第21話 落下

「お、おおう」


 長い、本当に長い道のりを経てようやくトイレにたどり着いた繋はドアを開け中に入ろうとした途端ピタリと反射的に足を止め、驚くような感心するような短い言葉を無意識に口から漏らした。

 四人と別れた後、さらに数回ほど角を曲がりようやくたどり着いた男子トイレは、異世界と言う世界観と文明の発展具合を間違えたかのような光景であった。


 具体的に言えば、繋がトイレの扉を開けてダイレクトに目に入ってきたのが、白く陶磁器のような光沢と質感のある小便器が壁際に並んでいる光景だ。

 なんとも当たり前のように横一列で並んでいる小便器の上部には鈍く輝く銀色のパイプが付いており、そのパイプには一つの青い魔鉱石がまるで押しボタンのように取り付けられている。そんな小便器の反対側には区切られた個室が奥に向かって並び、開け放たれているドアから洋式便器の一部が見えていた。


 さらに出入り口付近にはよく見るような洗面台が二台ほど備え付けられ、ハンドルの無い蛇口のような物が目に入る。蛇口の上部には、これまた青い魔鉱石が一つずつ取り付けられていた。

 つまるところ、繋の目の前には時代背景などまったく考えず世界背景など全力で無視をした、日本全国どこにでもあるような一般的な水洗トイレがそこに拡がっていたと言うことだ。


「これは、まさか」


 そう独り言のように呟きつつ後ろを振り向く繋に対し、


「はい。今から数代ほど以前に召喚された勇者様方によるものでございます」


 老執事はどこか誇らしそうに頷いて言葉を返す。

 顔に張り付いている表情は一ミリとして変わらないものの、どこかしてやったりと言った感情が何となく見え隠れしていた。

 返ってきたその言葉を聞いた繋は首を正面に戻して深いため息をつくと、


「この世界に永住するならともかく用が終われば元の世界に戻れるってのに、なんとも奇特な奴らがいたもんだ。

 あ~いや、現代のトイレに馴染んでいたらその短い間でも我慢できないか。そう考えると妥当な行動とも言えるな。いや、妥当か? もしくは召喚時期がかなり前だったのか?

 まぁ、いいや。それより、漏れる漏れる」


 納得したとばかりに頷きながらもしきりに首をひねると言う、なんとも器用なことをしながら呟く繋であったが、なんのためにトイレに来たのかを思い出し一目散に一番奥の小便器に向かって駆けていく。

 繋が見せるコミカルな動きを確認した老執事はトイレのドアを開けると、音もなくその場を後に出入口に控えて繋が出てくるのを待った。


「さて、と」


 ただ、老執事が繋の監視をしているのと同じように繋も繋で老執事の動きを感づかれることなくひそかに観察しており、完全に目を離しトイレから出ていくのを確認すると小便器に向けていた足をトイレの奥にある縦に長い大きな窓の方へと変更する。

 小走り気味だった足を緩め、右手を目線の高さまで上げて指先をゆらゆらと遊ばせながら余裕を持った動きで窓の前に立った繋は両手を窓に添えニヤリと笑みを浮かべ、


 バンッ!!


 と、城中に街中に響くかのような大きな音をたてて両開きの窓を開けた。


「何の音でございますか!」


 当たり前のことながら、ここまで大きな音を出せばトイレの出入り口で控えている老執事が気が付かないはずもなく、同様に大きな音を鳴らしドアを開けトイレの中へと入ってきた。


 勢いよく入ってきた老執事は先ほどまで見せていた落ち着きぶりが嘘のように慌てた様子ではあったが、その目はギラリと油断なくトイレ内を瞬時に見回し何が起きてもすぐに動けるような態勢である。そこはさすが年の功と言ったところか。

 非常に迅速な動きで姿を見せ周囲の確認を行った老執事を、窓の縁に胡坐をかいて座っている繋が出迎えた。


「なに、ただただ大きな音をたてて窓を開けただけですよ。特に何かあった訳じゃないですから、安心してください」


 などと言っているものの、繋の表情はニヤニヤとにやけており一目で嘯いていることが子供でも理解できる。

 老執事の方も刹那でそのことを理解したのか、油断なく何をしでかすか分からない繋へと視線を向けながらじりじりと足を動かしていく。

 だが、そんな行動など生まれる前から知っていたとばかりに表情をわずかにも変えることなく軽業師のごとく軽々と窓の縁に立った繋は、近付いてくる老執事の動きを抑制する。


 常識では考えられないような驚くべき行動に目を大きく見開き反射的に動きを止めた老執事ではあったが、隙をうかがう視線はさらに強くなっていた。その様子から、繋が少しでも隙を見せるようであれば瞬時に動き出すだろうことは想像に難くない。

 故に、その動きを油断を隙を誘うために老執事は話しかける。


「そんなところに立たれては危ないのではないでしょうか。なにぶん、この場所は地上か遠く離れていますゆえ」


 その言葉通り、このトイレがある場所は地上から少なくとも三十から四十メートルは遠く離れている。この高さをビルで例えるなら、おおよそ十階ほどの高さだろう。

 手すりから下を見下ろすだけでも、ガラス越しに下を覗くだけでも肝が冷えるほどの高さであり、手で身体を支えることなく二本の足だけで窓の縁に立つなどもってのほかと言える。

 もしも命綱なしで飛び降りてしまえば、人間程度一瞬にしてケチャップのように飛び散ることは想像に難くない。

 ないのだが、


「そりゃ、こうして外を見たら分かりますよ」


 繋は事もなさげに、顔の半分を体の半分を窓の外へと向ける。


「もしこの光景がこの景色が拡がっているにもかかわらず地面に近いんだとしたら、真っ先に自分の頭を疑うか、誰かからの第三者からの干渉──つまりそう言った魔法を疑う程度には、分かっているつもりなんですけどね」


 投げかけられた老執事の言葉など取るに足らないことだと言わんばかりに繋の様子は一切合切変わることなく飄々としており、口にする言葉はやはり嘯いているようにしか聞こえない。


 どこまで本気なのか、どれほどまで本気なのか、どうにも掴み切れないふわふわとしたどっちつかずな態度である。こんな状況でまったく真剣とは程遠い態度と、首を戻すことなくいまだに身体の半分が外に向いていることが隙であると見出したのか、老執事はゆっくりとじりじりとほんの一歩だけ足を動かそうと踏み出そうとした。


 瞬間──


 動き出す前のわずかな動作を目ざとく察した繋は瞬時に首をぐるんっと正面に戻し、瞳を真剣なものへと変化させ射抜くように縫い付けるように突き刺すような鋭利な視線を老執事へと向ける。

 有無を言わさぬ視線によって、老執事は蛇に睨まれた蛙のごとく身体を硬直させた。

 ほんの一瞬の出来事ながら老執事の額からは汗がにじみだし、垂れてきた一筋の汗が頬をつたって顎に到達すると重力に従い床へ落ちていく。

 動きを強制的に止めさせた老執事に目線を固定させた繋は、声の軽さをそのままに話を続ける。パンッと両手を打ち鳴らし、話を続ける。


「さて、こうしてこのまま他愛のない毒にも薬にも為にもならないような会話を雑談を戯言を続けるのも俺としてはやぶさかではないんだが、さすがにそれじゃあまったく話が進まない。だから、さっさと本題へと入りましょう」


 と、繋は言う。

 どこか楽しそうな様子を見せるも、そこに隙や油断は見当たらない。


「と言っても、特に難しい話じゃない。

 見ての通り想像通り予想通り、俺はこれからこの窓から飛び降りてこの城から抜け出すつもりです。できる、できない、なんてわざわざ聞かなくても分かりますよね。できるからこそ言っているんだし、できるからこそ俺はここでこうしているんですから。

 そもそも、こんな事はできなければやらないことだ」


 そこで話を区切る繋はなんともいい笑顔を浮かべ、


「それに、あなたもここから飛び降りたとしても、無事に着地できんだろ?」


 確信を持って、そう言い切った。

 直後、老執事の目は大きく見開き驚愕に満ちている。おそらく、自分の実力を知られていたことに知られていたことに驚いているのだろう。

 だがすぐにその驚きを押さえ繋に問う。


「なぜ、でしょうか?」


 なぜ実力が分かったのか、ではなく、なぜ城から抜け出すのか。

 老執事個人としては前者を聞きたいのだろうが、そこはやはりプロの執事。自身が仕える主の利益になることを優先する。それに、どうともとれる問いによって質問以上の情報を口にしてくれることも期待しているということもあるだろう。


「それが何を、どのことを指しているかまったくもって見当も付かないが──『貴族』とだけ言っておく。とりあえず、俺がこの城から抜け出す理由の大半はそれだ。理解、できるだろ?」


 端的に答える繋の顔にはなんとも嫌な笑みが浮かんでおり、対称的に老執事の表情は石のように硬く口元は非常に強く結ばれていた。それは、完全に言葉の意味を理解している表情である。完全に心当たりのある人間がする顔だ。

 表情からそれを感じ取った繋は嫌な笑みを霧散させ、安堵したような顔へと変化させていった。


「いや~良かった良かった。ちゃんと理解できているようで、良かったよ。

 まぁ、そう言う訳でそう言った理由で俺はこれから無責任にも城を抜け出すんだが、その代わりと言っては何だが一つアドバイスを、つまり一つの助言をしておこう」


 右手を前に出し人差し指を立てる。


「これから俺が起こす行動によって、俺が起こす騒ぎによって俺の身柄を影から裏から確保しようと動き出す連中がおそらく出てくる。これは俺の経験則によるものだが、大抵の場合において起こりうる可能性が非常に高い事柄だ。特に、帰還魔法があるような世界ならまず間違いない。

 その際、ひそかに動き出した連中を監視しておけば、今後あの四人を積極的に囲み込みそうな貴族の目星がつくことは想像に難くないだろうな」

「それは──」

「質問はなしだ」


 繋は老執事の言葉を遮る。


「んで、だ。情報代兼アドバイス代兼実効料と言っちゃなんだが、あの四人には俺が抜け出したことを黙っておいてもらいたいんですよ。別の街で訓練中だとか、後方支援の手伝いだとか、なんかもっともらしい理由でもでっちあげて。

 よろしくお願いしますよ」


 などと言うが早いか繋は満面の笑みを浮かべ体重を後ろに移動させ、


「それではまた次回、お会いいたしましょう」


 手を振りながら軽く窓の縁を蹴って窓の外へと躍り出た。

 その光景は、なんとも現実味が薄かった。現実から切り離されたかのようにどこか嘘くさく、日常から隔離されたかのように夢を見ているような光景。


 通常の場合でも目の前で人が高所から落下すればそう言った感覚を受けるだろうが、今回の場合はそれに加えて繋が満面の笑みをその顔に張り付け、お気楽そうに手を振っていたためより一層にそのことを強調していた。

 あまりにも自然すぎて、しばらくは動けず呆然としてしまう。


 そしてそれは、老執事も例外ではなかった。

 警戒はしていたとはいえステータスの件もあってか、ここまで繋が見せた一連の行動は危険を承知で行った一種のパフォーマンスで自分の優位な条件を引き出そうとでも思っていたのだろう。万が一にも何か起こったとしても、自身であるならばどうにかできると考えていた事情もある。


 故に、虚を付かれ動けず呆然とただただ見ていた。

 しかし繋の姿が完全に窓から見えなくなった瞬間、すぐさま我に返り弾かれたように窓へと駆け寄る動きを見せたのは、流石と言ってしかるべきだろう。



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