あの日の八〇三号室は
雪平 蒼
染まる風船
青い逆光で彼の表情は見えなかった。
「どうしておれは生きるの」
白い浮遊物を背景に、冷たいフローリングに座る小さな影が言った。
午前一時を過ぎた頃だった。
一時間ほど前、俺は夜な夜な彼の滅多にない電話で呼び出され、地下鉄に乗ってこの部屋に来た。
彼の心は病に侵されている。だからこんなのはよくあることだ。
予め教えてもらっておいた数字でオートロックの玄関を抜け、八〇三号室のインターホンを押した。しかし彼は出ない。
三回押したところで、嫌な予感がした。最悪の事態ばかりが脳内を支配した。
俺はこわくなって急いでドアノブに手を掛けた。すると案の定鍵は開いていて、真っ暗な廊下を歩いてゆくと鼻をすすりながらLEDライトで照らされた水槽に寄りかかる彼が見えた。
暖房もなにもついていない寒い部屋の隅っこに置かれた、無駄に大きな水槽。そこにいるのは淡水魚でも熱帯魚でもなく、ぷかぷかと浮かぶ白いクラゲだけであった。
もう俺にとっては特に珍しい景色でもなんでもない。ただ、青や緑や紫にゆっくりと変化するライトの色が彼を染め上げるのは何度見ても美しいと思う。
「どうしたの」
どうして呼ばれたのかなんて最初からわかっているけれど。
俺は、いつものように聞いた。
優しく聞いた。
「いやな夢をみて、ねむれなくって」
彼は幾度も自らをクラゲに例える。脳みそのないクラゲと無能な自分はとてもよく似ている、と。
虚ろにフローリングの木目を見つめたまま、彼の頬は青に染まった。
「泣いちゃうくらいいやな夢だったの?」
「そうじゃ、ない。泣いてない、泣いてないよ、さみしいだけ。それだけ」
うそつきな唇から紡がれる震えた言葉はやけに冷たくて、木枯らしの温度と同じくらいだった。
「どうして、さみしいの。ねえ、おれどうしてこんなに、ねえどうして」
少しずつ壊れていきながら自分に問いかけるように小さく悲しげに呟いて、ふと俺を見上げた。
紫色に染まる彼の瞳が俺を捉えた。
「どうしておれは生きるの」
ぽたり、泣いた。
青色の涙だった。
俺はその問いにうまく答えることができなくて、未だ水槽にぼんやりと寄りかかる彼を抱きしめた。彼は小さくびくりと跳ねたけど、受け入れてくれたようだった。
今の俺にはこんなちっぽけなことしかできない。それが悔しくて悔しくて仕方ない。
彼は身を強ばらせながら、か細い声で言った。
「ごめん、ごめんなさい。そばにいてほしい、そばにいさせて」
黙って頭を撫でてやると、俺の背中に食い込む爪の強さが緩んだ。
ぽろぽろと俺の肩に緑の雫を流した彼の目は一瞬三日月になって、俺の唇は奪われた。
「あいしてる」
耳元で囁かれた重い鎖にすがるように、もう一度口付けた。
青い逆光で彼の表情は見えなかった。
白い風船はもう紫色に変わって、ふらふらと泳ぐだけだった。
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