六月の終わりに春を想う

口一 二三四

六月の終わりに春を想う

 雨音が消えて顔を上げる。

 部屋に入る風は未だ湿気を帯びているけど、網戸越しの空に微かな切れ間を見つけることができた。

 これで月でも覗いていれば詩的だったのに、とぼやいて席を離れる。

 パソコンに映るのは最近流行の病の話。それも数分で殺風景な部屋を反射する黒い鏡に変わる。

 家から一番近いコンビニまでの往復。

 スリープモードの起動には十分な距離と時間だった。

 机の上に置かれた財布と鍵を手に取る。短い廊下を歩きながらスマホがポケットに入っているか確認。

 履き慣らした靴の隣に並ぶサンダルへ足先を通し、玄関のドアノブにぶら下げていたマスクで顔半分を覆う。

 いい加減慣れてもいいぐらいには身に付けているのに、こうでもしないと存在を忘れてしまう。

 それだけ自分には馴染みの薄いものだったんだと改めて理解する。

 たいした物も置いてない部屋に封をする。

 アパートの階段から濡れた地面に足を踏み出せば、二の腕と目元に雫が落ち、止んだと思った雨がまだ止んでいなかったと気がつく。

 切れ間は本当に切れ間だったんだろう。傘は必要ない程度だが、またいつ大降りになるかわからない。


 引き返すのはなんかもったいない。

 行って帰るまで持つかわからない。

 傘を差しながら歩くのは面倒臭い。


 とりあえず進みながら、家とコンビニの丁度中間にある自販機に目的地を変える。

 本当は何かお菓子でも買うつもりだったけど、それはまた明日。

 晴れたら晴れた時にでもと妥協した。



 羽虫と雨粒を払い購入ボタンを押す。

 引き出し口に落ちるペットボトルと釣り銭の音。

 一枚一枚落ちる一定のリズムで小銭の中に五十円玉が無いことを知った。

 ペットボトルの蓋を開け、マスクをずらして一口飲む。

 釣り銭口から少しはみ出る百円と十円を両手で回収して財布にしまう。

 街灯に照らされるか照らされないかの位置に佇む自販機は、自らが発する光で自分と、反対の公園側に生える桜の木をライトアップする。

 夜の中揺れる枝葉は春になると満開の花を咲かせ、花見を理由に通行人を公園へと誘い込んでいた。

 敷地内でビニールシートを広げ、酒や食べ物を囲んでの宴会。

 カップルも家族連れも新年会もおひとりさまも関係無く、多分自分がここへ住む前から続いていたであろう光景があった。


 それも、ここ最近は見ていない。

 自粛という縛りが今まであった日常を幻に変えた。

 こんなご時世だからと遠慮する心が、こんなご時世にと睨みを利かせる目が。

 巡るはずだった楽しみをせき止めた。

 仕方ないと言えばそう。

 我慢の時と言えばそう。


 ――でも。

 これまで有ったことを無かったように、無かったことを有ったようにして振舞うのは。

 すっかり日常となったこのマスクと一緒で、どうしようもなく息苦しいものであった。


「……いつか」


 戻ってくるんだろうか?

 この息苦しさを耐えた先。

 この窮屈さを忍んだ後。

 前みたいな、前以上に。

 誰も彼もが解放された、ホッと息抜きのできる毎日が。


「戻って、くるといいんだけどな」


 ずらしていたマスクを元に戻す。

 風に乗った小雨が頬に当たり、マスクのヒモを濡らす。

 歩き出せば、どこかの軒先から紫陽花が見え。


 この色もそろそろ見納めかと物悲しくなった。

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