手のなるほうへ

 山の上に小洒落たカフェができたというので、ミーハーの私は自転車を漕いではるばる山の上までパンケーキを食べに行った。味は可もなく不可もなく。もったりとした生クリームがずしんと胃に溜まる。賽の河原に並べておいても遜色なさそうなパンケーキだった。

 残念ながらそんなほこほこした気分も帰りになってから台無しとなる。不慣れなでこぼこ道を走り回ったツケが回り、通常スペックしか持たないマイ自転車がパンクしてしまったのだ。結果、やつれたマイ自転車を手で押してとぼとぼと徒歩で家へと向かっている。胃に溜まった生クリームがずしんずしんとボディをブロウしてくるのが辛かった。

 しかしそんな私にも幸運が訪れる。とっぷりと暮れた暗闇の中を懐中電灯で照らして歩いていると、宿屋の看板を見つけたのだ。麓まで歩くだけの体力なんてなかったので、私は喜び勇んで宿屋へ向けずんずんとと進んだ。実はとうに潰れた宿でした、というオチもなく、私は無事一部屋とり畳に腰を落ち着かせることができた。ところどころカビの臭いがする古ぼけた宿屋だった。

 畳に寝転がって休息をとっていると、何がおかしいのか私の両足が大爆笑を始めた。思い切って平手打ちをしてやると尋常じゃないくらい足が痺れた。あまりに不毛だった。

 素泊まりかつ周囲で夕食を食べられそうな場所もないので、私は非常食の乾パンをもそもそと食べながら室内を観察する。天井には謎の染み。不規則に明滅する不気味な蛍光灯。陰気な色をした土壁。いかにも幽霊の好きそうな部屋じゃないか。私は体の疲れも忘れ、うきうきと室内に『おどろおどろしいもの』がないか探してみた。テレビの裏とか掛け軸の裏とかに貼ってあるお札を見つけるのが私は大好きなのだ。下手に幽霊を見つけて呪われでもしたらどうするのか、なんてことは考えない。純然たるただの興味本位だ。好奇心を我慢することの方が体に悪いだろう。

 障子を開け閉めし、座布団の裏を覗き、私が押し入れの中に頭を突っ込んだタイミングで、それは見つかった。だがそれは私が求めているのとは微妙に違う代物だった。

 『口笛禁止』とこぢんまりとした字が書かれた色褪せた張り紙が、押し入れの奥の壁に慎ましく貼られていたのだ。

 隣の部屋の客人に迷惑がかかるからやめろという注意喚起だろうか。はたまた口笛を吹くと魑魅魍魎でも現れるのだろうか。後者だとしたら是非とも試してみたいところだが、前者だとしたら私は隣の客人ないしは宿屋の主人に叱られてしまう。そこで私は宿屋の主人に張り紙のことについて尋ねてみた。

「はぁ」

 宿屋の主人はなんとも気の抜けた返事をした。

「夜中に口笛を吹くと不吉だ、という迷信は聞いたことありますがねぇ。誰が貼ったんでしょうな。わかりませんなぁ」

 ふにゃふにゃとした声で宿屋の主人は言う。彼もあの張り紙についてよく知らないようだ。

 好奇心がふくふくと膨れ上がった私は、両隣が空き部屋であることを確認すると早速口笛を吹いてみた。笛ラムネのような情けない音が出る。久しく口笛というものを吹いていなかったおかげでだいぶ鈍っているらしい。ぴぃよ、ぴぃよと何度か雛鳥の真似事をして感触をつかんだ頃合いで、適当な童歌を吹いてみた。

 周囲に人気のない夜の宿の中。口笛の音がすぅっと通って、しんと静まり返っていた部屋の空気がぴりぴりと震える錯覚がした。さて、鬼が出るか蛇が出るか。口笛を吹き終えた私は胡坐をかいたまま何が起こるのか待った。

 畳の香ばしい匂いに混じってカビの臭いが鼻をつく。窓を覆う真四角の障子を眺めるも、ただまだら模様の染みがあるばかりで動きだす気配すらない。何気なく背後を振り返ってみたが、煎餅布団とちゃぶ台があるだけで私の他には誰もいなかった。

 少し期待しすぎただろうか。膨れ上がった好奇心は破裂するでもなく、部屋の隅に置きっぱなしにした風船のようにしょぼしょぼになっていく。その時ふと、遠くから拍手が聞こえた。

 宿屋の主人が私の口笛に聞き耳でも立てていたのだろうか。気休め程度のお世辞なら止めてほしいものだ、と私が思っていると、拍手はなにやら窓の外から聞こえている。

 障子を開ける。窓の外には誰もいない。

 真っ暗闇の向こうから、ぱちぱちぱちと小雨のような拍手の音が聞こえている。好奇心の風船が膨れ上がった。無意識のうちに私の口元は大きく弧を描いていた。私は部屋を出ると、靴を引っ掴んで外へと駆けだした。

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