第39話 成り代わった男
槙坂
普段はそんな事を気にする兄じゃあないのに……そう思ったが結局春次は兄の言いなりになった。歳の近い兄弟ゆえに、時々力を伴った衝突もしばしば頻発していた。膂力がものを言うこの争いでは、ほぼ毎回兄に軍配が上がる。しかも今は酒が入っているから、なおさらいう事を聞いた方が得策であろう。
「ちょっと怖い話をコンパの時に聞いてだな……それが尾を引いているんだ」
布団に入る際、幸信は弱弱しい口調でそう弁解した。粗暴な面が目立つ兄にしては珍しく、しおらしい態度であった。
※
その夜以来、春次は幸信と相争う事は無くなった。厳密に言えば兄の幸信が弟にいちゃもんを付けたり、逆に突っかかって来る春次に激したりしなくなったのだ。怒りっぽさが格段に抜けたようだった。大分穏和になったとも言いかえる事が出来るだろう。
但し幸信が朗らかで穏やかなのは日中だけだった。日が落ちて夜になると妙にそわそわし、神経質そうな表情を見せるのだった。寝ている時も例外ではない。恐ろしい叫び声をあげている時もあれば、呪詛のような呟きを眠りながら紡いでいる時もあった。
「幸兄さん。いったい何を怖がっているんだい」
ある日春次は堪り兼ねて兄に尋ねてみた事があった。幸信の身を案じていたというよりも、おのれの安眠を阻害する要因が知りたいという不純な動機であったけれど。
「俺は大丈夫だよ」
春次の言葉に幸信は首を振るだけだった。それどころか、自分の奇行については誰にも話さないで欲しいと口止めされてしまった。追求したかったが春次は止めておいた。怯えているモノに対して神経質になっている様子が明らかだったからだ。変に口出しをして、また彼が激してもそれはそれでややこしい。
兄は狐憑きなのかもしれない。幸信に内緒で色々と調査しながら春次はぼんやりと思った。無論本当に狐が憑くのか、そう思っているだけなのかは解らない。だが、そう言う症状に似ているとも思った。
※
ひときわ大きい悲鳴が春次の隣でほとばしった。その凄絶さはもはや人間の範疇を超え、むしろ獣のそれのようだった。
飛び起きた春次は隣で展開される光景を見、しばし硬直した。
それは一方的に繰り広げられる虐殺劇だった。けたたましい悲鳴を上げてもがいているのは茶褐色の大きな狐だった。それを冷ややかな目で見下ろし、バールのような物を振るっているのは他ならぬ兄の幸信だ。しかしよく見れば、幸信の顔は血の気が無く、むしろ頭部や腹の周りにはべっとりと血糊が付着している。腹は引き裂かれているのか、何かがはみ出していた。
何がどうなっているのか解らない。そう思っていると幸信と目が合った。
「こいつは俺を殺して俺に成り代わっていたんだよ」
そう言って幸信はバールを振り下ろす。狐の頭部が鈍くへこみ、反動で右目が飛び出した。
「はっ、人間様を喰い殺したド畜生のくせに、か弱い俺の亡霊に死ぬほど怯えていたなんてさ、全くもってお笑い草じゃあないかねぇ」
さも愉快そうに幸信は言っている。バールを下ろす上下運動は未だに止まらない。その先端に狐の毛と血の混じった肉片が絡むのを春次はただ眺めていた。
人と異形、どちらが真に恐ろしいのかは解らないものである。
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