【二八八《分断》】:二

 全部俺のせいだ。

 日本であったいくつもの震災では、震災の混乱に乗じた窃盗や、避難所での強姦が遭ったのを俺は知識として知っていた。だから、女性を一人で行動させる時には細心の注意を払わなければいけなかった。


 百合亞さんを襲った男は、大学に丁度来ていた警察に引き渡した。それで今、俺はダンボールで作られた間仕切りの中、必死に俺へしがみつく百合亞さんの背中を撫でた。

 俺が百合亞さんの元に戻ってから、百合亞さんはずっと俺の腕にしがみついたまま震えている。

 百合亞さんは、トイレを出ようとしたら、突然男の人に個室へ押し込まれて口を塞がれたらしい。そんなことが遭った後だ、体が震えて誰かにすがっていたくなっても仕方ない。


 もう、ここに百合亞さんを残して行くなんて出来ない。避難所の人達全員が信頼出来ない訳ではなく、今の混乱している状況は、百合亞さんを襲った男のような人間が行動しやすい状況なんだ。そんな時に、不特定多数の人が集まる避難所は標的を探す場にされる。

 さっきの男と同じような男がまた現れるかもしれない。そういう懸念を俺は持った。だとしたら、さっきの男と同じような男がまた現れるかもしれないという不安を、百合亞さんも当然抱いているはずだ。


 普通に考えれば、凛恋という彼女が居ながら、自分に好意のある女性を連れ帰るなんてして良い訳がない。でも、今は異常事態だ。それに、不安を持つ女性を見て見ぬ振りなんて出来ない。


「百合亞さんの家まで行って、着替えとか貴重品を取りに行こう」

「凡人くん?」

「百合亞さんをここに残して行くなんて出来ません。それに一人にするのも心配です。だから……百合亞さんをうちに連れて帰ります。安心出来る状況になるまで見守ろうと思います」

「凡人くん……でも、凡人くんには八戸さんが」

「きっと凛恋なら分かってくれます」


 俺のことを心配してくれる美優さんに笑顔を向けてから、今度は百合亞さんの顔を覗き込む。


「百合亞さんが良ければ、しばらくうちに来る?」

「ありがとうございます……。私……一人になりたくなくてっ……」


 ポロポロと涙を零す百合亞さんの背中を撫でると、百合亞さんは俺のシャツを掴みながら手で何度も目から溢れる涙を拭う。


「大丈夫。もう、さっきみたいなやつの居るところに行かないから」


 俺の家が無事かどうかは分からない。でも、寝泊まりが出来さえすれば、不特定多数の人が居る場所より安心は出来る。


「立てる?」

「はい。あの……手、握って良いですか?」

「いいよ」


 不安な時に手を握っていてほしいというのは分かる。だから、今は百合亞さんを出来る限り安心させるために差し出された手を握った。


「美優さんも行けますか?」

「うん。大丈夫」


 中川学院大学を出て百合亞さんの住んでいるアパートに向かう。

 アパートの周辺はブロック塀が崩れていたり、建物の外壁が道路に剥がれ落ちていたりしていた。


「凡人さん……中までついて来てくれませんか?」

「一緒に居るから大丈夫」


 ドアの鍵を開けて中に入る百合亞さんについて俺も中へ入る。

 薄暗い百合亞さんの部屋は、壁際に置かれたカラーボックスやスチールラックが倒れ、仕舞ってあった物が散乱している。それにキャビネットも倒れていた。


「着替えはこの中だよね? キャビネットを起こすよ」


 倒れたキャビネットを起こすと、キャビネットの引き出しがいくつか出てしまった。


「ご、ごめん」


 キャビネットの引き出しから溢れ出た百合亞さんの下着を見てしまい。慌てて顔を横に向けて視線を下着から逸らす。すると、顔を向けた先には百合亞さんの顔があった。


「凡人さんって、結構純情ですよね」


 大学からずっと暗い顔をしていた百合亞さんが小さくはにかんだ。その百合亞さんの顔に明るさが戻ったのを見て、俺はほんの少し心がホッとした。


「パンツとブラ見て顔真っ赤な凡人さん、凄く可愛いです」

「からかわないでくれ」

「ごめんなさい。でも、凡人さんの可愛いところ見たら安心しました」


 大きめの鞄を持ってきた百合亞さんは、散らばった服を綺麗に畳みながら中へ仕舞う。


「いざとなったら、声って出せないものなんですね」

「百合亞さん……」

「トイレから出ようとして、目の前に男の人が居て、頭真っ白で、えっ? なんで? って思ってるうちに口を塞がれて個室に押し込められて……」


 服を仕舞っていた百合亞さんの手は小刻みに震えて、俯いた百合亞さんの顔からは涙が零れ落ちた。


「凡人さんが助けてくれたなかったら……」

「怖い思いをさせてごめん」

「謝らないで下さい。凡人さんは私をあの人から助けてくれたんですから。凄く格好良かったです」


 涙目で微笑んだ百合亞さんが、いきなり俺の肩に両手を置いて体重を掛けて来て床に押し倒される。そして、上から唇を塞がれた。

 恐怖や苦しみを押し付けるような百合亞さんのキスを止めさせようと、俺は百合亞さんの両肩を押して引き離す。


「舌、また絡めちゃいましたね。やっぱり、凡人さんのキス……凄く気持ちいい」

「百合亞さん、俺には彼女が居て彼女のことが大好きなんだ。だから、百合亞さんの気持ちには応えられない」

「応えられないのは"今は"です」


 体を離した百合亞さんは、床の上にあひる座りをして自分の唇に指を触れさせる。


「絶対に、凡人さんに私のことを好きって言わせて見せますから」




 百合亞さんの家で必要な物を持って、暗くなった街を俺と美優さんの住むアパートに向かって歩く。

 隣を歩く美優さんにも百合亞さんにも疲れが見える。でも、今の異常事態と言える状況と歩いて来た距離を考えれば、疲れて当然だ。むしろ、今まで前に進み続けて来られたことの方が凄い。


「凡人くん、これからどうしようか」

「とりあえず、今は体を休めた方が良いですよ。家に帰って水道と電気が生きてたら、風呂かシャワーに入ってゆっくり眠る。それで、疲れをとってから考えましょう」

「うん。あの……」

「はい?」


 話していた美優さんは何かを言い掛けてから、俺を挟んで反対側に居る百合亞さんを見てから俺に視線を戻す。


「やっぱり、女性の巽さんを凡人くんの部屋に泊めるのは良くないから、私の部屋に――」

「私、凡人さんの部屋が良いです。凡人さんが居ないと安心出来ません」


 美優さんの言葉を遮って言った百合亞さんは、俺の腕を抱き締めて引っ張る。


「巽さん。凡人くんには彼女が――」

「私には関係ありません。彼女が居ても居なくても、私は凡人さんのことが好きですから。それに、凡人さんに彼女が居ても居なくても、私が凡人さんを好きなことは田畠さんに関係ありませんよね?」

「私は凡人くんの――」

「凡人さんの会社の同僚ですよね。プライベートのことは関係ないんじゃないですか?」

「百合亞さん。先輩の美優さんにその態度は失礼だ」


 俺を挟んで美優さんに喧嘩腰の言葉を発する百合亞さんを諌(いさ)める。


「ごめんなさい……」


 シュンとした顔をして俯いた百合亞さんから美優さんに視線を戻すと、美優さんは俺に困った顔を向けた。


「凡人くん、トラブルになるのは目に見えてるよ」

「美優さんが百合亞さんを泊めてくれるのは助かります。やっぱり男の俺とより同じ女性の美優さんの方が――」

「凡人さん……家に来ていいって、一人にしないって言ったのに……」


 俺の言葉を聞いた途端、目に涙を浮かべた百合亞さんがそう言葉を零す。それを聞いて、俺の言葉が百合亞さんを傷付けてしまったことに気付いた。


「…………百合亞さんの言う通りだ。俺がしばらく面倒を見るって言ったんだ。俺が責任持って面倒を見るべきだ。ごめん」


 俺は百合亞さんの好意を分かった上で、それでも百合亞さんが心配だから、百合亞さんの面倒を見ようと思った。それなのに、俺は百合亞さんのことを美優さんに任せようとした。それはきっと、百合亞さんには『任せる』ではなく『厄介払い』に映った。


「凡人くん、本当に大丈夫?」

「俺が面倒を見るって言ったんですから、俺が責任を持たないと」

「凡人くんが――…………ううん。何でもない」


 言い掛けた言葉を止めて、美優さんは俺から視線を外す。

 もしかしたら美優さんは、俺が百合亞さんにそこまでする必要はないと言いたかったのかもしれない。

 確かに、俺と百合亞さんの関係はアルバイト先の先輩後輩の間柄でしかなく、しかも百合亞さんは俺に好意があって、俺はその好意に応えられない。だから、極端に素っ気なくするのも変だが、今みたいに家に泊めて面倒を見るなんて言うべきではなかったのかもしれない。でも……俺にはそれが出来なかった。


 どうしても、男に襲われて怯えている百合亞さんの姿を見ると、男を怖がっていた凛恋の姿を思い出してしまう。今でこそ凛恋は、何とか日常生活に支障がないレベルまでは男性恐怖症が改善されている。でも、それでも凛恋の心の奥には男に対する強い嫌悪がある。その凛恋の心に棲み着いてしまった暗い感情を、もう他の誰にも持たせたくはなかった。

 多分、そう思うのは、ずっと俺が後悔しているからだ。

 あの時、俺が眠らず凛恋を止められていたら……。

 あの時、俺が安心して気を抜かなければ…………。

 あの時、俺が凛恋を守ってあげられたら………………。

 凛恋の心に一生遺る傷を負わせずに済んだのに。


 今回も、俺が気を抜いたせいで百合亞さんは襲われた。もう既に、百合亞さんの心には傷が付いてしまった。でも……それでも何か出来ないかと思ってしまう。それがただ見守るだけのことでしかなくて、彼女が居る男がやるべきことではないとしても。

 家の近くまで来ると、明かりの点いた街灯とそうでない街灯があり、明かりが点いた街灯かあるということは電気が生きているというのが分かる。でも、ブロック塀が崩れているところもあり、完全に地震の影響がなかった訳じゃない。

 アパートの敷地に入って外階段を上ると、部屋の前で美優さんが振り返る。


「凡人くん、また何かあったら協力し合おう。私もまだ不安で凡人くんのことを頼っちゃうかもしれないし」

「分かりました。何か困ったことがあったらすぐに言って下さい」

「ありがとう。凡人くんも何かあったらすぐに言って。私が協力出来ることなら何でもするから」


 少し話してからアパートの外廊下で美優さんと別れると、俺は恐る恐る玄関の鍵を開けて中へ入る。

 部屋に入って明かりを点けると、ラックからいくつか物が落ちてはいるが、窓ガラスも割れていないし大きな家具も倒れてはいなかった。


 とりあえず、部屋の片付けを後回しにしてシャワーの準備をする。

 百合亞さんは地震が起きてから数時間、地震の精神的な疲労を抱えたまま外を歩き回っている。それに大学のトイレでのこともある。だから、少しでも早くシャワーを浴びたいはずだ。


「ここを捻ればシャワーが出るから。温度調節はここ」

「凡人さんが先に浴びて下さい」

「いや、俺は良いよ。遠慮しなくて良いから、気にせずにゆっくり入って来て」

「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて先に入らせてもらいます」


 シャワーの使い方を聞いた百合亞さんは丁寧に頭を下げる。それを見てから、俺は部屋の片付けに入った。

 百合亞さんがシャワーを浴び終えたら、少し美優さんに百合亞さんを見ていてもらわないといけない。


 凛恋のことは、地元に居て安全だと信じるしかない。でも、こっちには凛恋の妹の優愛ちゃんが居る。優愛ちゃんと一緒に住んでるステラは、今コンサートでオーストラリアに行っているはずだから地震には遭ってないだろう。それに優愛ちゃんだけじゃなくて、希さんと理緒さんも居る。

 三人の無事はどうしても確かめたい。もしかしたら、どこかへ避難しているかもしれない。でも、一度だけ三人の家に行っておきたい。


 外はもうすっかり暗くなっている。それに、地震の直後で危ないのは分かっている。でも、そんなリスクを恐れているうちに、みんなに何かあってからじゃ遅い。

 本当は帰りにみんなのところに寄りたかった。でも、美優さんと百合亞さんも居て、流石に俺も二人の安全を確保して更に三人も見るのは難しかった。みんなの安全のために動いてみんなを危険に晒しては意味がない。


「やっと二人っきりになれましたね」


 後ろからその百合亞さんの声が聞こえた直後、俺の首に風呂上がりで温かく少し湿った百合亞さんの両腕が回る。


「百合亞さ――」

「お風呂にあった女性物のシャンプー、借りちゃいました。これ、彼女さんのシャンプーですよね?」

「そうだよ。それくらいじゃ彼女は怒らないから安心して。それより百合亞さん、離れ――」

「私、眠くなっちゃいました」

「ベッド使って良いから。でも、その前に美優さんに――」


 首に巻き付いた百合亞さんの腕を解きながら振り返ると、目の前に百合亞さんの顔があった。


「んっ……」


 いきなりキスをした百合亞さんが、重ねた唇の隙間からそう吐息を漏らす。すぐに離れないとと思い、俺はキスをする百合亞さんの肩を押し退けようとする。でも、俺は百合亞さんを押し退けようとした手を止めた。

 滑らかな肩に掛かった光沢のある細めの白いストラップの先にある控え目な装飾の白いカップ。


「やった。凡人さん、凄くドキドキしてくれてる」


 俺の胸に手を置いた下着姿の百合亞さんは、ニコッと笑って首を傾げる。


「きっと凡人さんならこれくらいしないとその気になってくれないって思って。私、こういうこと誰にでもしてる訳じゃないですから」

「百合亞さん、そんなことしても俺は百合亞さんのことを好きにならない」

「今はそういう気持ちでも、時間を掛けたら分からないじゃないですか。私、彼女さんがさせてくれないことさせてあげますよ?」


 百合亞さんは胸に置いた手を俺のシャツの裾から中へ入れて腰を撫でる。


「黙ってればバレませんよ。それに私と彼女さん比べて見て下さい。そしたらきっと、私の方が良いって――」

「ごめん。とりあえず、服着て」


 強く百合亞さんを押し退けて、俺はキャビネットから短パンとTシャツを出して、百合亞さんの頭の上からTシャツを被せる。


「これから俺は友達を探しに行ってくるから。その間、美優さんのところに居て。一人になるよりは安心出来ると思う」

「凡人さんが一緒じゃないと嫌です」


 頭だけTシャツから出した百合亞さんが、俺の腕を掴んで引き止める。でも、俺はその手を外して立ち上がる。

 こうなることは俺の責任だ。でも、百合亞さんにどんなに迫られても百合亞さんを受け入れはしない。

 俺の好きな人は凛恋だ。

 美優さんに百合亞さんを頼むために玄関まで行くと、丁度インターホンが鳴る。


「はい。どなた――理緒さん!?」


 玄関のドアを開けた瞬間、部屋の前には、泣き腫らした目と疲労で暗くなった顔の理緒さんが立っていた。

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