京都リバースデイ
ゴミ箱
夢幻の夜
夜の暗がりを持て余すように、京都の街を歩き続けていた。
目的地なんて無かったが、この足は進むのを辞めない。水没する夜の息苦しさが少しずつ私を殺していく。点滅する信号機の青色が心を急かす。無意識にささくれを引きちぎっていたようで、親指からは血が滲んでいた。
時計が何度針を回しても夜が明けない。
この街はいつだって無愛想だった。高層ビルで区切られた空。飲食店の照明が街を寝かせない。道路沿いに一定の距離を空けて植えられた木々が、自然と共存していると謳う。混ざり合う慌ただしい足音と酔った歌声。まるで自分は幸せだといわんばかりの見栄だけがこの街を生かしていた。3歩前の真っ黒なアスファルトに目を落としたとて、憂鬱であることには変わらなかった。
何をしても満たされない。最後に幸せだと感じたのは、母親に頭を撫でられた時だったと思う。もう味わう事の出来ないあの温かさを私はいつも探していた。
同じ様な仕事をして上司の顔色を伺う日々。仕事が終わっても1日は終わらない。セクハラまがいの発言が飛び交う飲み会で、首を縦に振っては愛想笑い。喉の奥につかえる鉛のような重さが、それを否定してくれることは無かった。染めた事の無い肩下の髪と、目立たない為にされた最低限の薄い化粧。膝を隠す淡色のスカートが歩く度に少し揺れる。
「お前ってなんて言うかさ。普通だよな。」
大学の飲み会で誰かに言われた言葉をふと思い出した。他意なんてなくて、悪口でもなんでもない言葉。穴ひとつ無い耳をなぞるように触った。沈んだ溜め息を電車の通過音がかき消していく。
男の人が私の肩に勢いよくぶつかった。
体格も体重も遥かに違う私は簡単に転んでしまう。体を支えようとしたが結局よろけてしまい、膝から痛みを感じた。
「す、すみません。」
「あっぶねーな。気をつけろよ、くそが。」
その男は暴言を吐きながらまた歩き始める。俯きながら歩いていた私が悪い。そんなことは分かっていた。それなのに他人の冷たさばかり蓄積してしまって、また落ち込んでしまう。私はぐちゃぐちゃになった感情に潰されるように、そのまま地べたに座り込んだ。人々はスマホから一切目線を逸らさず私の横を通り過ぎる。車のライトが一瞬私を照らす。誰がどう見たって私は惨めだった。
「まるで私、透明人間やな。」
潤む目を乾かそうと上を向いたって、ギラギラと輝きを放つ京都タワーが私を見下して嘲笑しているだけだった。
「なんなん、ほんまに。だからこんな街嫌いやねん。」
神様が、お前の人生なんてそんなものだと笑った気がした。大人になれば無条件で幸せになれると、ずっと信じていた。実際人生はそう簡単なものでは無いらしく、私を突き放していく。
「どないしてん、お姉さん。どっか痛い?」
黒い鼻緒の下駄が視界に入る。私は呆然としたまま頭を上げた。
お互いに顔を見合わせて、その人は少し首を傾げる。
カラン、と音がして我に返った。
「えっと、あっ、そのっ!」
「血出てんで!大丈夫なん!?立てへん?」
「だ、だいじょ、うわっ!ドッ、ぐぁっ!!」
立ち上がろうと慌てたせいで、派手に転んでしまった。私は見なかった事にしてくれと言わんばかりに俯いたが、全く察してはくれないらしい。
「アッハハハ!!なんやおもろいヤツやな!めっちゃ元気やん!なん、やばっ、めっちゃおもろ!!アハッ、アハハハ!!!」
初めて会った人にゲラゲラと大笑いされているこの状況に理解が出来ない。一向に笑うことを辞めようとはせず、腹まで抱え始める始末。湧き上がる感情が抑えられず、気が付いた時には叫ぶように怒鳴っていた。
「急に話しかけてきた思ったらおちょくっとんのか。血流して転んどるのがそないにおもろいか?人の不幸がそないに嬉しいか?どいつもこいつも人のことなんも知らん癖にほんまに腹立つ!!このアホ野郎が!!!」
流石にびっくりしたのか、周囲の人達はスマホから目を逸らし、こちらの方に顔を向けた。だがそれも一瞬の事で、喧嘩や酔っ払いが多いこの街じゃ珍しいものでは無く、直ぐに目線を戻していく。
その中彼女だけが黙って私の話を聴いていた。さっきの態度とは打って変わって笑いもせず、頷くように私のことだけを見つめている。ただの八つ当たりだった。それでも決して彼女は言い返しては来なかった。目を見て話を聞いてくれるのはいつぶりだろうか。もう思い出すことも出来ない。
私の頬を何かが伝った。
「嫌やねん。全部嫌やねん。私は…」
上手く言葉に出来なかった。私は自分の気持ちすら分からなかった。必死に形のないそれを言葉に変えようとする。それでもやっぱり、その先の言葉は出てこなかった。
ずっと黙り込んでいた彼女が突然叫んだ。
突風が、遮る前髪を揺らした。
開けた視界に入るのは燃えるような赤髪。
「怖いんやろ!この夜が!!嫌なんやろ!この街が!!」
大きく息を吸ってまた叫ぶ。
「全部大っ嫌いなんやろ!!!」
夜に響くその声は私の胸を確かに締め付けた。
そして彼女は少し目を細めて言った。
「死にたいんやろ。」
彼女は咎める訳でも責める訳でも無く、ただ事実を言葉にしただけのようだった。私はそれを肯定することも、否定することも出来なかった。
両膝から流血して座り込む私と、馬鹿みたいに叫ぶ赤髪。誰がどう見たって私達は無様だった。
流石に大声を出し過ぎたのか、警察官がこちらへ向かって来ていた。私は慌てふためき、彼女の顔を凝視し警察の方を指さすが、特に驚く様子は無い。今までの人生、警察と無縁だった私にとってこの状況は最大のピンチだった。警察と彼女の顔を何度も交互に見続けるが、やっぱり平然としているだけで彼女は何も言わない。そして後ろから声をかけられそうになり、ぎゅっと目を瞑った。
「私がお前をそこから攫ってやるよ。」
小さな声でそう言った。
呆気に取られた私を見て彼女はまた叫んだ。
「ねえ!夜を駆け抜けようや!!」
カラン、と鳴った音が頭に響いた。
彼女はニカッと笑って強く私の手を引く。座り込んでいた体を無理に引っ張られた私は、悲鳴を上げながら彼女の後ろを走らされる。警察官の静止を求める声を背中に、私達の夜がやっと始まった。
私達は夜の街を駆け出した。
彼女は静寂を切り裂いていく。警察官の叫び声に答えるように、大笑いしながら走り続ける。通行人の間をくぐり抜けて見える世界。彼女に引っ張られるがまま走らされていた。私は足を止める為に口を開こうとした。けれど彼女は私の考えてることをまるで分かっていたかのように、前を向いたまま叫んだ。
「今!ほんまはめっちゃおもろいんやろ!!自分の意思で走りたくて、夜を駆けたくてしゃあないんやろ!!」
彼女は握り締める手の力を強めた。
生まれて初めて抱いた感情だった。そうだ、私はずっと夜が怖かった。この街が嫌だった。
「そうや、私きっと死にたいんや。」
私はそう小さく呟いた。全部おかしくって、面白くって笑った。心の苦しさを誤魔化すように私は叫んだ。後ろを振り返ったら転んでしまうから前だけを向く。言い訳していた思考を捨てた。焦燥を撫でるような風の冷たさ。私は全てに身を預けて、自分の意思で走った。彼女は頷くようにスピードを上げる。
止まることなく夜の京都の街を駆けていく。息はとっくに切れていた。きっとメイクは涙と混ざってもうぐちゃぐちゃ。いつの間にか無くなっていた靴のことなんてどうでも良くて、コンクリートの痛みと冷たさだけが私を生かす。邪魔になった髪をかきあげて見える彼女の背中。無様で滑稽な私達を好きなだけ笑えばいい。どんなに叫ぼうがこの夜は決して終わらない。
夜が、街が揺れていた。あんなに嫌いだった街の眩しさの全てが、今は私達を照らしてるようで居心地が良い。酔っ払いどもの歌声と笑い声がBGMとなってこの夜を彩っている。路上に座るおっちゃんが私達を見て笑っていた。感覚の無い足を無理矢理動かす。横を通り過ぎる電車に大きく手を振った。もう進んでるのかすら分からなかった。それでも私達はまだ走り続ける。これ以上に最高な夜なんてある筈が無い。どうしようもない全てが今は愛おしい。
この街は今夜私達だけのものだった。
いつの間にか警察官はいなくなっていた。
それでもまだ私達は夜を駆け抜ける。
知らない神社の階段を駆け上がって、私は有り金全て賽銭箱に突っ込んだ。神様どうか笑え、と私は大声で叫ぶ。その姿を見て大笑いする彼女は随分とツボが浅いらしい。その姿を見て笑ってしまう私も大概だが。今思えば久しく神社なんか行っていなかったな。神社と彼女の髪の色が薄暗く混ざる。人間じゃないみたいな彼女は確かにそこに存在していて、私の手をまた強く握った。神様に願う事なんてたったひとつも無い。あるわけ無かった。
気が付いたら飲みかけのビールを持っていた。誰に貰ったのか拾ったのかも覚えていない。私はそれを彼女の方に差し出す。赤髪の彼女は絶対炭酸抜けてるやん、と笑った。笑う度、叫ぶ度、夜の暗闇は、瞬く間に輝いていく。彼女は離れないで、と言わんばかりに私の手を握り締める。私はビールの缶をほおり投げた。飲み口からほんの少しのビールが宙を舞う。どれだけ走ったって離してはくれない彼女の手が、どうしようもなく嬉しくて握り返す。
溶けてしまえばいいのに。これからの事も心の苦しみも全部夜に消えてしまえばいい。
揺れる赤髪が私の夜を染めていく。
それから少し経ち、彼女は急に立ち止まった。無言でコンビニに入ったかと思えば、大量の酒を両手に抱えながら戻ってきた。
「アッハハハ!!急になんかと思ったわ!なんなん!その大量の酒!!死ぬやん!」
彼女は自信満々の笑みで答えた。
「まだ終わらへんわ!夜にはな!酒が必要やねん!!まだまだ駆け抜けんで!!!」
私達は公園の様なスペースを陣取って酒を飲み始めた。
「そういえば名前なんて言うん?」
言われてから気付いたが、私達はまだお互いの名前すら知らなかった。改めて私は彼女の方に目を向けた。身長は私より小さく、可愛いらしい顔をしている。ダボッとした服を着ており、ズボンから細い足が見えた。両耳に揺れる深緑色のピアスと下駄。ショートカットの派手な赤髪がよく似合っている。
「なあ!?なあって!絶対聞いてへんやろ!人のことジロジロ見んと名前なんていうんやって!」
「あっ、すまん!ゆ、ゆず。」
「ええ名前やね。ウチのことはそうやな…。
あー、ヨルって呼んでな。」
「ヨルな。ヨル。」
ぴったりな名前だなと思いながらも、何だか気恥ずかしくて口には出さなかった。
それから私達は死ぬ程騒いだ。ここはダンスホールや!!と叫んで踊り始めるヨルが勢い余って、車道に走り出そうになるのを私は全力で止めた。袋を犬と勘違いしてブチ切れた私が、袋を殴ろうとコンクリートにぶつけた右手。めちゃくちゃ痛い。
「てか、なんでゆず裸足なん?」
「下駄の人に言われたないんやけど。てか、下駄でようあんなに走れたな。」
「まあ、最強やからな。」
「意味わからんて。」
「やばい。ゲロえずきそう。」
「待てよ。どっちが先に吐くか競走せぇへんと!」
「何言うてんの。阿呆なん?」
「まあ絶対ウチが勝つけどな。そんなん。」
「だからどっからくんねん。その自信。」
支離滅裂な会話が最高に楽しかった。路上で馬鹿みたいに飲酒するのも、こんなに腹を抱えて笑ったのも初めてだった。他人から見たら下らなくても、しょうもなくても幸せだった。
ヨルの赤髪と溢れるような笑顔が温かい。胸の奥が熱くなる。ヨルの赤髪が眩しい。夜に赤色は目が痛くなるな、と私はひとり笑った。
「あれやね。ヨルってよるやのにお日様みたいで変だわ。」
そう言ってヨルに笑う。ヨルは少し驚いた顔をしてなんやそれ、意味分からんわと笑った。ヨルは飲み過ぎた、と言いながら水を買いに少し離れる。こんな変哲もない会話さえ、私は本当に楽しくて、嬉しくて。仕方がなかったんだ。
私の会社の愚痴や、ヨルの面白い友人の話。話題が尽きることは無く、時間だけが過ぎていく。私のつまらない話を頷きながら聞くヨルが、無邪気な子供みたいで自然と顔がにやけてしまう。たまにぶつかる肩が熱く感じた。私も飲み過ぎたのかもしれないと思いながら、少しぬるくなったビールを1口飲み込んだ。
「なぁ、ちょっと歩かへん?」
その一言で私達はまた夜を歩き出した。隣から聞こえる下駄の音が心地良い。車も少なくなり、此処には私達しかいなかった。もう随分と夜は深いらしい。ヨルは変わらず、御池通りの横断歩道の間のよく分からんスペースで飲む酒が1番うまいと力説している。全然意味は分からなかったが、私は共感する様に頷く。見掛ける変な張り紙やよく分からない建物にいちゃもんをつけるヨル。急に道端に寝っ転がった時は流石に頭を叩いた。何もかも全部面白くて笑い合った。私はヨルの言葉に相槌をうちながら、隣へ視線を向ける。視線に気づいた彼女は私の方を向いて、満面の笑みを浮かべた。
今この瞬間、ヨルの瞳には私しか写っていないのだろうか。何かが胸の奥を締め付けるようだった。息を止める。
この感情はなんていうのだろう。
私は全てに知らないフリをした。
きっとそれが正しいと思ったから。
夜に染まらないヨルの赤髪が綺麗で少し羨ましかった。この時間が永遠に続けばいいのに。髪から覗く緑の深さがどこかもどかしくて。いつもは望んでいた夜明けが今は憎らしくて仕方ない。
京都タワーが大きく見える位置で、ヨルは立ち止まった。私も同じ様にヨルの横に並び、京都タワーに目を向けた。京都タワーが目に入る度に、ライトアップは電力の無駄だとイチャモンをつけていた。見下ろすばかりで何もしない癖に、京都の顔みたいな態度をするコイツにいつも腹が立つ。彼女は突然言った。
「明日な、京都タワー爆発させんだ。」
「何言うとんねん。」
急に冗談を言うヨルが愛おしく感じて、ヨルの方を向いた。ヨルの表情は夜の影に隠れていた。私は何となくまた、京都タワーに視線を戻した。
「ほんとやって!」
「アハハハ!せやなー、でも、ほんまに京都タワーが爆発したら仕事でも辞めようかな。」
何となくそう言っただけだった。絶対にある筈の無いヨルの言葉に、私は出来る訳ない願いを乗せる。
「めっちゃええやん!!それ!」
「仕事辞めたら髪染めてピアス開けてー、ずっと京都やからどっか行こうかな。移住とかええな!!」
叶わない願い事を考えてる時間程、無意味で楽しいものは無い。まるで神様に、流星群に祈っているようでおかしくて笑う。それでもヨルは嬉しそうに頷いて、私の方を向いて言った。
「絶対私が京都タワーをぶっ壊すからな。」
任せんで。と言う代わりに私はヨルに笑い返した。彼女には人を惹きつける魅力がある。明るくて可愛い。それに無償に人を助けて、手をさしのべる。希望と幸福が溢れる彼女の笑顔。周りの人から愛されているんだろう。きっとこれまでも、これからも苦しさに埋もれる誰かを救う。私は特別でもなんでも無い。
ただ偶然、出会っただけなんだ。
そう、心に言い聞かせるように彼女の横顔を見続けた。
深淵のような空が薄く、橙色に溶けていく。
もうじき夜が明けてしまうだろう。
夜を駆け抜けてしまう。
この夜が終わってしまう。
もう少しだけでいい、どうか
神様、私達を知らないフリして。
私は願うようにヨルに尋ねた。
「また会えへん?」
「きっと会えるで。絶対にな。」
「ほんまに?」
さっきまで隣にいたヨルが急に遠くに感じた。もう会えない様な気がして、彼女がこの街より遥かどこか、遠くに行ってしまう気がして。そう思ったのはきっと、ヨルの優しい笑顔のせいだった。
ボロボロと零れる涙が風に揺れるヨルの赤髪を歪ませた。私の髪を優しく撫でる。
「泣き虫やね、ゆずは。そうや、これ預けとくわ。」
そう言うとヨルは片耳のピアスを外して私の手のひらに乗せた。深緑色が暁の空をほんの少し映していた。
「次会う時までにピアス開けといてな。約束やからな。」
涙はそれでもやっぱり止まらなかった。
夜が明けた。
私達は夜を駆け抜けた。
「夜、駆け抜けられたやろ。もう夜なんか怖くない。約束は絶対守んねんで。」
「うん。」
「だから泣かんでな。絶対生きてな。」
「うん。絶対生きるよ。」
涙はもう止まっていた。ヨルは何か言おうとして戸惑った後、やっぱり口を噤む。少しだけ悲しいような嬉しいような顔をして、下手くそに笑った。
それから少し俯いた後、太陽みたいな笑顔で言った。
「絶対京都タワーぶっ壊すから待っといてや!またゆずが越えられへん夜が来たら叫んだってな。ヒーロー参上せず!って絶対行くから。」
「うん。約束。」
「約束な、絶対。絶対な。」
さよならは言わなかった。
最悪な全部から駆け出して。
目が霞むような眩しい夜を駆け抜けた。
たった一夜の私のヒーローの話。
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