閑話11 魔王蛸髭
「髭」の1本が死んだ。
王国と南方連合の間にある瘴気領域の外れ。一匹のゴブリン変異種が、針を刺すような痛みでそれを感じ取った。
(これは、ギガーズか)
思案顔になり、顎髭をさする。否、髭ではない。毛の代わりに、蛸のような触手が無数に生えていた。それをぬるりぬるりと片手でしごく。
ゴブリンは人間の間で魔王
支配下に置いた人間の村から税を搾り取ることをおぼえると、彼の群れは急速に発展した。安定した食料供給により爆発的に数を増やしたのだ。もともとゴブリンは多産だ。大事に子育てをするという概念がない。
だが、蛸髭はそれも改めた。生まれたゴブリンは一箇所に集め、飢えないよう食料を分配した。これにより、死なずに成体まで育つゴブリンの割合は大幅に高まった。
数は力だ。増えた群れ……もはや国というべき規模かもしれない。それを使って他のゴブリン氏族も取り込み、異なる種族の魔物さえ傘下に加えた。
そうして勢力を高めていると、人間の軍が送り込まれてきた。数はこちらがずっと多かった。いつものように蹂躙してやろうと襲いかかった。
そして、惨敗した。
正面から当たることしか知らないゴブリンの軍はまず大盾を持つ兵に足を止められた。大盾の影から振り下ろされる長槍に次々に頭を砕かれた。攻めの勢いがなくなったところに、横から騎兵が突っ込んできた。
それでもうおしまいだ。混乱し、恐怖に駆られたゴブリンたちは逃げ惑い、追い散らされ、追いつかれ、殺された。この1戦だけで群れの半数以上が死んでしまった。
蛸髭自身も必死に逃げながら、どこか冷えた頭で他のことを考えていた。「戦術」というものの重要性をはじめて知ったのである。軍の中で、あんな風に役割を分けて戦うことは当時のゴブリンたちでは不可能だった。できたとして、群れを小分けにして突っ込ませる順番を変えるのがせいぜいだろう。
これでは、人間には勝てない。
瘴気領域の奥まで退き、体勢を整え直した蛸髭がまず行ったのは知識の収集だった。人間の村を襲ったときは、身なりのよい、教養のありそうなものを捕らえて教師とした。それまでは焚付くらいにしか考えてなかった書籍も焼かずにすべて手元に持ってこさせた。
人間の言葉を学び、人間の歴史を、技術を、哲学を学んだことにより、蛸髭の思想はゴブリンのそれとは完全に異質なものへと変化していた。「或るゴブリンの一生」という本に影響を受けた部分がかなり大きい。
100冊を超える大長編だったが、蛸髭は何年もかけてこれを全冊揃えた。その物語の中で、主人公のゴブリンはどんな苦難にあっても決して諦めず、常に勝利を目指し、「よりよいゴブリンの生き方」を考えながら努力を重ねていた。
こんなゴブリンは存在しない。少なくとも、蛸髭が見てきたゴブリンは獣に毛が生えた程度の知能しかなく、腹が減ればエサを食い、女を見れば犯そうとする。未来を見据えて行動するという資質に著しく欠けるのだ。
「或るゴブリンの一生」の最終巻を読み終えたとき、非業の死を遂げた主人公に涙しながら、蛸髭は誓った。「この世界を、ゴブリンのための世界にする」と。そして、ゴブリンという種、そのものの進化を目指そうと。
野放図に繁殖するに任せていたゴブリンたちを恐怖によって統制し、さまざまな人間や亜人、魔物との交配を行わせた。これはという変異種ができたときは、同じ組み合わせでの交配を繰り返した。
強力な魔物との交配には何匹ものゴブリンが犠牲になったが、これはゴブリンの未来のための投資である。その程度のことで蛸髭の心が揺れることはない。
ごくまれに人間によく似た混ざりモノができたときは、念入りに教育を施して人間の街へと潜り込ませた。人間から奪った財宝で住民を買収し、街を落とす手引をさせたり、必要な物資を買い揃えたりした。魔物にそんな知能があるはずがないと侮られているのか、正体が露見することは一度もなかった。
あの敗戦の時以上に勢力を盛り返すと、次に問題になったのは将の不足だ。ゴブリンたちは自分の目の届く範囲ならば言うことを聞くが、目を離すとすぐに好き勝手をはじめる。自分の名代となって軍を率いることのできる人材が必要だった。
髭が湿った音を立ててくねった。ギガーズを失った痛みを思い出したのだ。作戦の失敗自体は大して痛手ではない。背後に奇襲をかけられたという事実で王国軍に揺さぶりをかけられれば目的の半分は達成したようなものなのだ。
蛸髭には、その知能の他に特殊な力が備わっていた。己の髭を切り取り、他の魔物に与えることで知能や身体能力を強化できた。だが、これは無尽蔵にできるわけではない。失った髭の分だけ、蛸髭自身は弱体化するのだ。
捕らえた人間の魔術師に見せたところ、魂魄を削って分け与えているらしい。すなわちそれは、蛸髭自身の命を分け与えているに等しい行為だった。軽々しくできることではない。
だからこそ、蛸髭は己の髭を殺した者を強く恨む。怒りで呼吸が荒くなり、机代わりに置いていた傍らの樽を拳で叩き割る。それは蛸髭自身を傷つけたのと同じことだからだ。一生をかけても追い詰め、制裁を加えることを心に誓う。
幸い、ギガーズにつけていたもう1本の髭、シックルは無事なようだ。あれは髭の中でも特に賢い。ここから指示をする手段はないが、蛸髭の意を汲んで舞い戻り、ギガーズを殺したものを伝えに来るだろう。
蛸髭はまだ見ぬ
しかし、現状はそれどころではない。帝国側からの圧力が高まっているのだ。しばらく前に緑の魔王とやらが討伐されたらしく、それを為した者を勇者として旗頭に立てて圧力を強めてきているのだ。
北の王国、北東の帝国、南の南方連合。これまでは帝国が弱っていたために優勢に立てていたが、三国に本腰を上げて攻め立てられてはひとたまりもないだろう。
蛸髭は人間から奪った地図に目をやる。それによると、南方連合のさらに南に広大な瘴気領域が広がっている。北の2国に比べ、南方連合は寄り合い所帯で連携に欠くところがある。隙を突くならばここだろう。
蛸髭は地図の一点にナイフを突き立て、従卒のゴブリンに全軍招集を命じた。
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