第2話

 黒猫の鳴き声で目が覚めた。

 両目を開けて、ぐるりと回りを見渡す。床の間や違い棚のある風情のある和室。私は浴衣姿で布団に寝転がっていた。

 妻の姿は見当たらない、傍らにいるのは黒猫だけだった。のろのろと身体を起こしトイレに行く。ビールをあおったせいか、はちきれそうな尿意だ。

 隣の脱衣所から物音が聞こえてくる。


「風呂か?」


 小用を済ませ、脱衣所の戸をあけて風呂場のガラス戸に映った人影に声を掛ける。


「あれ、もう起きたの?お風呂一緒にはいりましょうよ」


 屈託のない妻の声。


「汗流したら気持ちいいわよ」


 誘われるまま浴衣を脱ぎ、裸になって脱衣所の鏡と向き合う。全く記憶にない壮年の男性が映っている。白髪交じりだが筋肉質で頑強な肉体を持っている男。かつての私はずっと若かったが、痩せて貧弱な身体をしていた。

 スポーツジムでも行けば、と妻はよく言ったものだった。その度に私はいつにない劣等感にかられ、彼女を誘惑する他の男の出現に怯えていた。

 身体を洗っている妻の裸体に息をのむ、やはり壮絶なほど美しい。整った容貌はむろんのこと、蛍のように内光りする白い肌、くびれた張りのある下腹部そして女性らしさを誇張する胸や腰の曲線。神話の世界の女神のようだ。破綻した己の状況も彼女の奇跡的な美も全て幻なのか。

 ならば今の世界を受け入れよう、この場所がどこであろうと自分が誰であろうと、彼女さえ存在すればいい。後のつじつまは自然の流れがうまく帳尻を合わせてくれるだろう、今までそうだったように。思い悩むのはくだらない、取るに足らぬことだ。

 私は妻を抱いた。朝も昼も夜も、寝所だけでなく風呂や居間のソファでも。半ば狂乱した精神と、情欲と精力の限りを彼女の肉体にぶつけるように。休み明けのことなどどうでもいい、今さらどうする術もない。このまま時が止まって欲しかった。

 黒猫はいつもどこかで我々を見ていた。金色の鋭いまなざしで。時の番人か、或いは運命をつかさどる使者に常に見張られているように思えた。

 私はずっと家に引きこもっていた。外に出たら最後、再びどこか異世界にワープする不安にかられた。たまに妻が外出する間は、もう戻ってこないのじゃないかと、膨らんだ風船が割れそうな強迫観念的な心境になる。


「買い物に行くだけじゃない、そんなに心配なら一緒に出掛けましょうよ」

「玄関の・・扉を開ける勇気がないんだ」

「どうして?」

「どうしてもだ、どこにも行かないでくれ」

「スーパーに行くだけよ」


 そういう問答のあげく妻はぷいと出かけるが、必ず私のもとに戻ってくれた。

 休みの一週間が瞬く間に過ぎていく。その間、来客はもちろんのこと電話の一本もかかってこない。もしかしたら外界と電波が遮断せれているのだろうか。携帯電話を調べても心当たりのない知らない名前ばかりだった。当然といえば当然だが。


 休みの最後の晩、妻は風呂から上がり、ソファに座ってマニキュアを塗っていた。白っぽい浴衣姿が死に装束のように錯覚する。ならば黒い浴衣姿の自分は黄泉にいざなう死神なのだろうか?


 紅く彩られた彼女の爪。

 窓から見える蜂蜜色の湾曲した三日月。

 異様な声で鳴きつづける黒猫。

 猶予のない切迫した時間。


「さあ、綺麗に出来上がった。ご飯にしましょうね」


 両手をヒラヒラさせて、妻は花のように微笑む。


「明日から又お仕事ね」


 明日?

 仕事?

 ぼんやりと他人事のように、ただ聞いていた。このまま明日になったら、いったいどうなるというのか?

 いや、考えるのはやめよう・・

 並々とつがれたビールを飲みながら焼き魚の身をつついた。緑鮮やかなホウレン草のお浸しや枝豆も食卓に並んでいる。

 妻は上品な箸使いで、しとやかな作方で食事をする。外ではもちろん、家の中でもけっして無作法ではない。いろいろな意味で満点をはるかに越えた女だ。

 ふと、浴衣のポケットに気づき指を突っ込むとリボン付きの小箱がある。包装紙の柄から菓子のようだ。妻は甘いデザートが大好物だった。


「これ、もしかして君の・・」


 正面に座っている彼女に小箱を手渡す。


「まあ、このチョコレート有名なのよ。たぶん新発売のレア物、売り切れでなかなか手に入らないものよ!プレゼント?嬉しいわ」


 憶えがない、偶然のサプライズだったが無駄なコメントは控えた。どこかの誰かさんが仕掛けたのだろう。

 包み紙を破り、彼女はチョコレートの粒を口に含む。が、間髪なく顔をしかめて手の平に吐き出す。そしてすくっと立ち上がるや、そのまま洗面所に走っていった。

 私は啞然として、あとを追いかける。ガラガラと執拗にうがいをする姿にわけがわからず立ち尽くしていた。もしかしたら古かったのだろうか・・?

 

「お酒が入っているじゃない」


 うがいの音の切れ目に金切声が響いた。


「え?」

「なんで酒が・・」


 両の眼がにらみつけてくる。なごやかな先刻までとは目の色が違う、憎悪にあふれた表情だった。

 しばらくして、私たちは食卓に戻ったが、彼女の異変は継続していた。頭をかかえこんで、こんなはずじゃないとうめいたり色々な呪いのセリフを吐き捨てる。まるでジギルとハイドのように人が違ってしまっていた。

 私はといえば、オロオロするだけで声もかけられずにいた。予測できない事態にいったいどうしたらよいのか・・

 と、彼女はかぶりを大きく振りキッと目を見開いた。毛細血管まで露わな、充血した二つの眼!

 振り上げた右手には握りしめられたフォークの先端が光っている。


「酒は一滴も身体にいれたくなかったのに、おまえのせいだ。うまそうに目の前でビール飲みやがって」


 柄の長いフォークを振りかざして、激高する妻。硬直したまま震えている自分。


「許せない」


 彼女より先に立ち上がり、私は玄関に向かって脱党のごとく駆け出していた。本能が逃げだせと叫んでいた。

 妻とは異質な、邪悪な負のオーラが背中のうしろから追いかけてくる。鍵を開けて、扉を両手で力いっぱい押す。

 目の前に映った信じられない光景!扉の向こうは、遥か遠方まで砂丘が四方に広がっていた。

 殺してやる。耳元でささやかれ熱い吐息が吹きかかる。全身が鳥肌になり、ロケットのように前のめりで飛び出していた。が、回りには空気だけで、重力にしたがって、ずんずんと落下していく。

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