新たな命が宿る場所
――早くも日が落ち始めた夕方に、ペンション周辺の散策から戻って来た、紅たち一行。
この辺り一帯は観光客向けのペンション村となっており、かなり広範囲を歩いた皆の体はすっかり冷たく冷え切っていた。
このままではせっかくのご飯も美味しく食べられないだろう……という事で、夕飯前に冷えた身体を温めようと満場一致でやって来た、このペンション自慢の浴場にて。
「わぁ、ねえ紅ちゃん紅ちゃん、露天風呂もあるよ!」
「わ、分かったから、危ないからお風呂場ではゆっくり……あ」
「……あっ」
はしゃいで手を引く聖に連れられて、大浴場から外に続く出入り口を潜った紅と聖だったが……そこに先に居た、驚いてこちらを見ている女性の目に、我に返って恐縮する。
「ご、ごめんなさい……ユーバーさん!」
「ふふ、構いませんよ。あなた方もどうぞ?」
特に気にした様子もなく、ふわりと笑って隣を勧める、のんびりと半身浴をしていたらしき女性……イリス=ユーバーと名乗った女性に促され、紅と聖も岩で組まれた露天風呂に浸かる。
「はふぅ、温かい……お外で冷え切った身体に染み渡るぅ……」
「外、すっかり冷え切っていたもんねぇ」
「そうそう、氷点下二桁になりそうだったもん。子供の元気は凄いなぁ」
天気予報によれば特にこの数日は冷え込むとのことで、長時間外を歩き回った紅たちの体は、すっかり冷え切っていたのだった。
ちなみに年少組の子供たちは今、中にあったサウナで、無茶しないよう佳澄の監視のもと我慢比べ中である。
「満月さんに、古谷さんでしたよね?」
「はい、でも今は両親と混同するでしょうから、紅でいいですよ」
「私も、聖って呼んでください」
「そうですか……では私のことも、イリス、でいいですよ。娘と遊んでくださって、本当にありがとうございました」
そう礼を述べて、花が開くようなふわりとした笑みを向けてくるイリスに、聖と紅が眩しすぎて直視できず、二人顔を突き合わせてヒソヒソと話す。
「……ねぇ紅ちゃん、この人が三十代ってやっぱり嘘だよね?」
「……うん、絶対私らと同年代でしょ」
なんせ、うなじから溢れた玉の雫が白く瑞々しい肌をつつっと伝い流れていくのだ。そのハリとツヤ、水の弾き、どう見ても十代のそれである。
一方で……だからこそ、強烈にアンバランスで背徳的な、紅たちの目を強く引く場所があった。
「その……イリスさん、妊娠してらしたんですね」
恐る恐る、紅が尋ねる。
彼女の、細くしなやかな少女にしか見えない肢体。しかし本来ならば細くくびれているであろうお腹は……ぽっこりと、控えめながら膨らんでいたのだ。
「ええ、二人目の子で……今は五ヶ月目になりますね」
そう、幸せそうに微笑んで、お腹を撫で摩るイリス。
「良ければ、触ってみますか?」
「「いいんですか!?」」
イリスの発言に、紅も聖も興味津々と言った様子で食いつく。
少子化も極まったこの時代に、あまり妊婦さんに触れる機会も無かった二人は、膨らんだそのお腹に触ってみたくて知らず知らずのうちに羨望の眼差しを送っていたのだった。
そんな二人にくすりと苦笑しながら、「はい、どうぞ」と両手を広げて招き入れるイリスに、紅と聖がおそるおそる手を伸ばす。
「し、失礼します……わぁ」
「……すごい、なんていうか、すごい」
指先に感じる、びっくりするくらいきめ細かな肌の下に感じるふっくらとした感触。
時折コトンと内部から感じる振動に、二人揃って言葉も発せずに夢中になって触れる。
「この下に……新しい命が居て、育っているんだ……」
「ねー、凄いよね……」
ただただ「凄い」を連呼する二人に……
「……ふふっ」
イリスが、不意に愉快そうな笑い声を上げた。
「あ、ごめんなさい、くすぐったかったですか?」
「いえ、違うの。そういえば昔、私もお風呂場で従姉妹のお姉さんのお腹が膨らんでいるのを見て、同じように触らせてもらったなあって思い出してしまって」
懐かしむように微笑んでいるイリスに……紅はむくむくと、聞いてみたい疑問が湧き上がって来た。
「イリスさん。ユリアちゃんを産んだ時って、どんな感じだったんですか?」
そう質問を投げかけたのは、半ば衝動的なものだった。
――本来であれば、紅にとっては無縁であったはずの行為……自らのお腹の中で我が子を育て、産み出すという女性にしかできないその行為。
それがどういったものか、経験者、そして今から数ヶ月後に控えている彼女に聞いてみたかったのだ。
「そうですね……私の体験談で言うなら」
そこで少し考え込んだイリスは……しばらくして、万感の思いが篭った声色で、ポツリと呟いた。
「……地獄でしたね」
「……そんなにですか」
光の消えた遠い目で語るイリスに、紅はゴクリと喉を鳴らす。
「本当に、今思い返してもすごい大変でした……ちゃんと産んであげないとっていうプレッシャーが常に付き纏うのに、周囲からは『母体の安全を考えるとやめた方が』なんて声もちらほらと聞こえてきましたからね」
「そんな……」
「仕方無かったんです。当時は私の代わりになれる人が居ませんでしたし、言っていた人も皆、私を案じての事ですから、恨んだりはしていません」
そう言って湯船に半身を沈め、全身を伸ばしながら、イリスは懐かしむように笑う。
「それに、当時の私は今よりも更に体が小さかったですからね。妊娠後期は切迫早産だなんだと大騒ぎでしたし……どうにか持ち堪えていざその時が来たら、もう本当にめちゃくちゃでした」
「……痛いんですか?」
「それはもう。痛いし苦しいし、血はどばどばと出ましたし。最中は無我夢中で記憶にはありませんでしたが、なんでも『どうして自分がこんな目に』とか、『もう嫌殺して』とか、悪態を吐いて大騒ぎだったみたいです」
「ひぇ……」
「今のイリスさんからは、想像できません……」
紅と聖から見たイリスは、穏やかで落ち着いた優しげな女性……いわゆる『聖女』とか『女神』とかを体現したかのような女性だ。
それが、そんな事を言うほどに大変だったのかと思うと、きゅーっと下腹が痛み出す気がする二人だった。
「本当に……今思い返しても、よく生きてたなあって思ったりします。産後一か月はずっと治癒じゅ……こほん、お医者様がつきっきりな状態で、ベッドからまともに起き上がることもできませんでしたからね」
――まさか、駆けつけたユリウス君とアンジェちゃんが付きっきりで居たとは予想していませんでしたが。
そう、何か遠い目で独り言を呟いたイリス。
しかし知らない人名なども聞こえたため、紅と聖は特にそのことには追及しなかった。
「それでも……また、産むんですか?」
だいぶマイルドに話をしているであろうはずなのに、凄惨なイリスの体験談。すっかり顔を青くして紅が尋ねる。
そんな紅を落ち着かせるようにその頭を撫でながら、イリスが語る。
「……私は特に大変な部類でしたでしょうが、それでもこうして生きています。ですが、そこで本当に亡くなった人だって沢山居るんですよね」
「そう……ですね。昔よりずっと死亡率は減ったそうですが、それでもまだ居るんですよね」
改めて、出産という行為がいかに危険と隣り合わせなのかを、実感の無かった紅と聖もこの時ばかりはひしひしと感じていた。
「そんな大変でも、苦しくても、そうして命を繋げてきてくれたのが私たちの世界なら……私は、そうして多くの人が繋いでくれたバトンを後に繋いで行きたい――っていうのは、ちょっと気取りすぎでしょうかね?」
ちょんとくっつけた両手の指で口元を隠し、苦笑するイリス。
「色々難しいことも考えましたが、本当はもっと単純な理由だと思います」
「「単純な理由?」」
二人揃って首を傾げる紅と聖に……イリスはお腹に手を当てながら、頷く。
「はい。出産数日後に意識が戻って、すっかりぼろぼろに泣き崩れた玲史さんや、集まっていた皆に泣いて喜ばれている中で……初めて産んだばかりの小さな娘を胸に抱いて、初めてのお乳を与えて……あの時本当に幸せだったから、また頑張れるんだと思います」
そう彼女は自分のお腹を撫でながら、少し照れたように笑い、語るのだった。
「――だからあなたもちゃんと、この世界に産まれさせてあげるからね、って」
そう、どこまでも深い慈しみの眼差しを自らのお腹、その奥に居る新たな存在へと向けながら。
――この人、強いなぁ。
もちろん、肉体的な意味ではない。
母は強し、などというお決まりの言葉だけで語れる事でもない。
もっと、根源的なところで――人としての強さで、彼女は自分よりずっと強い、そう感じたのだ。
理不尽な暴力に晒された際、彼女には為す術がないのではと思うくらいに華奢で繊細に見える。
一方で天理から継いだ『ノーブルレッド』の力のコントロールもだいぶ様になってきた今の紅であれば、余程の事態でもなければ力尽くで切り抜けられる自信がある。
単純に身体スペックという点では、比べるまでもなく圧倒的に紅の方に軍配が上がるだろう。
だがそれでも、今はこの嫋やかな女性に肉体ではなく精神面で勝てる気が全く気がせず――紅はイリス=ユーバーという女性に対し、強い羨望が湧き上がるのを感じたのだった――……
【後書き】
ある意味、今章で最も書きたかったかもしれない場所だったり。
ちなみにこちらでのイリスさんはNLD制御の脚部用強化外骨格を使用しているため歩けます。詳しくはまた今度作中で。
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