【二九三《焼愛戦役(しょうあいせんえき)》】:三

 家に戻って来ると、希さんと優愛ちゃんが昼飯を作ってくれていて、俺達はテーブルを四人で囲んで食べた。


「明日は編集部に行って来ようと思う。もっと早くに行くべきだったんだけど、後回しになってたから」

「分かった。家のことは私達に任せて」

「ありがとう。ちょっと美優さんのところに行ってくる。もしかしたら美優さんも一緒に行くかもしれないし」


 優しく答えてくれた希さんに言ってから、部屋を出て隣に住む美優さんの部屋のインターホンを鳴らした。


『はい』

「多野です。少し時間大丈夫ですか?」

『ちょっと待っててくれる?』

「はい」


 美優さんか出て来るまで玄関前で待っていると、内鍵が開いてゆっくりとドアが開いた。


「す、すみません」


 ドアが開いて見えた美優さんの姿を見て思わず謝る。艷やかに濡れた髪と上気した肌、それからゆったりとしたTシャツと短パン姿。完全に風呂についさっきまで入っていた様子だった。


「良いの。丁度上がろうとしてたところだったから。入って」

「いや、ここで大丈夫です。明日、編集部に行ってみようと思って。もっと早くに行くべきだったんですけど、色々ありましたし。もしかしたら、連絡は取れない状況でも仕事は再開してるかもしれませんし」

「そうだよね。流石にこの状況だから再開はしてないかもしれないけど、古跡さん達上の人は来てるかもしれないから、一度行ってみる必要はあるよね。明日、私も一緒に行って良い?」

「俺も美優さんも行くかと思って声を掛けたんです。いつもの出社時間に行っても誰も居ないかもしれませんし、少し遅めに行きましょうか。一〇時過ぎに着くくらいで」

「うん。私もその時間で良いよ」

「分かりました。じゃあ、明日また来ますね」

「せっかくだから上がって行かない? 少し凡人くんに話したいことがあるの」

「話ですか? 分かりました。じゃあ、少しお邪魔します」

「どうぞ」


 部屋に上げてもらって、丸テーブルの前に腰を下ろすと、テーブルを挟んだ向かい側に座った美優さんが真っ直ぐ俺の目を見た。


「巽さんのことだけど、一緒に生活するのは良くないと思うの。やっぱり、巽さんは凡人くんに好意があるし、それに巽さんは凡人くんにいきなりキスするような人だよ。同じ部屋に居て何もして来ないなんて保証は――」

「百合亞さんには友達のところに行ってもらったんで大丈夫です」

「そうなの? 良かった……」


 ホッと一息吐いた美優さんは、テーブルの下に手を置いて俺から一瞬視線をテーブルの上に落として戻した。


「八戸さんと連絡は繋がらない?」

「はい。まだ通信設備が直ってないのかもしれません」

「そう……。寂しいよね、やっぱり」

「凛恋を地元に帰すのは一日だけのつもりだったんで、寂しいのもあります。けど、今は心配とか不安があります」

「私じゃダメだよね」

「はい?」


「寂しい時に寂しいって言える相手が必要なんじゃないかって思って。凡人くんは凄く頑張っちゃう人だし、一人で色んなことを抱え込んじゃうから。今回だって、私と巽さんを守って連れて帰ってくれたでしょ? それで、凡人くんの心に掛かった負担は絶対に大きかったはず」

「そんな心配するような負担は掛かってませんよ」

「そうやって心配させないように振る舞うから余計に心配なの。御堂の時だって、凡人くんは何も周りに話してくれなかった。私はそれに気付かなくて取り返しの付かないことにしてしまうところだった。……私は、凡人くんが私の知らない心配事や不安で圧し潰されてしまうなんて嫌だから」

「俺は――」

「ごめんね。それだけは……強がる時の凡人くんの言葉だけは信じられない。だから――」


 真っ直ぐ俺の目を見詰める美優さんは、首を横に振って否定した。それは俺のことだったのかもしれない。でも、他の何かを否定しているように見えた。


「私は凡人くんの――」


 美優さんの言葉を遮るように、俺のスマートフォンが鳴った。


「電話? 凛恋っ――ッ? お父さん?」


 鳴った電話に慌ててスマートフォンを取り出して、俺は画面を見て戸惑う。電話を掛けているのは凛恋ではなく凛恋のお父さんだった。


「もしもし!? お父さんですか?」

『凡人くん……やっと繋がった……』

「お父さん? どうかしたんですか?」


 電話の向こうから聞こえるお父さんの声は明らかに元気がなかった。もしかしたら、優愛ちゃんのことが心配なのかもしれない。


「優愛ちゃんなら今うちに居ます。だから、優愛ちゃんは無事ですよ」

『そうか。優愛は無事なのか……。凡人くん、優愛を守ってくれていて…………その、本当に申し訳ない……』

「お父さん?」


 電話の向こうでお父さんがいきなり泣き始めてしまった。そんなことは初めてで、俺はどうしていいか分からず戸惑う。


『凡人くん……本当に……本当にっ、申し訳ないっ……』

「お父さん!? どうし――」


 何があったか聞こうとした。でも、言葉にする前に、俺の頭の中に嫌な想像が浮かぶ。

 お父さんが俺に謝りそうな、謝るようなことは一つしかない。


「…………凛恋に何か……あったんですか?」


 聞くのが怖かった。何がお父さんの言葉で聞かされるか分からなくて、だけどそれは明らかに良くないことだというのは明らかで、言葉を絞り出すのに喉が潰れそうな痛みが走った。


『凛恋が……事故にあったんだ。それで今…………危篤状態だそうだ』

「今すぐ行きます!」


 お父さんの返事を聞かずに電話を切って、美優さんにも何も言わずに美優さんの部屋を飛び出した。


「凡人くん!? どうしたの!?」


 部屋に戻って財布だけ取って再び部屋を出ようとしたら、後ろから理緒さんに腕を掴まれた。


「離してくれっ!」

「そんな真っ青な顔をして飛び出そうとしてる凡人くんを――」

「そんな……」


 振り返った先で、スマートフォンを耳に当てながら優愛ちゃんが手で口を覆うのが見えた。多分……お父さんから電話を受けたんだ。


「凡人くんッ!」


 掴んでいた理緒さんの腕を振り解いて部屋を飛び出し、俺は全力で駅まで走った。

 危篤なんてあり得ない。凛恋に限って危篤なんてなる訳がない。凛恋は地震に遭わなかったんだ。怪我をすることなんてある訳ない。

 頭の中で何度も否定して、心に押し寄せる不安を拭おうとする。でも、拭っても拭っても、耳に残るお父さんの震えた声が不安を覆い被せてくる。

 危篤なんか……危篤なんて……危篤…………。


「ふざけんなよ……なんでだよ……」


 たどり着いた駅には、当然のように運休の張り紙がされている。

 分かってた。電車だけじゃない。新幹線も飛行機もフェリーも高速も、俺が考えられる地元まで帰る道のりは全て途絶えている。

 スマートフォンを取り出して、凛恋のスマートフォンへ電話を掛ける。


「出てくれよ……」


 呼び出し音を何度も聞くうちに体が震えてきて、心に苛立ちが沸き立つ。


「出ろよ凛恋ッ! 出ろってッ!」


 目が熱くなって視界が歪んで、それでも電話は繋がらなくて……俺はスマートフォンを握り潰すくらい強く握り締める、


『お掛けになったお電話は、電波の届かない場所にあるか、電波が入らないためお繋ぎ出来ません』


 音声アナウンスが聞こえて、全身の体が抜け落ちるような感覚になった。


『お掛けになったお電話は、電波の届かない場所にあるか、電波が入らないためお繋ぎ出来ません』


 繰り返されるアナウンスに、もう苛立ちはなくなった。


「全部俺のせいだ……」

『お掛けになったお電話は、電波の届かない場所にあるか、電波が入らないためお繋ぎ出来ません』

「全部全部……俺のせいだ。俺が凛恋の側を離れたから……凛恋に側を離れさせたから……俺が……俺がっ……」

『お掛けになったお電話は、電波の届かない場所にあるか、電波が入らないためお繋ぎ出来ません』

「凛恋っ……凛恋……」

『ツー、ツー、ツー…………』


 地面に膝を突いて、雨も降ってないのに雨粒の染みがある地面を見て、その雨粒の染みがどんどん増えて行くのが見える。


「凡人くん」

「…………凛恋が」

「優愛ちゃんには希が着いてる」

「凛恋が危篤だって……」

「うん」


 後ろに居る理緒さんに話し掛けて、それが何の意味もなさないことだと分かりながら、俺はやるせない気持ちを吐き出すように声を発した。


「凛恋に会いたい」


 俺の言葉に理緒さんは何も答えてはくれなかった。ただ、俺の背中には理緒さんが手で擦る感触があった。

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