【二九三《焼愛戦役(しょうあいせんえき)》】:二

「高校の頃から凡人さんは女の子に優し過ぎるんですよ。だから、あの子みたいに勘違いしちゃう子が出るんです」

「どうしても見捨てられなかったんだ……」

「まあ、それが凡人さんの良いところだしその優しさに私も助けられましたけど、凡人さんの彼女はお姉ちゃんなんですから」

「俺は百合亞さんのことは好きじゃない」

「それでも、あの子は凡人さんに優しくされて完全に好きになっちゃってるんです。家まで連れて来てもらって結構期待したんじゃないですか? 本当に奪えちゃうかもって」


 優愛ちゃんは俺を咎めるように言う。いや、優愛ちゃんは俺を咎めている。


「昨日、無理矢理にでもあの子の友達に押し付けて――……まあ、終わったことは言っても仕方ないですよね。それで? 筑摩先輩のことはどうするんですか? 私にとっては、巽さんだけじゃなくて筑摩先輩もお姉ちゃんを不安にさせてるのは同じなんですけど」

「理緒さんにも、理緒さんの気持ちには応えられないって断ってる」

「まあ、これは凡人さんにはどうしようもないことなのかもしれませんけど……凡人さんって、凄く残るんですよ、心に」

「え?」


 心に残るなんて言われたのは初めてで、優愛ちゃんに聞き返してしまう。その聞き返した先の優愛ちゃんは、呆れたような乾いた笑みを浮かべて肩をすくめた。


「ステラって、結構性格が変わってるけど、ヴァイオリンを弾いてる時はめちゃくちゃ綺麗だし、普通の時も喋らなければただの超絶美少女じゃないですか。だから、大学でも声掛けられるみたいですし、一緒に遊びに行っててもよくナンパされるんです」


 確かにステラは美少女だが、ナンパをされる要因はステラだけではなく優愛ちゃんもだ。優愛ちゃんだってかなり可愛いし、大学生になって大人っぽくもなったから、高校の段じゃないくらいモテるだろう。


「ステラは大学で声掛けられても街でナンパされても、決まって言うんです。凡人が一番格好良いって。そりゃあ、ステラにとっては初恋ですから印象に残り易いとは思います。でも、二人で居る時もずっと凡人さんの話をしてるんです。あれはちょっと異常ですよ。その異常な原因は凡人さんにあるって思ってます」

 目を細めて俺を見た優愛ちゃんは、小さくため息を吐いた。


「はぁ~。凡人さんっていつでも格好良い訳じゃないんですよ。まあ、お姉ちゃんに言わせればいつでも格好良いんでしょうけど、凡人さんの場合は本当にふとした時、ここぞっていう時に格好良いんです。だから、すっごいインパクトが強いから記憶に残って、その記憶が薄れ辛いからみんな凡人さんを諦めきれないんです」


 俺から目を離した優愛ちゃんは、今度は外廊下の柵の上に手を置いてため息を吐いた。


「はぁ~…………それが、一〇〇パーセント凡人さんが悪いって訳じゃないんですよ。むしろ、凡人さんが悪いところなんてゼロで、一〇〇パーセント凡人さんが正しいんです。凡人さんのここぞって時の優しさと格好良さに助けられた人は沢山居るだろうし、私だってその凡人さんの優しさと格好良さに助けてもらいました。でも、それでも、その凡人さんの優しさと格好良さが、沢山の人に凡人さんを諦めきれなくさせて、それでお姉ちゃんが不安になっちゃうんです。私は、絶対にお姉ちゃんに幸せになってほしいんです。お姉ちゃんの幸せは凡人さんとずっと一緒に居ることだから、私はお姉ちゃんに凡人さんとずっと一緒に居てほしいんです」


 視線を柵の下に落とした優愛ちゃんの唇が小刻みに震えていた。そして、両手で柵を掴んで唇を噛む。


「今でも思い出します。ストーカーに苦しめられてるお姉ちゃんの姿が…………。あの時は全然見てられなくて……私に出来ることを何でもするって思ってお姉ちゃんを支えようとしました。でも、妹の私じゃどうしても出来なかったんです。…………私はお姉ちゃんのお姉ちゃんじゃないから、お姉ちゃんに頼ってもらえなかった。お姉ちゃんに泣き付かれる対象じゃなかったんです。お姉ちゃんにとって、私は甘える相手じゃなくて甘えさせる相手だった。だから、お姉ちゃんは私の前では全然笑えてない顔で笑ってたんです。……そんなお姉ちゃんが泣きつけるのは……甘えられるのは……世界でたった一人、凡人さんだけだったんです」


 俯いた優愛ちゃんの顔から、下の駐車場に雫が落ちる。それから目を離すのは不誠実に思えて、俺は優愛ちゃんの横顔を見続けた。


「分かってるんですよ。いくらお姉ちゃんと凡人さんが両想いで、凡人さんがお姉ちゃんのことを本当に大好きで大切にしてるからって、私が凡人さんにお姉ちゃんだけ好きで居てって言うのがダメなことくらい。そんなの、誰かに頼まれたからとか強制されたからなんて理由は作っちゃダメなんです。凡人さんが誰かに頼まれたから、私に頼まれたからって理由でお姉ちゃんを好きで居続ける訳ないのも分かってるんです。だけど、やっぱり凡人さんってモテるし可愛い人とか綺麗な人から好かれるし、そもそも人としての魅力も強い人から好かれるから、端から見てて不安になっちゃうんです。お姉ちゃんはめちゃくちゃ可愛いし家事も完璧だし、万が一にも他の人に負ける訳ないのも分かってるんです。でも、私が何かすればお姉ちゃんの手助けになるんじゃないかって思っちゃって…………今みたいに余計なことしちゃうんです」


 一生懸命、俺へ自分の抱いている気持ちを伝えようとしてくれる優愛ちゃん。その優愛ちゃんの凛恋を思う気持ちと、そこから凛恋に有利にことを運ばせたいという思い。でもその思いが間違っているのではないかと言う迷い。そんな心の葛藤がよく……胸の奥にジリジリとした淡く、でもしっかりとした痛みを感じるくらい伝わった。


「お姉ちゃんは確かにモテます。凡人さん以外の人からめちゃくちゃ好かれます。でも、お姉ちゃんは凡人さんじゃないとダメなんです。お姉ちゃんを幸せに出来るのは凡人さんだけなんです。……だから――」

「優愛ちゃんに心配掛けてごめん。でも、俺が一番大好きなのは凛恋だけだよ。それに、これからずっと大切にして行きたいって思うのも凛恋だけだ」


 俺は優愛ちゃんに言葉を伝えながら、心の中にあった凛恋への気持ちを固めて……美優さんへ抱いていた気持ちを捨て去る決意をした。

 美優さんへ抱いた気持ちは淡いものから確かな気持ちへと変わった。それを俺は認めたし受け入れた。でも、凛恋への気持ちと比べたら――いや、比べるまでもない。


 美優さんは本当に可愛らしい人で性格も優しく真面目で良い人で、人から好かれるのが当然と断言出来る魅力的な人だ。だから、そんな人に一時でも心を奪われ掛けることは誰にでもあるのかもしれない。

 気持ちで浮気をしてしまった。凛恋以外の人を好きだと思ってしまった。それは、本当に最低なことだ。凛恋は俺だけを好きで居てくれているのに、俺はほんの少しだとしても、凛恋以外の人を好きだと思ってしまった。でも……それは間違いだったんだ。


 俺がこれから先、一緒に人生を歩んで行くのは凛恋だ。そのために俺は今まで生きてきたし、凛恋と一緒に沢山の困難を乗り越えて来た。でも、だからという訳じゃない。だけど、だからこそ凛恋が大好きだと言えるし、凛恋を一番大切にしなきゃいけないと思える。


「凡人さんの彼女って大変。きっと義孝の彼女をしてるよりも大変そう」

「優愛ちゃん……あの――」

「あっ、勘違いしないで下さいね。私、振られた訳じゃないんで」

「え?」

「私から別れてって言ったんです」

「そっか。でも、優愛ちゃん自身のことだから、俺からは否定も肯定も出来ないよ。だけど、頑張ったね」


 俺にはそれしか言えなかった。

 自分を好いてくれてる人の気持ちを受け入れられないと伝えるのは辛い。ましてや、一時でも心が通じ合った仲なら尚更だ。そんな辛いことを優愛ちゃんはやり遂げた。なら、俺に言えるのはその頑張りへの労いの言葉しかないと思う。


「そういうところがお兄ちゃんのダメなところなんだけどなぁ~」

「えっ?」

「そうやって優しくされると女の子は弱いんですよ? 私が凡人さんのこと好きになっちゃったらどうするんですか?」

「優愛ちゃん、俺は全然タイプじゃないでしょ? 初めて会った時、散々俺のことを貶してたし」


 冗談を言ってからかう優愛ちゃんに笑って言うと、優愛ちゃんもクスクスと笑って言った。


「そうですよ。凡人さんは恋人としては対象外です。でも、お兄ちゃんとしては、凡人さん以上の人は居ませんよ」




 優愛ちゃんとの話を終えてからすぐに百合亞さんを大学の友達の元まで送った。そして、俺は真っ直ぐ帰らずに用水路の上に架かった橋の上でボーッと流れる水を見下ろす。


「凡人くんって、決まってこういうところで考え事してるよね」

「……理緒さん。どうしてここが?」

「凡人くんの帰りが遅いから、凡人くんがボーッと考え事しそうな場所を探しに来たの」


 隣に立った理緒さんは、俺の顔を横から見て小さく息を吐いた。


「凡人くんはしてないよ。私が迫ってもしなかったんだから、あんな子とする訳ないよ」

「巽さんにしてないって言われた。でも、そういうことが疑われる状況にしたのは俺だ」

「凡人くんは人助けをしただけ。その凡人くんの気持ちで調子に乗ったのはあの子だよ。まあ……希に言わせれば、私もあの子も同じなんだって」


 乾いた笑みを浮かべた理緒さんは、髪を耳に掛けて俺に微笑んだ。


「まあ? 私は希にどう思われても良いけど」

「理緒さん、俺は――」

「私は諦めないよ。凡人くんのこと」

「俺が一番好きなのは凛恋だ」

「うん。でも、一番がずっと一番のままなんてあり得ない。それに、昨日から凡人くんは私のことを今までとは違う風に見てくれてる。それが凄く嬉しいし、そんなことがあると凡人くんの一番になれる可能性を感じちゃう」

「俺の一番は凛恋だ」

「でも、凛恋は凡人くんが思ってるほど――ううん、凛恋自身が思ってるほど凛恋は凡人くんのことを分かってない。こうやって一人になりたがる凡人くんは絶対に一人にしちゃダメ」

「一人にしてほしい時もある」

「一人にしたら、凡人くんは決まって自分を責めて落ち込む。そんなことを考えさせるくらいなら、迷惑がられても邪魔した方が良い。凡人くんは自分を責める必要なんてないよ。責められるのは巽さんだよ。まあ、焦っちゃったのかもね。私、結構挑発したし」


 目を細めて用水路に流れる水を見た理緒さんはフッと笑った。


「自分でもびっくりしてるんだよ。いや、必死な自分に結構引いてる。男の人なんてどうでも良くて、自分の虚栄心を満たすためだけに必要な存在だったのに、こんなに必死になって一人の人を追い掛けてるし、自分でも引くくらい汚いことしてる。彼女から奪おうとして、仮に奪えてもその先に幸せがあるかどうかなんて分からないのにね。でも、それでも良いの。凡人くんに好きになってもらえたら、それで」


 横から俺を見上げて見詰める理緒さんは、ふざけたりからかったりする気配が全くない。


「私、少し前に飾磨くんに告白されたの。結構本気だったんじゃないかな。真剣なように見えた。でも、その飾磨くんの告白でよく分かった。私はきっとこれから先、誰に告白されても心はぐらつかないんだって。全く考える余地もなく断ったの。聞いたそばから、凡人くん以外はあり得ないって答えが出てた」

「…………」

「困ってる困ってる」


 クスクスと笑った理緒さんは、体の正面を俺に向けて欄干に体を横へ寄り掛からせた。


「飾磨くんはどうだったんだろうね。凡人くんと同じだったのかな? それとも、ただ可愛い女の子とエッチしたいだけの男の子だったのかな?」


 飾磨の性格から考えて理緒さんの想像を否定することは出来ない。飾磨は良くも悪くも軽いノリのやつだ。でも、飾磨がただエッチしたいだけで告白なんてするだろうか? あいつの性格や見てきた行動からすると、告白して付き合う前に誘いそうな気がする。


「どっちでもいいんだけどね。飾磨くんが誠実な人か不誠実な人かなんて。飾磨くんには悪いけど、私は凡人くん以外の男の人に興味なんてないし」

「飾磨には言わないから」

「凡人くんがわざわざそんなこと言うなんて思ってないよ。ただ私が、私のことを凡人くんにもっと知ってもらいたかっただけ。私が凡人くんを好きな気持ちが、ちゃんと凡人くんの中で本気だって思ってもらえるように」

「俺は嘘だなんて思ってないよ」

「うん。やっと凡人くんが私の気持ちを心の中に入れてくれた。あとは、もっと私の方が凡人くんに相応しいところを見せて、凡人くんに私のことを好きになってもらうだけ。だけって言っても、それが一番難しいんだけどね」


 欄干に両腕を置いて、その両腕の上に頭を置いて俺を見る理緒さんは笑った。


「凡人くんは本当に格好良い。高校の頃からどんどん格好良くなって、会う度に凄くドキドキする。私ね、今まで付き合って来た一応は彼氏になってた人達には全然こんな気持ちにならなかった。沢山好きって伝えたいし、凡人くんのためなら何でも出来る、何でもしたいって思う。自分でも知らなかったけど、私って恋愛になると尽くしちゃうタイプみたい」

「理緒さん、俺はどんなに言われても――」

「巽さんのことで悩んで、凛恋を裏切ったって罪悪感が湧いて、それで凛恋に一途にならなきゃって焦っちゃった?」


 また俺の心の中を読んだように言う理緒さんは優しく微笑む。


「巽さんがやったことは良くないことだよ。絶対に許せないし、もう二度と凡人くんとあの子を近付けたくないって思う」

「もう百合亞さんとは、理緒さんが心配する状況にはならないよ」


 心の中でしっかり決めた思いのまま言葉を口にする。


「でも、もし巽さんの立場が凛恋だったら? もし凡人くんがフリーで、凛恋とも付き合ってなくて、気になる可愛い女の子だったら? まあ、凡人くんは真面目な性格だから付き合ってない子とエッチ出来ないって思うかもしれないけど、気になる女の子に求められて体を任せられるのって男の人は嬉しいでしょ? エッチするかしないかは別として、エッチしたいって言われたらテンション上がるものじゃない? それだけ凡人くんのことを好きで信頼してるってことだから」

「そりゃ、凛恋相手だったら嬉しいに決まってるよ。彼女なんだし」

「私だったら?」

「それは困るよ。理緒さんは俺の友――」

「やった」


 そう喜んでクシャッと笑った理緒さんは、明るい笑顔のまま欄干から体を起こし、背中を欄干に預けて小首を傾げて言った。


「私のこと嫌じゃないって分かるだけでも嬉しい」

「困るって言うのはそういう意味じゃなくて……」

「さっ、帰ろうか。一緒に帰ったら希にまた良い顔されないけど、それでも良いんだ。少しでも凡人くんの側に居られて、凡人くんが嫌なことを考えずに済むなら」


 理緒さんは俺の手を強く引いて歩き出す。

 俺の考え事を止めさせるために関係ない話をした。そんなことをして理緒さんに何か得がある訳じゃない。でも理緒さんは、俺のよく知ってる余裕のある笑みを、俺のためだけに浮かべた。

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