間話:天狼と蛇
終の住処と定めた、山の中腹にある鍾乳洞の中。
いつものように夢現にあった意識が、不意にはっきりと覚醒した。
懐かしい者の気配が、こちらへと近付いて来ている。
いや……厳密には、知っている者……今は手も届かぬ彼女と、全く同じというわけではない。しかしとても良く似通った、その魂の波長だった。
麓に暮らすヒトの長と、何年かぶりに言葉を交わして早数日。
ここ数日ずっと眠っていたためにだいぶ強張っていた首を上げる。
――我は、ただの年老いた一頭の幻獣、セイリオスだ。
何百年か昔は、世界の守護者たる種族を束ねる御子姫……
だというのに、この幾百年の時を経て、よもや再び
そういえば……何やらここ数日静かだと思ったら、自身の
……天狼とも称される、竜種とすら並び数えられる最上位の幻獣『セイリオス』。
その生態系は人にとっては謎に包まれているが……実は、生殖によって増えることは滅多にない。
彼らは自らの死期を悟った時、自身の力と資質の大半を譲渡した自らの分身たる『子』を作り上げる。
そうして後の世へと残すのが、彼らセイリオスの生態だった。
そして……例に違わず子を残した彼女も、もはやその寿命は長くない。
我が子は……反応を探ると、だいぶ離れた場所、人里に程近い山の入り口あたりに居た。
どうやら今は、かの者……ついに現れた、
――我の身体の治療を頼むために。
もはや思うように体は動かず、今では数日眠っては偶に目覚め、また眠る……そのような生活を送っているこの身だ。
故に、たとえ世界最高の治癒の力を持つ者を連れて来たとしても、この体は……老衰に蝕まれたこの体はもう元に戻ることは無いだろう。
だが……それでも、我が身を案じてくれる、我が子の気遣いは嬉しい物だ。
ただしそれが――このようなタイミングでさえなければ、だが。
僅かに揺れた空気が、髭をくすぐる。
だが、それは待ち望んでいた来客が立てた波ではなかった。
……全く、本当に最悪だ。
不躾にも巣穴に入り込んできたその人物……フードを目深に被った男の顔を、ちらりと目だけで一瞥して……フンッ、と忌々し気に短く鼻息を吐いて、元の眠る姿勢を取る。
「……は、相変わらずだな、犬っころが。年老いても人の神経を逆なですることだけは一級品だな」
さして気分を害した風もない……自分の方が上位であると確信している傲慢さ故の態度で、男が文句を言う。正直、相手をするのも億劫だが……
――はぁ……幾星霜の果てに、久々の待ち人が現れるのを待っていれば……随分と、懐かしい顔の招かれざる客が現れたな。
視線の先に居る、一人の男。
一見すればどこにでもいそうなちっぽけな存在に見えるが……見たままの存在ではない事は、相対すればよほど鈍い者でも無ければ一目瞭然だ。
「ふん……懐かしい獣臭い匂いがすると思えば、そちらこそ、まだ生きていたとはな」
――貴様こそ、随分と嫌な匂いがするようになったものだ。
本当に嫌な匂いだ。
世界を壊す、蛇の匂い。
――我は、昔から貴様の事が大嫌いだった。
そんな自分の言葉に、眼前の男が皮肉げに嗤い、口を開く。
「知ってるよ、そんな事。お前はいつもいつもいつも、彼女にずっとベッタリだったくせに、側にいる僕には全く警戒を解かなかった」
――そうだな……実のところ、貴様のことは、能力と……あと、彼女の敵になることはない、という点においてだけは認めてはいたのだが。
「へぇ? 初耳だね」
心底意外そうに言う男。
当然だ。私はこの男が大嫌いだったのだから。
何故ならば……彼女が、誰よりも――自分よりも、この男を慕い、信じていたから。
詰まるところ、嫉妬していたのだ。幻獣である自分が、ヒトであるこの男に。
それは……まだ若い時は決して認めることはできなかったが、今であればよく自分のことが分かる。
全て、この男を認めていたからに他ならなかった。
――だが……同時に、貴様は危ういとも、ずっと感じていた。貴様の彼女に向けている視線は、偏執的に過ぎた。彼女が居なくなれば、恐らくはろくでもないことをしでかすに違いないと。そして、それはどうやら……間違いではなかったようだな。
そう吐き捨てる。
尤も……この男の想いも分からないでもない。
自分ですら、あの当時はこのような世界、壊れてしまえと荒ぶっていたのだ。
だが……だが、それでも、これだけは、この在り様だけは認めるわけにはいかない。
こいつは、彼女の最後の願いすら、自分の妄執のために踏みにじった。それだけが、どうしても許せなかった。
――よりにもよって、貴様、そのような物に身をやつしたか……!
そう荒ぶる思念を叩きつけて、病床のセイリオスが吠える。
それに反応し、男の首に巻き付いていた黒い蛇が、しゃあ、と声をあげてこちらも威嚇を始める。
しかし……男の手がその頭をひと撫ですると、不承不承ながらも元の態勢へと戻り、目だけでセイリオスの様子を伺い始めた。
「それで、どうする? ここで僕を止めて、世界を救ってみせる?」
おちょくったようなその言葉に、一つため息をついて怒気を霧散させた。
――やめておこう。こちらは隠居の身だ。今更人の世に関わるつもりはない。だが……あまりにも目に余る行動を取るのであれば、この衰えた身で少々無茶をせねばなるまいよ
「……昔ならともかく、今更僕に勝てるとでも?」
その言葉に、黙り込む。
悔しいが、男の言葉に間違いはない。もはや、自分ではこの男は止められないだろう。
往時の力は、何割も残っていない。
直死の力を持つという魔眼も、死を呼ぶという咆哮を上げる声帯も、もはや小さな分身へと受け継がれ、殆ど無いも同然だ。
老いという終焉を間近に控えた自分と、人を捨て、生物である事すらも捨てた眼前の男では、まともに勝負にもなるまい。
だが、それでも――
――貴様は小賢しい小僧だが、どうにも自分の事ばかりで分かっておらんな……貴様以外にも、大事な物を守ろうと死に物狂いで立ち向かってくるものが居る、という事を。
それは、かつてはこの男も持っていた、この男を支えていた強さであったはずなのに。
「くだらない。その程度で……たかが少しの人間がちょっと死に物狂いになったところで、この僕が止められるものか」
そのまま、双方黙り込む。
てっきりこの場で何百年の因縁に幕を降ろされるのかと思ったが、どうやら本当に偶々訪れたらしい。男はこの死に損ないにトドメを刺すつもりではなかったようだ。
だからこそ……遠くから接近してくる我が子とその連れの気配に、忸怩たる思いで舌打ちする。
目に留まりさえしなければ……この男は興味すら持たなかっただろうに……と。
「ああ、なるほど、そうか……これが、君の言う客か」
気付かれた。
気がついた以上、この男はあの存在を、まだようやく育ち始めたばかりの少女の光を見逃しはしないだろう。
咄嗟に飛びかかろうとしても、老いたこの身が動くより早く、蛇のように笑うその男の姿が空に浮かび上がった。
襤褸切れのような、まるで虚無を表すかの如く黒く輝く三枚の背中の翼で。
もやはこちらに興味は無いと言うように飛び去るその影を、恨めしげな唸り声を鳴らしながら見つめる。
――なんという、運の無い当代か……先代の彼女はむしろ、逆に何事も運で乗り切る様な娘だったというのに。
やれやれと病身に鞭を打って、重い腰を上げる。
何が出来るかは分からないが、微かに感じる、懐かしい匂いによく似た者の下へと馳せ参じるために。
ようやく芽生えた希望を、摘み取らせないために。
【後書き】
この作中におけるセイリオスは、発する声に死を招く力があるため普段は口を開かず、念話で会話しています。読みにくかったら申し訳ありません。
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