして低くなったので、小さいままじゃあないんだけれども。天真爛漫で純真で、俺をよく慕ってくれる弟という面では、イアンは二年間ずっと変わらなかった。

 一緒にデビューするんでしょ、と、イアンは俺によく言う。文面には、練習生同士の決まり文句みたいな雰囲気さえあったが、イアンと交わすときだけは、なぜか現実を引き締める言葉となって、俺の気力を立て直してくれる。なんでも俺に、"같이 "と言うイアンは、一緒に、と俺を誘いたがる。


 イアンは、可愛い犬か天使みたいな顔立ちで、ダンスも歌も安定しているので、やはり実力派メンバーに数えられている。十六という年齢もちょうどいい、俺やユチャンは少々、デビューするには遅いかもしれないと思う年齢になってきていた。だから、デビューしそうなイアンと、デビューできなそうな俺を対比させてしまうと、ここ最近とても落ち込んでしまう。もう四年目、韓国で夢だけ追いかけて走って来たが、もしかすると、潮時なのか、とも思うくらいに。

 水を口に含んで、キャップを閉める。膝に腕を引っ掛けて、ぷらぷらと手首を揺らし、ボトルも揺らすことで、思考を紛らわせた。ユチャンがそんな俺に言った。


「ソラも、次デビューできるんじゃない? 五人組だって言われたじゃん、そう考えると、ソラがひと枠でよさそうだよ」


「あ〜、はは、どうですかね。五枠しかないうちに、俺が入れるところがあるかな、と思います。ヒョンくらいの実力があれば問題ないですが」


「自信持って。正直、四年前からいる顔なんて、ソラ以外にもうほぼいないじゃん。俺とソラと、あとジフくらい。あとはほかの事務所に移ったか、辞めたかだからさ、俺もソラもよく頑張って来たし、デビューしようよ。俺はソラとならやっていけそうだなと思うよ。弟にソラがいたら、すごくグループがまとまりそうだもん」


「じゃあ、ヒョンがリーダーやるんですか?」


「まあ、ほぼほぼ俺が最年長でしょうからね!」


 前髪をかき上げながら、にかっと笑うユチャンにつられて笑う。眉を下げて「じゃ、頼もしいですね」と言えば、ユチャンはにこにこと頷いた。


「でしょ。だから頑張ろ、あと少し。俺とソラと、あとイアン、どう、三枠これで」


「ばっちしです、問題なし」


「や〜わかってんね。さ、もうひと踏ん張り……と、噂をすればビタミンが来たね」


 よいしょ〜と立ち上がったユチャンは、腰に手を当て体を伸ばし、切り替えの言葉を口にしたが、ふいに練習室の扉へ顔を向けた。ビタミン? と俺もそちらを見れば、ちょうど扉が開く。廊下から声が漏れてきた。


「ヒョンジニヒョン遅い! 早くしてください!」


「あ〜引っ張んないでったら……」


 わらわらと騒いで入ってきたのは練習生の弟たちだった、噂をすればとはまさにである。イアンと、イアンに腕を引っ張られて入ってくるヒョンジン、高校生組の二人が、騒がしくやってくる。


 ユチャンに次いで立ち上がった俺は、軽く足首を回しつつ、練習の再開に移ろうとしたのだが、練習室の壁際に大きいリュックを投げたイアンが、トイプードルみたいな髪の毛をふわふわさせながら、一目散に駆け寄ってきたので、思わず瞬きしてしまった。彼は背後に、あれだけ引っ張って急かしていたヒョンジンを置いて俺に寄ってくる。


「ソラヒョン〜! よかったまだいたぁ! お疲れ様です!」


「おお、お疲れイアナ、勉強終わり?」


「はい、そんなのもうちゃちゃっと終わらせました! ソラヒョンこれからダンス練習ですか?」


「ちゃちゃっと……まあ、ちゃんとやれよ、試験前なら尚更。俺はうん、ダンス練習」


「僕も一緒にやります! よかった〜、ソラヒョン帰っちゃうから早くしてって、ヒョンジニヒョンのこと急かしてよかったです」


「急かしてって」


 荷物を置くヒョンジンをちらと見やる。彼はストレートの髪の毛を疲れ気味に掻きながら、俺の視線に気付いて軽く頭を下げてきた。俺も軽く手を振り返して、おつかれ、と言っておく。


 イアンは今度、俺の右手首を掴んで、「ヒョン早く!」と急かしてきた。ヒョンジンの次は俺か、と苦笑がこぼれたものの、ユチャンはすでにイヤホンをして練習再開していたので、のんびりする暇もないと思い直す。イアンは更衣室で練習着に着替えてきていたので、白Tシャツに青いハーフパンツと、馴染みの格好をして俺の隣に立った。黒いハーフパンツの俺と、鏡に並んで映る。

 出会った当初は顕著だった身長差も、今では五センチ程度の幅に縮まっていた。変わらず天然癖毛のふわふわ頭なイアンは、猫目でぱっちりしたそこをきらきらと瞬かせて、鏡越しに俺を見る。視線を返せば、イアンは可愛らしく笑ってきた。


「えへ、ソラヒョン〜今日もいいにおいですね!」


「やあ、それは変態チックだって言ってるだろ、俺が『イアナ今日もいいにおいだね』なんて言ったらどう思う?」


「嬉しくてハグしに行きます!」


「あ、そうなの……」


 "야아 "と、文頭につけて返すのは少しからかいを含めるときだ。現に片眉を上げてからかったら、予想外の返しをされてこっちがからかわれた気分になる。しかも相手は満面の笑みなので、本気で言っているのかもしれない。微妙な胸中になったが、とりあえず、可愛い弟の頭を撫で返しておいた。

 これにも嬉しげに目尻をくしゃっとさせるイアン、「ヒョン、今日はこの動きとか練習します?」と言って、今日俺が何度も練習していた動きを軽く実演して見せた。やや目を見張り、「おお、うん! 俺それをずっとやってんだ」と頷く。


「でもイアンがいなくて気がゆるんでさ。付き合ってくれるの?」


「もちろんです! 僕もやりたかったですから! 一緒にやりますソラヒョン〜!」


 イアンの声は、低く変わった今でもどこか愛らしくて、自然と笑みが漏れる感じのものだった。上京して数年なのに、釜山という土地の方言が影を残しているからかもしれない、独特なイントネーションは愛嬌に昇華される。ああ、この子もきっと、デビューしたならヌナ(男性が歳上女性を呼称する際の単語だ)に大人気間違いなしなのだろう。


 そんなイアンが、変わらず俺を慕って、ソラヒョンとそばに来てくれるのが嬉しい。鏡越しで、端正な可愛らしいイアンの顔を見つめた俺は、"一緒に"と何度だって言ってくれるイアンへと、本心から笑った。


「ありがとう。一緒にやろう、イアナ」


「はい、ソラヒョン!」


 にひひっと、歯を見せて笑うイアンは、よく頷いて、一緒に練習をしてくれた。




***




 数ヶ月後に、正式なデビューメンバーが確定され、報告された。なんとそのデビューメンバーに自分が入っていたので、聞いたときはあまりの嬉しさに夢か死んだかと思ったぐらいだった。実感が湧いた数時間後、夜中に一人、宿舎のリビングで泣いて、日本に住む母へ電話をかけた。本当久しぶりに日本語で、デビューが決まったよと言ったとき、母はしばらく無言を通したあと、おめでとうと言ってくれた。声が涙ぐんでいて、もう二年は帰っていないことに、瞬間ぐっと申し訳なさが押し寄せた。


 俺も目元を拭いながら、落ち着きを取り戻そうとしていた、そんなところに足音が聞こえて、ぱっと顔を上げる。リビングに入ってきた練習生、薄暗がりの中で目を凝らして、小さく問いかける。


「イアン?」


 泣いたあとだったので、やや声が掠れた。それでも相手には拾われたらしく、はい、と返される。声はやはりイアンだった。


 イアンは俺のそばまで、足音を忍ばせながら寄ってくる。カーペットの上、あぐらをかいて一人泣いていた兄を見て、なんと思っただろうか。情けないところを見せて申し訳なく思いつつ、スマホを背後に転がす。そばまで来たイアンの顔が、暗い中で見て取れるようになった。もとより俺の目は、もう暗がりに慣れていて、少し凝らせば先が見えた。

 部屋着のイアンは、もう寝ていたのかもしれない、あるいは水でも飲みに起きてきたのかもしれなかった。俺の正面に膝をついて、顔を合わせてきたイアンは、まずなにも言わないで、瞳だけ俺にくれる。


 二重の、可愛らしい猫目は、感情の起伏を乗せないとき、案外鮮明さを強くさせるのを知っている。イアンの目つきは悪くないが、少しつり目がちな猫目だから、見つめられるとそれが際立つのだ。真剣な目、表情、見られて、ゆっくり瞬きする。

 少しして、そっと話しかけた。


「寝られない? ごめん、俺の電話の声がうるさかったかな」


「いいえ、大丈夫でした。ソラヒョンが起きてるって知って、起きてきただけです」


「……そっか」


 はい、とまたイアンが言う。交わす沈黙、なんと言うべきか、探す間もイアンは俺を見つめてくる。



 なんと言おう、そう考えた先で、まずイアンが言ってきた。青年らしい爽やかな低さの声が囁く。


「ソラヒョン、少し、ハグしてもいいですか?」


 俺は瞬きしたけれど、イアンは瞬きしなかった。だめならいいんですけど、とも、付け足してはこない。彼に頷いて返し、無言で腕を上げた。広げて示せば、イアンも俺に手を伸ばしてくる。


 背中に回った手が、確かめるように俺の背中を撫でていき、次に腕が回ってくる。俺も同じに腕を回して返した。イアンは俺の首筋に顔を埋めてくると、擦り付けるように動く。間近で香るシャンプーのにおい、変わらないメーカーのそれは、俺にとってイアンの香りと同義だった。イアンが腕の中で、すん、と鼻をならしてくる。


「いいにおい。ソラヒョンのにおいだ。……僕、ソラヒョンのにおいが一番好きなんです。どこにいてもわかるし、誰かがソラヒョンの服借りて着てると、あって思います。思うから、あんまりほかに貸さないでください、ソラヒョン」


 すう、と息を吸い込んだイアンの呼吸音が聞こえる。言葉と重なって、自分のにおいを嗅がれている気分になってそわそわしたが、やはり言われていることにもそわそわした。小さく笑って、イアンの背中を叩く。


「お前は勝手に、俺の服借りていくのに? いつもパーカーがなかったりするよ、ユチャニヒョンがそれで、イアンが持ってってるって教えてくれるんだから」


「僕はいいんです。だってソラヒョンのにおいが好きだし」


「なんだそれ、においが好きって」


「それに、ソラヒョンも好きです。ヒョン、僕ソラヒョンのこと一番好きです」


 噛み締めるような言い方に、思わず喉が詰まった。韓国では、同性同士のこういうスキンシップ、ハグみたいなものは、日常的にあって変でもないし、すぐ、好きだ愛してると、好意を口にすることも変ではない。日本にはない、率直な触れ合いがある国だ、そういう文化は嫌いじゃないし、そうやって、真っ直ぐ慕ってくれるイアンも嫌いじゃない。俺も、言うなら可愛い弟のイアンが好きだ。


 一番好き、の言葉は、どこから来ているのだろう。数年、同じ事務所の練習生として、同じ宿舎のメンバーとして、切磋琢磨してきた兄と弟の関係、仲のいいこれは、どこから始まったのか。本当、他愛無い練習室でのやり取りから、練習を一緒にするようになって、一緒に寝るようにもなって、一緒にご飯を食べるようになって、そうやって、一緒に暮らして夢を追いかけてきて、たぶん、俺がユチャンや、ほかの練習生たちと交わす何気ない日常を、イアンとも共有してきただけだ。でも、イアンは俺を、一番に慕っているという。


 俺も、イアンを特別に可愛く思う。抱きしめてくる彼の腕の強さ、体温の熱さ、香りの鮮明さに、胸が締まって仕方なかった。苦しいほど、彼が愛おしい。可愛い弟、愛すべき仲間、一緒にいたい相手。やっと、言うべき言葉が見つかった気がした。耳元で言った。


「イアナ。一緒にデビューできるね」


 すん、とまたイアンの鼻がなる。ぐり、と額が首に当てられた。


「はい、ソラヒョン。一緒にデビューできます」


 痛いくらいに抱きしめられても、それが嬉しい。むしろ同じぐらいの力を返して、イアンを抱きしめる。吐息で笑うイアンは、嬉しげに綻ぶような声で、ソラヒョンと口にした。


「夢みたいです、夢が叶って、ヒョンと一緒なの、夢みたいです。ずっとそれが夢だったから」


「俺も、夢みたいで嬉しい。イアンと同じグループでデビューできるの、すごく嬉しいよ。本当、ここまで一緒に頑張ってきてくれて、ありがとう。お前がいなかったら、俺日本に帰ってた」


「僕こそ、ソラヒョンがいてくれなかったら、泣きながら実家に帰ってました。ヒョン、いつも僕が、お母さんに会いたいって泣いてたとき、すぐ気付いて、そばまで来てくれたでしょ? それで、一緒に寝てくれました。だから、ソラヒョンのおかげです。ありがとうございますソラヒョン」


 改めて口にされて、初めて自分がイアンの支えに、少しだけでもなれていたのを知ることができた。イアンは今でもまだ十六になる幼さだ、十四歳のころに親元を離れて、余裕なく練習に励む、不安定で不鮮明な日々は、多くの不安と寂しさをイアンにもたらしただろう。母親に会いたいと泣くイアンは、帰る暇すら持たないで、練習ばかりしていた。それでも会いたくて泣く夜があって、俺も気持ちがわかってしまったせいで、よく一緒に寝ていたものだ。"엄마 보고 싶어요 "と、寝言のように、会いたくて泣いていたイアンの頬を、袖で拭った記憶がある。


 そんなイアンと、同じ事務所の、同じグループでデビューができる。正式メンバーの五人に、俺とイアンは入ることができた。ずっと、一緒にデビューを口癖に、お互い頑張ってきた間柄だった、現実にそれが叶った今、嬉しくて、なんと表現すべきかわからない。この先も一緒にいられるのだと思えるのは、どれだけ確かな幸せだろう。夢が叶った、そうイアンが噛み締める気持ちはよくわかる。

 デビューしよう、という口癖のような夢への言葉は、俺ら練習生にとって当然で、必然で、そして不確かなものだった。今ではそれが確かなものと変わっている。しかしイアンと交わしてきた言葉は、ずっと何年も、確かな現実の道標として存在していたように思う。一緒に、と言うイアンと、俺は一緒にデビューするために、先の見えない練習生を続けていた。


 イアナ、と呼ぶ。はいと返してくれる、腕の中のイアンがありがたい。


「ありがとう、頑張ろう、同じグループで。一緒に、ずっと」


 イアンはぎゅうっと俺を抱きしめて、ソラヒョン、と、真っ直ぐ一色な声で言ってきた。


「一緒にいます、ずっと。ソラヒョン、愛してます」


「あは、ありがとう。俺も愛してる」


 愛してる、だなんて、日本にいたころじゃ家族にさえ言わなかった。"사랑해 "という韓国語は、しかしここでは日常的に使われる。好き、よりも、愛してる、が馴染み深いこの国だ。その文化に感謝した。勘違いなく、間違いなく、イアンへの感謝と想いが届く言葉は、愛してるに尽きる気がする。


 思い出深い夜の全部、一緒にいるイアンが、この先もずっと一緒なことに、彼を抱きしめながら感謝していた。

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