カラッポのユウ

 ユウはこの世界に来る半年前は、一星夕いちぼし ゆうという名前の中学三年生だった。少し背がひくいだけの、ごく一般的で平均的な日本人の女子だったと自負している。


 この世界に来たきっかけは、本当に突然のことだった。


 その日のユウは、学校帰りの橋の上で、ぼんやりと夕暮れに染まる川を眺めていた。革の学生鞄の中の、たった一枚のプリントが、ユウの心を重くしていた。「希望進路調査票」。白紙のまま長く放置されたそれは、提出期限が明日に迫っていた。


(カラッポ……)


 自分と同じように馬鹿をやっていた友人のマイぴょんも、マックでポテトのLを頼むくせにダイエット中と言い張るカエたんも、ピアスについて学年主任とバチバチにやりあっていたアユにゃんさえ、やりたいことを見つけた。みんな同じように無計画で享楽主義だと思っていたのに、こっそりと胸中で夢を大事に温めていたのだから、驚いた。


 エスカレーター式の進学校、栄養士、美容師……現時点ではどの夢も「無理に決まってきる」と失笑されてもおかしくない。でも、自分には失笑される夢もない。誇れるような趣味も特技もない。内なる自分自身に「やりたいことは?」とか「好きなことは?」と問うてみても、何も答えが返ってこない。


(明日までに決めなきゃ、なんだよね……)


 両親は、登下校の利便を考えて、一番最寄りでそこそこの偏差値の高校をおすすめしてくれた。やりたいことも、好きなことも特にないのだから、現実的な落とし所だと思う。けれど「家から近いので」なんて理由で、大事な進路を決めていいのかと迷い始めると、結論を出せずにいた。


 だって同級生の親友たちは、自分の「好き」を見つけて、具体的な形にしようとしている。それは、とてもとても、すごいことだ。人生の分岐点に臆することなく、自分と対話し、道を選んだ彼女たちを、掛け値なしに尊敬してしまう。


 そして、自分の手のひらを見つめる。自分の道を選ぶための経験も、判断材料も、何も持っていない。あこがれもなく、自分の適正も分からず、まったくの手ぶらだ。スマホを覗けば、夢に邁進する同年代の有名人たちが、失敗や遠回りすら楽しむように、近況を動画付きで報告し、イイネを荒稼ぎしているのに。自分はリングにも上がっていないどころか、試合会場も、競技種目も決まっていないのだ。


(進路……競争)


 進路なんていうものは、人生で最大級の試合会場だ。人より勝る動機を。人より勝る偏差値を。信念のないものは見下され、挑戦に失敗すれば嘲笑される。


(逃げたい、かも……)


 ……思えば、もともと自分は、他人と競ったり争ったりするのが苦手だった。誰かが誰かに勝ったとか、誰かは誰かと比べてどうだとか、そういうことに巻き込まれることが苦手だ。一星夕は静かに暮らしたい。それは全人類の共通する願いだと思う。


 全人類の共通する願いなはずなのに、世間は争いに満ちている。SNSでも教室でも、誰かの服のセンスがどうだとか、誰かのトーク力がどうだとか、誰かの成績がどうだとか。自分と他人の出来を競わせる事こそが、この世の至高のエンタメらしい。


(はぁ……)


 比較や競争自体が嫌なのではない。技能を高めるためには、競争の装置があったほうがいいことは、なんとなく分かる。

 けれど競争の後、人の態度が変わるのが嫌だ。勝者は増長して偉そうに振る舞い、敗者は傷つく素振りで相手を間接的に攻撃する。そういう浅ましい様子を見ると、まるで自分がされたように悲しくなる。そして、その悪感情をもし自分に直接ぶつけられたらと思うと、ゾッと背筋が寒くなる。


 中学では徹底的に争いを避けることに決めた。

 意見が衝突しないよう細心の注意でもってして無難な返答を捻り出し、協調した。花屋に並んだオンリーワンより、そのへんの名もなき雑草を目指して、よく笑った。複雑に絡み合う交友関係の網の目をすり抜けて、かといって孤立しないように、距離を保って、体面を保って……。


 おかげでこの二年間、大きなトラブルに見舞われたことはない。クラスの中では「ユウは優しいね」「ユウといるとホッとする」で通っている。

 けれど、その大きな代償を払っている。

 人の顔色を伺って、人に合わせて意見を曲げて、自分の「本当の気持ち」を殺していたから。

 自分が何を考えているのか、分からなくなってしまった。


(カラッポ……)


 「本当は何が好きなの?」「将来何になりたいの?」「本当の気持ちは?」……。自分自身に何を問うても、返事がない。どんなに自分の内側を覗き込んでも、丁寧にお伺いを立てても、投げかけた声が響くだけ。


 がらんどうで虚ろな穴、それが自分だ。

 そこには誰も、居やしない。


 けれど、同級生たちは違う。彼らは自分と違って、相手とぶつかって争ったり揉めたり傷ついたり、決して穏やかな中学生活ではなかったと思う。けれども、他人とぶつかった分だけ、相手とは違う等身大の「自分の形」を知ったに違いない。その証拠に、もう自分の行く先を見つけている。


(それにくらべて、わたしの経験値のなさったら……)


 まだ自分という形すら分からない。逃げ回っている間に、もう時間切れだという。もう将来の進路を決めなくてはいけないという。このキラキラした相手と同じフィールドに立ち、戦っていかなければいけないという。


(……どうしたもんかなあ……)


 欄干を掴んで橋の下を覗き込むと、水量の乏しい川がみっともなく流れている。こんなちょろっとした水量で、果たして川と呼べるのだろうか? 形だけ取り繕った姿は、まるで自分と同じように見苦しい。

 醜い現実から目をそらすように空を見上げれば、始まりかけの夜空に小さく一番星が光っていた。


 あんなふうに、暗闇で輝ける子は一握り。目的があって、スタートラインにいち早く立って、スタートダッシュにも成功した、限られた一握り。いまの自分には眩しすぎて、星すらまともに直視できなかった。


(わたしって……なんなんだろう)


 人に合わせて考えも流されて、空っぽで。努力しないくせに羨ましくて。たしかにここに居るのに、たしかに存在しているのに。何も産まない。何も成さない。


(……わたしなんか一生、「その他大勢」なんだろうな……)


 自分も友達のように、自分で活路を見つけて開いていくような、一番星のように輝く人物でありたかった。



 ふとした拍子に強烈な光に照らされ、強引に思考の海から引き揚げられた。

「っ!?」

はじめは脇を走る車道のヘッドライトが当たったのかと思った。視界が光に塗りつぶされて、思わず手で遮った。

 しかし、よく見れば光の出どころは足元だった。見慣れない文字と五芒星に装飾された円形の光は、魔法陣と呼ぶのにピッタリで、代わりの言葉が見当たらない。何かのドッキリとか、プロジェクトマッピングとか、混乱する頭で様々疑った。


「なに、何……!? えっえっ……?」


 いよいよ光が瞼の裏まで突き刺さり、足元の光が柱となって空を貫いた頃、事態の異常さがやっと身にしみた。が、遅かった。落下するような浮遊するような、内臓が浮く感覚。そのあと、何かに引っ張られるように移動する感覚に包まれた。

 ぐらりとバランスを崩して、思わず手をふりまわす。しかし転ぶ衝撃が一向に来なくて、わたしはゆっくりと目を開いた。


 恐る恐る開けた瞳に入ってきたのは、広大な宇宙のような暗い空間だった。光る星々の中に自分は浮いている。


(は……? え……?)


 とっさに、宇宙で呼吸ができるのはおかしいと思った。

 しかし、よく見れば、宇宙ではない。

 頭上には海を飲み込むほど大きな、透明で銀色に輝く天幕がたなびいている。透けるそれの向こうに、また同じ銀色の天幕があり、その向こうにも同じように……合わせ鏡を覗いたように、どこまでもどこまでも無限に頭上に広がっているのだ。


「なに、これ……!」


 足元を見やれば、頭上と同じように無限に銀幕がたなびき、底が見えないほど重なっている。合わせ鏡の無限空間。浮いているのか落ちているのか、上下がもはや分からない。何が起きているのか、生きているのか死んでいるのかすら、分からない。


 不意に、ドンと間近に雷が落ちるような轟音がした。無限に続く銀幕の地平線の向こうに、光の柱が立つのを見た。自分を貫いたそれと、よく似ている。その瞬間、そして唐突に、重力の洗礼を浴びた。ドスンと、小高いところから落とされたのだ。


 その後、目を開いた時に見えたのが、見知らぬ世界の衣装を着こなしたおじさんたちの心配する顔だった。


 こうしてわたしは、異世界に半ば無理やり召喚されてしまったのだ。

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