【二八六《決断》】:一
【決断】
セックス特集の座談会は、準備期間があったこともあって滞りなく終わった。そして、座談会から数日経って、もう俺の手から座談会の記事関連の仕事が手を離れた頃、俺は喫茶店でコーヒーを飲んでため息を吐いた。
あれから、自分の心に宿った凛恋以外の田畠さんに対する気持ちを凛恋に言えない。それに、分かっていたことだけど、言えない日が重なる度にどんどん言えなくなる。どんどん言えなくなる日が重なるに連れて、言い出せない言葉の重みが増して喉を押し潰して口を閉ざしてしまう。
同時に二人を好きになる人は、世の中に結構居るらしい。居るらしいと言っても、実際にその人から話を聞いたわけじゃなく、ネットで調べた程度の知識で居るらしいと思うだけだ。
彼女以外に好きな人が出来た時、大きく三つの選択をする人が多いらしい。
一つ目は、彼女に悪いから新しい気持ちを忘れようとする。
俺もそれを最初に思った。やっぱり、俺を最初に好きだと言ってくれたのは凛恋で、俺が最初に好きだと思えた人は凛恋だ。そして、俺と凛恋は今までずっと何度も困難を乗り越えて寄り添えている。そんな凛恋との絆はとても大切だと思えた。それに、その絆が壊れることに途方もない恐怖を感じる。だけど……それなのに、俺は自分の心から田畠さんへの思いを捨てることが出来なかった。捨てようと思えば思うほど、自分の気持ちが強く心に固まっていくとさえ感じていた。
二つ目は、彼女と別れて新しい気持ちに従う。
俺は、それを考えた時に怖くなった。それは、俺が弱くて卑怯だからだ。
凛恋と別れること自体が怖かった。凛恋が自分に向けてくれている笑顔をもう見られなくなると思えば胸を締め付けられたし、凛恋の好きが自分以外に向けられると思うと悔しくて堪らなかった。それだけでも最低で卑怯なのに、俺は思ってしまったんだ。
もし、凛恋と別れて田畠さんも自分を受け入れてもらえなかったら、俺は独りになると。
俺は自分がこんなにも最低で薄汚い人間だとは思わなかった。結局、自分自身が可愛いのだと、自分が傷付かないことが最優先な人間なんだと自分に失望した。俺は凛恋に対して最低で不誠実なことをしているのに。
そして、三つ目は……彼女との関係を維持しながら新しい気持ちにも従う。
俺が考え得る中で、最低な答えだと思う。でも、それが今の俺に一番近い答えだ。
新しい気持ちに、田畠さんへの気持ちに素直に突き進んでいるわけじゃない。でも、俺は田畠さんへの気持ちを否定しなかったし忘れることも出来なかった。その上で、俺は凛恋に何も告げずに付き合い続けている。
俺は仙台に行ってから、行く以前と比べて凛恋に向かって素直に話せなくなった。やっぱり凛恋に対する負い目があって、その負い目から遠慮が出てしまう。でも、それは凛恋だけじゃなくて、田畠さんにもそうだ。田畠さんにも仙台に行ってから上手く話せなくなった。それも、田畠さんに対する負い目だ。
自分の心が優柔不断ではっきりしないから、凛恋にも田畠さんにも向き合えない。そういう資格は俺にないんだ。多分、このまま行けば俺は、四つ目の『独りぼっちになる』という選択肢に墜ちると思う。
二兎追うものは一兎をも得ず、ということわざがあるからそう思うわけじゃない。ただそんな予感がするだけ。でも、そういう根拠のない予感に怯えるほど、俺は弱い人間なんだということだけは再認識出来た。
「そろそろ行かないとな……」
今日は出勤時間が遅いから朝早く出る必要はなかった。でも、俺は凛恋と顔を合わせるのが気まずくて、朝早く家を出て喫茶店で時間を潰していた。それで、出勤時間が近くなり、椅子から立ち上がって喫茶店を出る。
月ノ輪出版の本社ビルまで歩きながら、重たい体と心を引きずる。
いつも通り本社ビルの正面玄関から入ってセキュリティーを抜け、レディーナリー編集部まで上がるためにエレベーターへ乗り込む。すると、ドアが閉まる直前、締まり掛けのドアの隙間を人がすり抜けて乗り込んで来た。
「ハァッ……ハァッ……間に合った……」
走って乗り込んで来た田畠さんは、胸に手を当てて息を整えながら顔を上げる。そして、俺を見てニッコリ笑った。
「今日こそ逃がさないよ」
でも、田畠さんはそう言った瞬間に表情を暗くした。そして、壁に背中を付ける俺の隣に壁に背中を付けて立った。
「多野くん、また私のこと避けてるよね」
「ごめんなさい」
「……今度は、違うって言わないんだ」
「……仙台に行った後からどうしても話し辛くて」
「うん、仕方ないよね。同じ部屋に泊まってもらうなんてわがままを言ったのは私だから。多野くんは八戸さんに対して申し訳なく思って当然。だから……私と話をし辛くなるのも当然だよ」
田畠さんはそう言う。でも、俺が田畠さんと話せなくなった理由は、ただ単に一緒の部屋に泊まったことだけじゃない。
『……多野くんになら、私の初めてもらってほしいな』
あの日、仙台の夜に田畠さんが言った言葉。それが今でも頭の中に渦巻いている。その言葉の真意を確かめたかった。
ただ酒に酔った勢いの冗談だったのか、それとも……本気だったのか。
田畠さんはその話をしない。まるでその言葉はなかったかのように、その言葉について触れない。だから、確かめる機会がなかった。それに、確かめたからどうなるということでもない。
もし、田畠さんがあの言葉を本心から言っていたとしたら、俺は田畠さんに気持ちを告げるのか? そう自分に問うても答えが出ない。それにはやっぱり、凛恋を失う恐れがあった。
結局、真意を知ったところで何も俺は変わらない。いや……変われない。変わる勇気がない。
「多野くん、今日の仕事終わり、ほんの少しだけ時間を作ってくれないかな? どこかへ食事に誘ってる訳じゃなくて、一〇分……ううん、五分でも二人で話せる時間が欲しいの。お願い」
「分かりました」
田畠さんを避け続けた俺は、この状況では避け切れないと思った。田畠さんがどんな話をするか分からないし怖いが、それでも避ける――逃げるという選択肢はもう使えなかった。
胃をせり上げるようなエレベーターが上昇する感覚に囚われていた体が、急に激しく揺さぶられる。その揺れが自分の体からではなく、エレベーターから伝わると認識した瞬間には、既にもう俺の視界は真っ暗になっていた。
「イタッ……」
暗い視界の中、俺は倒れた時にぶつけて痛む頭を押さえる。そして、床に手を置いて体を起こすが変わらず視界は真っ暗なままだった。
「多野くん? どこ?」
横から田畠さんの俺を探す声が聞こえて、誰かが俺の腕を掴む感触がした。それに、俺はポケットからスマートフォンを取り出して、その明かりでエレベーター内を照らす。すると、俺の腕を掴んでいる田畠さんの姿が見えた。
「田畠さん、怪我は?」
「ううん、大丈夫」
明かりにしていたスマートフォンでブラウザソフトを開くと、地震速報が表示されていた。
「震度六弱……結構大きい地震が起きたみたいです」
「じゃあ、さっきの揺れは地震だったんだ」
俺はぶつけて揺れる頭のまま、スマートフォンで凛恋に電話を掛ける。すると、電話が凛恋に繋がった。
『凡人!? 無事なの!?』
「ああ。凛恋は?」
『今も凡人の部屋に居る。地震で色々物が落ちてきたけど怪我はしてない』
「そっか、良かった。多分お母さん達が心配してるだろうし、連絡してあげて。あと、可能なら優愛ちゃんと希さんの無事も確かめてくれ」
『凡人は?』
「ちょっと困ったことになった。今、本社ビルのエレベーターの中なんだけど停まってる。非常ボタンで連絡を取るまで分からないけど、直るまでしばらく閉じ込められたままかな」
『怪我は!? 大丈夫なの!?』
「怪我はしてない。ただ閉じ込められただけだ」
『心配だけど、凡人が怪我をしてなくて良かった。本当に……』
「俺も凛恋が怪我してなくて良かった。じゃあ、またエレベーターから出られたら電話する」
『うん。絶対に電話してね。絶対だよ?』
「ああ」
電話を切って凛恋の無事を確認出来た俺は、痛みの引いた頭を軽く擦る。
「エレベーターを動かしてもらわないと」
俺は立ち上がってエレベーターの操作パネルにある非常ボタンを押す。非常ボタンの案内では、非常ボタンを押し続けると外部へと通話が出来るらしいが、一分ほど押し続けても何も反応がない。もしかしたら、さっきの地震で通話するための機能が壊れてしまったのかもしれない。
「古跡さんに電話してみます。古跡さんからなら、エレベーターの管理会社に通報出来るかも」
俺は田畠さんに声を掛けてから立ったまま古跡さんに電話を掛ける。すると、しばらく呼び出しに時間は掛かったが電話が繋がった。
『多野!? 今どこ!? 無事なの!?』
「今、本社ビルのエレベーターの中です。丁度、エレベーターの中で地震に遭って。それでエレベーターが停まって非常ボタンを押しても管理会社に繋がらないんです。古跡さんの方から通報してもらえると助かるんですが」
『分かったわ。家基、多野はエレベーターの中に閉じ込められてるけど無事そう』
古跡さんが家基さんに話す声を電話越しに聞いていると、その声に割り込むように泣き叫ぶような声が聞こえた。
『古跡さんっ! 美優が居ませんっ! 他の編集さんは居るのに美優だけ居ないんです!』
『何ですって!?』
「古跡さん、田畠さんは俺と一緒にエレベーターに乗り合わせてます。薄暗くて状態はよく見えませんけど、本人は怪我はないと言ってます」
『本当に!? 平池、田畠は無事よ。多野と一緒にエレベーターに閉じ込められてるって』
『替わってください!』
俺はその平池さんの声を聞いて、田畠さんにスマートフォンを差し出した。
「田畠さん、平池さんが替わってほしいって」
「ありがとう」
田畠さんにスマートフォンを渡して、田畠さんが涙声で話すのを聞きながら操作パネルの非常ボタンをまた押した。でも、やっぱり何度押し続けても繋がる様子はない。
「多野くん、ありがとう。古跡さんが管理会社に連絡してすぐ来てもらうからって言ってた」
「ありがとうございます。しばらくこのまま待ちそうですね」
俺が閉ざされたドアを正面に見ながら壁際に腰を下ろすと、少し離れた位置に座る田畠さんが近付く気配がした。
「ごめん……腕だけ掴ませて……」
「……大丈夫ですよ。すぐに動きますって」
不安が見える田畠さんを勇気付けるように声を掛ける。でも、まだどうなるか分からない。
日本では何度か過去に大きな地震が起きている。その時に、エレベーターが停まるというトラブルも何度も起きている。だから、その教訓として今現在新しく作られるエレベーターには地震時管制運転装置という、地震を感知して一番近い階に停止してドアを開く機能を持った装置を付けることが義務化されている。だが、このエレベーターにその装置が付いているかは分からない。ただ、今俺達が閉じ込められていることを考えると、たとえ付いていたとしても、その装置は動いていないということになる。
かなり大きな揺れだったから、非常ボタンも繋がらないほどの損傷があるのだと思う。それに、きっと停まっているエレベーターは俺達が乗っているエレベーターだけじゃない。本社ビル周辺には同じようなオフィスビルがいくつもあるし、他にも何基……いや、何一〇〇基以上も停まっているはずだ。
多分、俺達のように人が閉じ込められているエレベーターは、他のエレベーターよりも優先的に修理をしてくれると思う。だけど、一〇分、二〇分で修理されるとは思わない。一時間以上このままということは想定しておかないといけない。
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