第10話 十姉妹のおやど

「さあさそこのお兄ちゃん。この十姉妹はお買い得だよ」


 疲労困憊のサラリーマンとして駅に向かって歩いていた彼を呼び止めたのは、一人の老婆だった。商店街から離れた場所に、彼女はさも当然のように露店を開いていた。蝋燭のような橙色の光が老婆の両側で揺らいでいる。

 怪しい。何処までも怪しげだった。しかし道行く人間たちはこの老婆を気にする素振りは無い。

 橙色の光が揺らめく中、幾つもの鳥籠が露店の上に並べられているのを彼は見た。その中に、雀よりも小さな小鳥が二、三羽、各々の鳥籠の中に納まっていた。白くて褐色のまだら模様があるものもいれば、全体的に褐色のものもいる。これが十姉妹なのだろうか。鳥に疎い彼はぼんやりと思った。


「十姉妹は良いよ、お兄ちゃん。この子たちは平和と文明と繁栄の象徴なのさ」


 老婆の言葉が鼓膜を震わせる。すぐ近くで話しかけているはずなのに、揺らめく蝋燭のように彼女の声は朧に霞んでいるようだった。


「十姉妹こそが、人類が生み出した平和と愛を体現する幸せの小鳥なのさ。さぁ、気に入ったのならば十姉妹をお選び。つがいの十姉妹の仲睦まじさは、お兄ちゃんみたいなささくれた心の癒しになるだろうね。ああだけど、この十姉妹は決して鳥籠から出してはいけないよ。ね…………」


 言葉が終わるころには、彼は鳥籠の一つを指差し、そして財布を取り出す準備まで行っていた。



 不思議な老婆の言うとおり、つがいの十姉妹は彼の心に潤いをもたらしてくれた。白い羽毛に茶色いまだら模様の散ったこの二羽の小鳥は、互いに心を許しているのだと言わんばかりに寄り添い合い、小さな嘴を使って互いの羽繕いに勤しむ姿さえ彼の前でさらけ出していた。

 何一つためらいもはばかりもないリア充カップルぶりを彼は観察する事となったが、心はむしろ穏やかになる一方だった。若いホモサピエンスのバカップルぶりは腹立たしさを想起させるものであるが、無邪気な十姉妹のそれには、腹を立てるような要素など何一つなかったのである。

 そうこうしているうちに十姉妹性質の愛は実り、卵となった。鳥籠に設けられた巣の中で十姉妹の若夫婦は抱卵に勤しみ、ひと月も待たぬ間に卵からはひなが孵った。

 都合六羽のひなが孵ったが、彼らは今や父母となった十姉妹のつがいに養われ、やはりひと月と待たぬ間に親と同じ風貌の小鳥に育っていた。


 十姉妹の一家が鳥籠から抜け出したのは、彼の不注意による事故だった。鳥籠を移動させようとしている最中に、鳥籠の上部と中間部をつなぐ留め金が緩み、そのまま外れてしまったのだ。餌と水が床に散乱する中、十姉妹たちは驚いて舞い上がり、部屋の中を縦横無尽に飛び回ってしまっていた。

 彼は間の悪い事に飛び交う小鳥たちよりも散乱した水や餌を処理する事に注意を向けてしまった。小鳥は飛び回っているが、しばらくすれば疲れて地面に降りるだろう。捕まえるのはそれを狙ってからで構わない。安直に彼はそう思っていた。

 その判断こそが間違いだったのだ。

 結局のところ、彼は十姉妹を捕まえる事はできなかった。さりとて彼らは死んでしまった訳ではない。十姉妹たちは一羽も欠ける事無く生きていた。本棚の奥や冷蔵庫と電子レンジの隙間、テレビの電源の上などに彼らはいた。風切り羽の揃った翼をもつ彼らは、狭い籠から解き放たれた彼らは自由だった。家主である彼の意向などお構いなしに彼らは舞い、歌い、食事を食み、そして仲間とつるんだ。本棚の奥に巣が作られるようになるまでに要した時間はそう長くはなかった。時には彼が眠るベッドの枕元に、卵とひなの混じった巣があるのを目撃してしまったほどだ。

 十姉妹たちはアパートの隙間に潜み、そうして増殖していった。彼の家財を侵蝕しながら。本棚の本は十姉妹たちの巣材となったし、彼の食事に十姉妹の大群が群がってくるのも日常茶飯事になってしまった。どちらがあるじなのか、解らなくなる時さえあるくらいだった。


 それでもそんな日々に嫌気がさした。断捨離をして、ついでにこのアパートを去ろう。糞忌々しい十姉妹から離れて新生活を営むのだ。そのような衝動が彼の脳裏を支配した。ボロボロになった本を片っ端から袋に詰め、何度も巣引きに使ってボロボロになった巣の塊を撤去した。

 有給と休日を利用して、彼は都合三日かけて部屋を浄化した。窓は開ききっていた。臆病な十姉妹どもが驚いて狭いアパートから出てくれればいいと思っていたからだ。

 片づけが終わると、生活感のないモデルルームのように一室はがらんとしていた。彼は充足感を味わいながら部屋の中央で深呼吸していた。不思議な事に掃除を行っている間中、普段は付きまとってくる十姉妹たちを一度も見なかった。驚いて逃げてしまったのかもしれない。


 僅かな荷物を携えて、彼は新居に引っ越した。荷解きを終えて一息ついた時、聞きなれた啼き声を彼の耳は捉えた。

 肩越しに振り返ると、小さな十姉妹が二羽、寄り添ってこちらを見つめていた。この十姉妹たちが、勝ち誇った笑みを浮かべているのかもしれない。彼は唐突にそんな事を思った。

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