第33話「理を越える慟哭」
光と闇が拮抗する戦いがあった。両者は互いに譲らず、それぞれの宝具と権能の限りを尽くして激突を繰り返した。
世界そのものであるサフィーラとルビエラ。混沌より出でし二柱の神が真正面から衝突すればどうなるか。
答えは単純にして明快だ。
光の世界と闇の世界、両者に罅が入る。闇の世界に閃光が走る。光の世界に影が落ちる。
魔界と呼ばれる世界で天地が鳴動し、魔王たちの眷属が恐怖の渦中にいる頃。人間界でも同じく、海が割れ嵐が天を割き、大地からは赤き憤怒が吹き出していた。
永遠の栄華を確信していた人間達は、突如として表れた神の怒りに混乱し、悲鳴を上げ、そして許しを請うた。そこに女神が居ないことも知らず、知ることもできず。
送り出した勇者たちは未だ帰ってこない。不死身の戦士たちは魔界の迷宮で今も勇猛果敢に戦いを繰り広げているはずだ。彼らが勝利をつかみ取れば、その暁には再び世に平穏が訪れる。
そう信じ、そう祈ることしか、人間達にはできなかった。
「死に晒せぇええっ!」
「うるっさいわね!」
異形の女神がいがみ合う。両者が衝突するたびに、世界が破砕されていく。
人々の信仰を一身に浴びた女神が吠える。万物の死を受け入れる女神が叫ぶ。
光と闇がぶつかり合い、混ざり合い、渾然一体へと還っていく。世界が分かたれる前の状態へ。全てを飲み込む混沌へ。
「っ!? まさか、テメェ!」
「今更気付いたの? 光の女神も頭がボケてきてるわね」
熾烈な攻撃を加えていたサフィーラがあることに気がつく。鋭く睨み付ける彼女に、ルビエラはにやりと口角を上げる。
「貴女が死にたくないなんて駄々を捏ねるから、私が手伝ってあげてるのよ」
「クソ! クソクソクソ!」
戦いは止まらない。
動きを止めた瞬間に刈り取られ、勝敗が決してしまう。勝者は敗者の世界へと侵蝕し、そこにあるもの全てを蹂躙するだろう。敗北は、死を越えた消滅を意味する。
しかし、戦いを続けることもまたサフィーラは避けねばならない。
戦いを続ければ続けるほど、争いが長引くほど、
混沌に帰してしまえば、人間も不死者もその存在の根底から崩れてしまう。
「さあ、選びなさい。魔界に侵蝕されるか、混沌に立ち返るか」
「どっちも願い下げよ! 私は、テメェを殺して人間を完璧な種族に完成させる!」
光の勢いが強くなる。秩序が崩壊するよりも早く、ルビエラを殺すしか、彼女に活路はなかった。
金銀の戦斧が風を切る。ルビエラの首を挟み込み、滑らかに断ち切った。
「ぎゃああっ!? 痛いじゃないの!」
「うるせぇ! 死ね!」
しかし、首を断った程度で死ぬほど、古代の神は生やさしいものではない。悲鳴を上げながらルビエラは即座に再生し、二本の槍をサフィーラの胸に突き刺す。
サフィーラはそれに構わず、ルビエラの翼を潰す。
「クソ! 汚い、穢らわしい! 私の中に入ってくるな!」
戦いが続くほど、混沌は近づいてくる。
光に満ちていたサフィーラの身体に黒い染みが広がっていく。同時に、ルビエラの褐色の肌に白い斑点が浮き上がる。
「さあ、時間が無いわよ」
「うあああああっ!」
そこに神の威厳はなかった。穢らわしい闇を払い、忍び寄る死を押し退け、惨めで憐れで生き汚い自尊心だけを露わにした愚者がいた。
二人の身体が混ざり合う。
光と闇が、重なり始める。
「嫌だ。イヤだ。いやだ。戻りたくない。あんなの、イヤだ!」
個々の区別が無く、全てが曖昧で、輪郭のおぼろげな世界。混沌という無秩序が支配する無色透明な場所。
あらゆる可能性がありながら、一切の変化が許されい虚無の空間。
二人の女神が交わるほどに、互いが調和してゆくほどに、原初の世界は近づいてくる。
「――ァァ――――ァッ!」
それは、か細い声だった。
「ッ!?」
「死ねっ!」
その声を聞いた時、ルビエラの動きが僅かに止まる。その極小の隙を逃さず、サフィーラが斧で彼女の胸を割る。豊満な果実の奥にある、瑞々しい赤色の――。
「死ぬのは、貴女も一緒よ」
熟れた赤が潰れたその時、鮮やかな紅色の唇が弧を描く。消滅を始める闇の女神が、その状況に似付かわしくない妖艶な笑みを浮かべたことに、光の女神は訝しむ。
「何を――かはっ!?」
真意を問い質そうとしたその時、サフィーラの口から鮮血が溢れ出る。彼女は瞳孔を開き、燃える瞳でルビエラを睨む。
「私と貴女は、元を辿れば、同じもの」
肌がひび割れ、至る所から血を流しながら、それでもルビエラは艶やかに笑みを浮かべる。彼女の言葉にサフィーラは目を大きく見開いた。
「光と闇、生と死、神聖と汚穢、善と悪。全ては表裏一体、どちらかが欠ければ、もう一方も成り立たない。そんな基本も忘れたの?」
ルビエラの身体が灰燼に帰していく。ボロボロと欠片が細かく砕かれていくにつれ、サフィーラもまたその身体を崩壊させていた。
「そんな、まさか――いや、イヤだ! 私は!」
「お互い、色々溜め込みすぎたのよ。ここらで一度、さっぱりしましょう」
「お前に何が分かる! 穢れと澱を溜め込んでばかりのお前に! 私の可愛い人間達が死んでしまう! この、この――!」
二つの神が重なり合う。混沌が近付き、個の境界が薄らいでいく。
ルビエラとサフィーラは、もはや一柱の神となっていた。腰より下は完全に癒着し、サフィーラは四本の腕で引き離そうと藻掻くが、否応なく一つに収束していく。
「一緒に死にましょう。サフィーラ」
二柱の女神がひとつになる。
互いにぶつかり合い、そして共に消滅する。
あとに残ったのは、虚無であった。
「――――ァァッ!」
沈黙すらも存在しない完全なる無のなか、あるはずのない声が細波のように広がる。
「――アアアアッ!」
その声は次第に大きくなり、無を揺らす。揺るがす。
耳を劈く、絹を裂くような悲鳴。甲高く、本能的な恐怖を呼び起こす声。生きとし生けるもの全てを殺す声。無生物すら殺す声。世界すら壊す声。
「アアアアアアアアアアッ!」
――死せる者すら、殺す声。
「……泣いてくれてるのね、私のために」
虚無の中に、彼女は揺蕩っていた。
おぼろげに霧の掛かった思考のなか、僅かだが意識が覚醒していく。深い水底に沈んだような静寂がそこにあった。
懐かしい声がする。愛おしい声がする。愛らしい声がする。
彼女の死を悼む嗚咽が聞こえる。
存在の忘却に抗う悲鳴が聞こえる。
「ああ、いたいた。やっと見つけましたよ、ルビエラ様」
黒い羽が、彼女の頬に落ちてきた。
果てしない虚無を越えて、一羽の烏が飛んできた。
茫洋たる無辺の混沌を飛び、ただ一人の魔王を探し出す。死なず、どこまでも羽ばたき続ける、黒羽の観測者。
彼女は混沌の中に己の主を見出した。見られたということは、認められたということ。認められたということは、認めたということ。存在がそこに証明された。
「帰りましょう、ルビエラ様。皆様がお待ちです」
「……そうね。……帰りましょう」
仰向けに浮かんだまま、ルビエラは気怠げに言う。
烏は彼女の腹に飛び下り、羽を畳んだ。
「でも、少しだけ眠らせて。少し、疲れたわ」
「ええ。存分にお休み下さい。ここは時間もありませんから、いつまでもごゆるりと」
ルビエラは重い瞼を閉じる。
鉛のように動かない身体を水の中に沈め、泥のように眠る。
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