二
音は宿の裏にある林の中から聞こえてきた。位置関係的に林を突っ切った向こう側は道路に面しているし、そんなに広い林ではない。多少迷ったとしても遭難することはないだろう、と私は思った。申し訳程度に周囲を照らす月明かりも林の奥まで進めば遮られてしまう。頼りになる灯りは私の持つ懐中電灯だけだった。
耳を澄ますと静寂に包まれる。ふいと辺りを見渡して、意識を尖らせて、見失ったなと落胆しかかった頃にまた手拍子が聞こえる。私が口笛を吹いてやるとお返しにまたぱちぱちと聞こえた。まるで子供と追いかけっこでもしてじゃれているみたいだった。
先に進む。ふらふらと誘われるように歩く。帰り道のことなんてまるで頭になかった。目先の興味に手を取られただ進む。
真っ暗がり。
静寂。
時折聞こえる手拍子の音色。
「あ」
そのとき、突然視界が闇に包まれた。懐中電灯の電池が切れたのだ。
足の先すら見えない一面の闇。それでも闇の向こうから、さっきと全く同じ軽やかな拍手の音が聞こえた。
ぞわり、と首の後ろに寒気が走った。
ここに来て私は夢から覚めたように冷静になった。振り返れば、まだ遠くに宿の明かりが見える。だけどその明かりは予想以上に遠くにまで離れていた。周囲に生えていた木々の姿も見えなくなって、私が立っているのが本当に林の中なのかすらも怪しく感じた。
私はどこに向かおうとしているのか。
私はどこに連れていかれているのか。
ぱちぱちと暗闇から音が聞こえた。誘うように、音が聞こえた。一歩足を踏み出せばすぐ目の前に深い穴があって、そのまま私の知らない場所へと落ちてしまうんじゃないかという錯覚さえした。
この先に進んだらまずい。私は懐中電灯を握りしめ踵を返そうとした。そのとき闇に慣れてきた目がかすかな光を捉えた。月明かりだった。
木々の合間を縫って、スポットライトのように細かい光の筋が射しこんでいる。目を凝らさないとわからないくらいのかすかな光だ。不思議なことにその光はずっと向こうまで並んでいて、一つの道となっていた。
迷いようがない真っ直ぐな道だ。
戻ろうと思えば、まだ引き返せる。
あと少し、せめてあの音の正体だけ見てみたい。
私は戻ろうとしていた足を止め、淡い光の射す林の奥へと向かった。
そこにあったのは一本の木だった。
白樺でも生えているのかと思った。その木は周囲の木々と比べてあまりにも白く、暗闇の中に浮き出て見えたからだ。
月明かりをぼんやりと反射して、その木は夜空に向けて幾本もの枝を伸ばしている。葉はなく、裸の枝だった。
私がそれを一目視界に入れた瞬間に抱いた違和感は、「あまりにそれが整いすぎていること」だった。幹から生えた太い枝、そこから伸びる枝先が、大小太さの違いはあれどすべて五つに枝分かれして伸びている。五つに枝分かれする分岐の部分がやけに平たく大きい。そして太い部分の枝に対して末端の枝は随分と短くて、五本の枝の両脇の二本がいっそう短い。私は気づいた。
それは人間の腕だった。
何本もの人間の腕が枝のように木から生えていた。
懐中電灯の灯りはついていないのに、関節のところで節くれ立つ指やその先についた爪まではっきりと見える。血管が透けて見えそうなほどに白い腕だった。さっきまでそれが植物に見えたはずなのに、指から手首、肘から二の腕へと辿っていくと確かにそれは肉の塊で、なめらかな肌が幹へ近づくにつれ木の表皮へと同化している。赤子から青年まで様々な大きさの腕が根元から夜空に向かってグラデーションに並び、男とも女ともつかないなめらかな腕の一群に、視界を奪われる。
ひゅっ、と無意識のうちに私は引きつった息を漏らした。すると風なんて吹いていないのに白い腕が揺れ、ぱちり、とすぐ隣の手の平を叩いた。叩かれた腕はそのまた隣の手の平を叩き、通り雨のように次第に音は大きくなっていく。
ぱち。
ぱちぱちぱちぱち。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱら。
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