夏の記憶

河野章

夏の記憶

 青空。白い雲。自転車で群れて河原をゆく少年たち。

 思い出すのはその光景だ。

 五十年も前の記憶。

 湿度は高く、晴れ渡った空に無風。首筋からは汗が流れ落ちて、瞬けばまつげから汗が弾ける。舌で舐めれば唇がしょっぱい。

 ペダルを踏む足は競争するように自然と早くなって、群れの中でいつしか競争になる。夏休みの午後。いつもの毎日。

 すぐ前を、二人乗りした自転車が走っている。

「ばいばーい、お兄ちゃん」

 後ろの荷台に跨った少年──群れの中で最年少だ──が、ふざけて僕を振り返る。自分で漕いでもいないのに、先を行くのが嬉しいらしい。

 弟の信二だ。まだ小学二年生。細い棒っきれみたいな手足ですぐ前の広い背中にしがみついている。

 自転車を運転しているのは仲間内でも一番体が大きい瀬口だ。前のめりに力強く足を踏み込んで群れの先頭をいっている。信二というお荷物を抱えているのに。

 僕らは小学五年生だった。

「洋ちゃん、弟に負けとるが」

「ええんか?」

 仲間内で笑い声が起き、囃される。僕は本名の洋一と呼ばれずに「洋ちゃん」と当時は呼ばれていた。

「ええんじゃ、一位は譲る。俺は二位狙いじゃけん」  

 悔し紛れにそう言うと、立ち漕ぎで僕は瀬口の後を追う。

 午前の涼しい時間を宿題に拘束されて、午後からさあ出かけようとすると大抵母親に信二の世話を任された。

「洋ちゃん、お願いね」

 当たり前のように繋いだ手を託される。俺は家の前の玄関で、信二と手をつないで立ち尽くす。そうしていてもしょうがないので、片手に信二、もう片手で自転車を押したまま瀬口たちとの待ち合わせ場所──ラジオ体操をする神社下の小さな公園だ、に向かう。

 当時は携帯なんてない。子どもたちはそれぞれの縄張りでラジオ体操や道ですれ違ったときなどに、遊ぼうやと声を掛け合ってそれぞれの遊び場に集まっていた。

 僕たちは公園に集まって、自転車で近所を駆け回るのがその当時の流行だった。

 ただ、僕がまだ小さな信二を連れて行くせいで、そのまま公園でぶらぶらしたり、近所の溜池で釣れもしない魚釣りの真似事をするときもあった。

 その日はもう主だった仲間はすでに公園に集まっていた。トボトボと合流した僕は小さな声で言った。

「今日も信二がおるねん」

 集まった仲間に申し訳なくうなだれてそう告げると、瀬口がこう言ったのだ。

「んー……なら、今日は俺の後ろに乗せたるけん。それで良かろ?」

 その時のぱあっと明るくはずんだ信二の顔を僕は今も覚えている。

 信二は信二なりに、自分が兄たちのお荷物になっていることに気づいていたのかもしれない。それとも単に、瀬口の自転車の後ろに乗れるということが嬉しかったのかもしれない。


(もう五十年も前なのになぁ)


 昨日のように思い出せる河原の細い道を車を走らせながら僕は自分が卒業した小学校へ向かっていた。登下校にも使っていた道は、昔より短く感じられる。何もかもが古びて錆びて朽ちてしまった以外は、ほとんど変化のない田舎道だった。


「今日は学校まで行こうや。落やんいたらきっとジュースおごってくれるで」

 たしかそう言い始めたのは田宮だ。落やんとは担任の落合先生で、おおらかで放課後などにこっそり自分のコーヒーを買うついでにと学校の前の駄菓子屋で生徒にジュースを奢ってくれなどしていた教師だ。今では考えられないほどゆるい時代だった。

「ええな。ほな、競争や」

 リーダー格の瀬口が同意して、それじゃあということで皆で学校へと向かった。

 

 着いた先の小学校は当時は新しく、木造校舎から建て変わったばかりのピカピカな校舎だった。僕たちはそこに通っているだけで誇らしく感じたものだった。

 堂々と正門前に整列した僕たちは、そこで流石に自転車を降りて構内へ入っていった。信二は瀬口へ手を引かれて満足そうだった。

 生徒用の昇降口を過ぎて先生たちの出入りする玄関脇の扉へと着く頃には、僕らはなぜかお互いに息を殺して「しぃーっ」などと言い合っていた。なんとなくこっそりと学校に侵入するという雰囲気になっていたのだ。くすくすと笑い合って、出入り口からまっすぐに延びる校舎の廊下奥に向かってわざと「落やんせんせー」などとかすれ声で名を呼ばわる。 その日は登校している先生が少ない日だったようだ。

 言い出したのは誰だっただろう。

「なぁなぁ。このまま学校でかくれんぼ、せぇへん?」

 その誘いはとてもスリリングで、素敵なものに聞こえた。 

「ええやん、しよう」

 自分がそう答えたのは覚えている。他の皆もすぐに賛同した。

 盛り上がった僕たちは忍び笑いをしつつ、自転車をガシャガシャと押し合って校舎裏の駐輪場の端へと隠すように固めて置いた。

 生徒側の昇降口まで戻ってきて、銘々が靴を脱いで手に持つ。

 一瞬、瀬口の横にいる信二と目があったが、信二は目をキラキラさせてこの状況を楽しんでいるようだった。しかし五年生男子に囲まれた信二はとても小さく幼く感じた。僕は首を振って嫌な予感をかき消す。

(……かくれんぼくらい、小二ならできるやろ)

 廊下端で息を殺しじゃんけんをして、まずは僕が鬼になった。その段階で信二をどうするかが問題になった。嫌な予感は的中し、僕が信二と手をつないで鬼役をやることになった。どう考えても足手まといだ。

 当時、僕らがしていたかくれんぼは隠れていた相手を見つけるだけでは駄目で、見つけた相手にタッチするというものだった。つまり隠れ鬼ごっこだ。どう考えても信二の手を引いてでは勝てっこない。

「……ちぇっ」

 小さく舌打ちをすると信二が見上げてきたが、僕は無視をして小さな声で数を数え始めた。仲間たちは校舎内へと散っていった。

 ルールは簡単、校舎外には出ないこと。先生か、鬼に見つかってタッチされたら負けなこと。最後まで捕まらなかった者か、全員を探しだした鬼が勝ちなこと。

 三十まで数えて、僕は信二の手をやや強めに引いて校舎内を探索に駆け出した。細い腕を引かれる信二は息を弾ませて、それでも楽しそうだった。僕は正直自由に動けないのをイライラしていたけれど……。

 人のいない校舎内は良い感じに薄暗く、僕たちの足音もともすればよく響いた。外よりは幾分涼しい中を、それでも汗を拭いながら僕は必死で仲間たちを探し早足で歩いた。

 結果は散々だった。

 コの字型の横にⅠ字を並べたようなの広い校舎内で、僕は仲間内の半数も見つけることは出来なかった。見つけることが出来た仲間たちも、さっとその場から逃げてしまい、信二を連れた速度では全然追いつけない。

 降参した僕の合図で仲間たちは昇降口まで降りてきてくれたが、このままではもう一度僕が鬼役になってしまう。ニヤニヤと笑う仲間たちの中で瀬口だけが同情的にこう言った。

「ええよ、俺が次は鬼やるけん。ただし、洋ちゃんは信二の手を離すなよ」

 鶴の一声で次のゲームは決まった。

 

 僕は車の中から五十年経った校舎を見上げてあの日の鬼ごっこを思い出していた。僕があの時ずっと信二と手を繋いでいたら……。

 来客用の駐車場に車を停めると、僕は見上げていた校舎から目をそらす。

 小学校が老朽化で取り壊されるらしい。

 その噂は母から聞いた。あのことがあってから父親と離婚し、それでもこの地から離れなかった母親。僕を一度も責めなかった母親。

 だから僕は、今日ここへ来た。校舎が取り壊される前に、どうしても見ておきたかった。信二が消えた場所を。


 耳を塞ぐと、押し殺したような声で数を数え始める瀬口の声が今も聞こえるような気がする。頬から顎をつたいぽつりと廊下に落ちた汗の感触までよく覚えている。僕はかくれんぼに勝ちたかった。信二はそれには邪魔だった。だから、だから僕は。

「ここに隠れろや」

 そう言って、自身の教室へ信二を強引に連れ込むと、教卓の下に彼を押し込んだのだ。教卓の下は空いていて、小さな信二の体は半分以上がそこから見えていた。すぐに見つかるだろうことは誰の目にも明らかだった。

「にいちゃ……」

「黙ってろって。良いか、ここから動くなよ? ──動くと鬼に見つかるけん」

 最後の念押しが信二には効いたようだった。素直な彼は「けど」と言いかけていた自分の口を両手で押さえるとこくりと頷いて、体を小さくして体育座りをする。

「俺は別の所行くけど……絶対やけんな!」

 肩を掴んでもう一度頷かせると僕は安心してその場を立ち去った。

 その小さな、座り込んだ弟と二度と会えなくなるなんて知らずに。


「すいません」

 僕は人気のない校庭側を回って、玄関へと足を向け用務員室の窓を叩いた。

 見学を申し込んでおいたのだ。在校生が校舎の解体を知って、学校に足を向ける。そういったことが今年に入り何件かあったそうだ。電話口ではそう不審がられもせずに見学が許可された。ただし、子どもたちがいない夏休みの午後であればと。

 出てきたのは初老の、といっても僕と同じくらいだが、女性でにこやかに対応してくれた。見学証と書かれたカードを手渡され、首から下げるように言われる。お帰りの際にはこちらでこのカードを返却してくださいね、となんとも不用心だ。が、こちらとしては有り難い。

 僕は礼を言うと、真っ直ぐに……当時の、僕たちの教室へと足を進めた。


 結果を言うと、信二は消えてしまった。

 真夏の人気のない校舎で、教卓の下から忽然と姿を消したのだ。

 最初は僕も仲間たちも、信二がかくれんぼに飽きてしまったのだと思った。

「ったく、じゃけぇあいつは……」

 なんて僕も言ったりして、仲間全員で校舎中を探した。信二はいなかった。

「せ、せんせいに、見つかったんじゃ……」

 普段はおとなしい大場がそう言った言葉が救いに聞こえた。怒られるのを覚悟で僕らは職員室へ向かった。けれど、そこにも信二はいなかった。当直の先生が血相を変えて、僕の家の住所と電話番号を聞いてきて……そして、家にも信二は帰っていないことが分かった。

 その後のことは混沌としていて、記憶の前後はちぐはぐだ。

 僕たちは職員室に集められて、保護者が呼ばれて、多分警察?の人に何度も同じ質問をされた。日が暮れても信二は見つからなかった。次の日も、その次の日も。

 家にも沢山の人が来た。来ては帰って、またすぐに来た。親戚のおじさんおばさん、知らない人、玄関の向こうに群がる新聞記者の人たち……隣の町でも子供がいなくなっているらしいという嫌な噂を言って帰る人もいた。僕らは連絡を取り合うことも出来ずに、外にも出れず。大人たちだけがワーワー騒いで、僕らの夏休みは夏休みでなくなった。

 僕は悲しいというよりもびっくりしてしまっていた。いつも母親と手を繋いでいた小さな弟。「ほら、早く手を繋いで」と言われて、何度も何度も手を繋いできた弟。

 それがいきなりいなくなってしまうなんて。

 ……死体は出なかった。行方不明の張り紙を父も母も近所に貼って歩いて、母はテレビにも出たようだった。後にそれが原因で離婚したらしいが、その頃の僕はそれを知らなかった。

 ただ新学期、学校ではクラス替えが行われて、僕らの仲間はクラスをバラバラにされた。一番信二の面倒を見てくれていた瀬口などは何度も僕に話しかけようとする気配が感じられたが、僕はどうしてもそれに応じる気にはなれなかった。


 そこまでを思い出して、僕は古びた教室の扉の前で足を止めた。今は三年一組になっているらしい。僕らのもと五年一組。指をかけて扉を引き開けると、カラリと音を立てて僅かな抵抗を残して扉は開いた。

 足を踏み見れると、外気よりもむっとした空気が僕を取り巻いた。と同時に乾いた若干すえた臭いもした。

 並んだ、あの頃よりも数が少なく感じられる机の数に過ぎた年月を感じながら教卓を見やる。もちろん、そこには信二はいない。

 僕は天板に手をついて、教卓を覗き込んだ。何もない。誰もいない。僕は身を屈めて、教卓の下に潜り込んだ。なぜそうしたのかは分からない。大人になった僕には教卓の下は随分と狭くて、手足がはみ出てしまう。

「……もうーいーかい」

 できるだけ、あのときの信二のように手足を縮めて鬼から隠れる。探しても探しても、見つからなかった信二。ぎゅっと目を閉じる。

 その時だ。

 はあっと、凍えるようなため息が僕の耳元でした。

「もういーよ……」

 か細い、高い子供の声。そして、だらりと下げた僕の腕をさわさわと撫でて、指先をぎゅっと握る小さな手の感触。

「……信、二……?」

 冷たい手の感触は消えない。僕は振り返ることなく軽くその手を引いた。振り返れば消えてしまう気がした。

「もういいよ」

 声は繰り返す。

「信二、みーつけた。もう……帰ろうや」

 そうして、「信二」を連れて学校を出た。運転も片手でし、けっして隣を伺い見たりはしなかった。そのまま実家へと「信二」を連れて僕は帰った。冷えた指先に握られた僕の左手は、真夏だと言うのにもう凍えるように冷たくなっていた。

「久しぶり。せっかくだったから、寄ったよ」

 老母に、小学校へ行くことは伝えてあった。大学を期に家を出てからほとんど戻らなかった実家。僕の隣には相変わらず「信二」の気配があった。

 そうすると、血相を変えて母親が飛び出してきた。

「落合先生やったって」

「え」

「信二、連れ去ったの……落合先生やったって。他の事件で捕まはって、さっき、連絡があった……」

 あの頃よりも一回り以上小さくなった母親が玄関先で泣き崩れた。

 僕は背筋がゾクゾクとして、繋いでいた手をきつく握った。

「信二……?」

 ゆっくりと振り返る。そこには夕暮れ近い夏の重い空気だけがあって、僕は何も残されなかった自身の手をじっと見つめた。


【end】

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夏の記憶 河野章 @konoakira

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