落下
『だれもしらない物語になろう。だれもしらない色の油絵の具で、だれも見たことのない絵を描くように』
青に混じる赤、紫を生む筆、パレットは絵の具の海。彼の言葉を思い出す。
壊れたカメラ、擦り切れたフィルム、途切れた像、彼の細い人差し指。
シャッターの下りる音でふと目が覚める。
ポロンとピアノの酸っぱい音色がして、彼女がピアノを弾き始める。
「わたしはね、いつか遠くに家を建てる。家には大きな犬がいるの。ゴールデンレトリバーよ。旦那さんは背が高くて、あなたみたいに優しく笑うひと。子どもはふたり。男の子と女の子。3つ違いの兄妹よ」
君の計画は美しかった。一寸の狂いもなく創造された未来。僕はそれが怖かった。
鼻歌交じりに聞こえてくる旋律。ぞっとするほど暖かな旋律。すべて僕に向けられたものだと思うと吐き気がした。
「あなたに夢はある?」
嫌いな質問だった。僕に夢はなかった。吐き棄てた夢は腐るほどあった。
僕は画家になりたかったのだ。
「僕に夢はないよ。強いて言うなら、この世からいなくなること」
「またあなたはそんなこと言って。馬鹿ね」
馬鹿はお前だ、と言ってしまいそうになった口を押さえる。僕は何年も同居した彼女を嫌いになっていた。
思い出すのは数年前に別れを告げたあの人のこと。
『きみは正しい。でもきみはクラゲにはなれない。わかるかい?きみはこの掃き溜めのような世界で生きていかなければならない。それを僕は支えたいと思う。だめかな?』
教授、あなたの言葉は正しい。あなたを手放した僕は普通になることもできず物として彼女を扱い、決して許されない行為を繰り返している。
教授、あなたはまだ僕のことを覚えていますか。
教授、あなたはまだ僕のことを愛していますか。
あなたが光だったあの頃、あなたにカメラを向けられるのが好きだった頃。
学生生活が輝いて見える夜。耐え難い現実に僕はピリオドを打つ。
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