【二八五《杜の都で辿り着く》】:二

「空いてますか!? えっ!? い、いえ! 田畠美優でその部屋をお願いします」


 テーブルの向こうで電話に向かってそう話した田畠さんは電話を切った。


「多野くん」

「良かったです。田畠さんだけでも部屋が見付かって」

「…………あ、あのね。私が今取った部屋、セミダブルの部屋をカップルで使うカップルプラン用の部屋なの。それが一部屋だけ空いてて」

「そうですか。まあ、ちょっと割高でもホテル難民になるよりは良いですよ」

「…………」

「田畠さん?」


 様子のおかしい田畠さんの様子を窺うように視線を返す。それに、田畠さんは俺の目を見返して小さく口を開いた。


「一緒に泊まらない?」

「え? いや! ダメですよそれは! 絶対にダメです!」


 凛恋以外の人とホテルで同室に泊まるなんてしていい訳がない。


「じゃあ、さっき取った部屋、キャンセルする」

「ダメです! その部屋を手放したらまともな部屋を取れるか――」

「多野くんはどこに寝泊まりするの?」

「ここで寝ますよ」

「だったら、私もここで寝る。多野くんだけこんなところに寝させられない」

「分かりました。ネカフェに泊まります」

「…………一人になりたくないの」

「田畠さ――」


 田畠さんは、小刻みに肩を震わせている。

 今日、田畠さんは編集部で見たことがないくらいはしゃいでいた。あれが、羽を伸ばして楽しんでいた訳じゃなく…………空元気だったら?

 仙台牛のお店で多胡さんに迫られたこと。それを田畠さんは気にしていないと思っていた。でも、それが俺の勘違いで、田畠さんが強い恐怖を感じていたら、そう簡単にその恐怖が消える訳がない。


「分かってるよ。もう多胡さんとは関わることなんてないことくらい。でも……どうしても、もしホテルの部屋が知られて来たらって思うと怖くて……。年上なんだからしっかりしないといけないのに……一人で居るのが不安で……」


 テーブルの上に握り合って置いた田畠さんの両手は小刻みに震えている。

 もし田畠さんの自宅なら、田畠さんの恐怖はここまで大きくなっていないのかもしれない。でも、鉄道の不通で帰れないことからの不安も相まって、田畠さんの心にあった恐怖心が大きくなってしまったんだろう。


 田畠さんだって、俺に凛恋という彼女が居て、俺が田畠さんと同室に寝泊まりするといいうことを許容する訳がないのは分かっている。でも、それでも田畠さんは俺にそう言わざるを得ないくらい怖いのだ。


 不安になって多胡さんの影に怯えている田畠さんは、とても弱々しく少しの力で折れてしまいそうなほど頼りなかった。今、田畠さんを一人にしたら、きっと田畠さんの心には深い傷が残ってしまう。だけど、俺はどんなに人を傷付けても、凛恋を選ぶと決めた。だから俺は、夏美ちゃんが傷付くのを分かっていて見捨てたんだ。だから……だからっ…………。


「分かりました」


 人を見捨てる覚悟なんてとうの昔に出来ていたはずだった。でも、俺はそう答えてしまった。それはやっぱり、人を見捨てることの恐怖と後悔を知ったからなのかもしれない。だけど……俺には人を見捨てることに対する恐怖とは別の感情がある気がした。


 俺は、昼に多胡さんが田畠さんに迫るのを見て、とっさに割って入った。あれは、本当に田畠さんを助けるためだったのだろうか。そんな、自分に対する疑問が浮かぶ。

 ロケ現場で田畠さんが多胡さんを見て顔を赤くしてることが気になった。それで、多胡さんが田畠さんに迫っているのを見て……俺は嫌だと感じたんだ。多胡さんみたいな、いかにも不誠実な男に田畠さんが穢されるのが嫌だった。だから、俺は田畠さんを助けたかった訳じゃなくて、多胡さんに田畠さんが穢されるのを防ぎたかっただけだった。


「本当に? ありがとうっ」


 俺の返事を聞いた田畠さんが、ホッと安心して強張った顔から柔らかい笑顔に変わった。その笑顔を見て、俺は諦めた。

 俺は栄次や希さんに指摘されて否定した。それに、不安になる凛恋に対しても否定し続けた。

 俺は、田畠さんのことはなんとも思ってないと。でも……実際は、俺の心はそうじゃなかったんだ。


 俺は、田畠さんのことを好きになっていた。いつの間にか、気が付いたら、何が切っ掛けか分からないけど……とにかく俺は田畠さんを好きになってしまっていた。俺には、凛恋という大切な彼女が居るのに。

 認めてしまった途端、胸の奥にズキズキとした痛みが走る。それは、凛恋の気持ちを裏切ったからだ。凛恋だけが好きだと凛恋に言った気持ちは嘘じゃなかった。でも、今の俺の心には確かに田畠さんを好きな気持ちがある。

 本当に、俺は最低なやつだ。凛恋が居るのに他の人を好きになってしまうなんて。


「でも、一緒の部屋に居ても俺はソファーで寝ます」

「うん。分かってるよ」


 田畠さんに対して好きな気持ちに気付いても、俺は凛恋のことを嫌いになった訳じゃない。こんな、凛恋以外の人を好きだと思う自分が何を言ってるのかと思うが、凛恋に抱いていた気持ちは前と変わらないんだ。前と何も、大きさも強さも変わってないと言い切れる。でも、今までは純粋に凛恋だけで好きが満たされていたのに、今は田畠さんへの好きが心に注がれている。でも、それは混ざり合うことなく心の中できっちりと境界線が引かれて分かれている。


「じゃあ、ホテルも取れたし、近くの服屋さんで寝間着と下着を買いに行かない?」

「そうですね」


 椅子から立ち上がって俺はポケットに仕舞う前にスマートフォンへ視線を向ける。

 凛恋に打ち明けられる勇気はまだ出なかった。それが凛恋に対する酷い裏切りだと分かっているのに、怖くて怖くて仕方なかった。

 初めての感情なんだ、凛恋以外の人を好きだと思うなんて。それに、好きな人が同時に二人居るなんてことも初めてだ。だから、どうすることが正解なのか分からない。

 先延ばしが、逃げているだけなのは分かっている。でもどうしても……。


 まだ俺に、自分が戸惑っている感情に向き合うだけの強さがなかった。




 田畠さんが取ったホテルに行くまでに、夕飯と着替え、それから田畠さんが部屋で飲みたいと言ったお酒やつまみ類を買った。それで、ホテルにチェックインして、部屋に入ってから絶句した。


 一部屋しかないから仕方ないとは言え、部屋にはソファーがなかった。手前にはトイレと風呂が一緒のユニットバスがあり、当然と言えば当然だが脱衣室に出来る空間はない。それで、そのユニットバスを通り過ぎてすぐ、少しだけ広くなった空間の左側にセミダブルのベッドが一台あり、そこから人一人が通れるくらいのスペースを空けて、壁と一体になって突き出る形に設置されたテーブルと、そのテーブルの下に一脚の椅子があった。


 俺が体を横に出来るくらいのソファーは当然無い。だから、狭い床の上に寝るか、椅子の上に座って寝るしかない。

 今から俺だけでも外でネカフェか何かを探そうかと思った。でも、俺がここに居るのは俺が快適に寝泊まりするためではなく、怖がっている田畠さんを一人にしないためだ。


「多野くん、シャワー先に浴びて良いよ」

「いや、大丈夫です。田畠さんからで」

「……そっか。うん、じゃあ先にシャワーをもらうね」


 俺はとりあえず椅子に座ってテレビを見る。そして、スマートフォンを見て凛恋にメールか電話をしようかと思った。だけどやっぱり、そういう気に自分の気が向かなかった。

 スマートフォンを仕舞おうとした時、真井さんから着信が入る。俺は、その真井さんの電話に一度深呼吸をしてから出た。


「もしもし」

『凡人、新幹線が不通になってるけど、無事に帰れたか?』

「いえ、泊まりになりました」

『そうか。部屋は取れたんだよな?』

「はい。なんとか」


 部屋は取れている。でも、二人で一部屋なのは言えなかった。多分この先、誰にも言えない。いや……凛恋に全てを打ち明ける時には、包み隠さず言わないといけない。それで凛恋に嫌われたとしても、まだ打ち明ける覚悟がないとしても、それでも……その時には凛恋に嘘を吐いてはいけない。


『俺達は撮影の間使ってる旅館があったから良かったけど、仙台市内のホテルはどこも埋まってるらしくてさ』

「俺達も何軒も空室はないって言われましたから」

『ところで、凡人。お前、田畠さんとは本当に先輩後輩なんだよな?』

「え?」

『いや、凡人が八戸さんを裏切ってるって思うわけじゃないんだ。でも、多胡が凡人に田畠さんに声を掛けるのを邪魔されたって怒ってたから。まあ、凡人は多胡から田畠さんを守ろうとしたんだろうけど。そっちよりも、田畠さんの方が気になってな』

「田畠さんがですか?」

『桃ちゃんが言ってたんだ。田畠さんはきっと凡人のことが好きだって』

「えっ? どうしてそんなことを?」


 真井さんの言葉にドキッと心臓が跳ね上がる。その跳ね上がった心臓は俺の心に戸惑いと疑問とほんの少しの焦りを作った。でも、それ以外に、確かに嬉しいと感じた自分が居た。


『自分を見る目が怖かったんだってさ。凡人と桃ちゃんが話してる間、ずっと田畠さんが不機嫌そうな顔で桃ちゃんを見てたって。だから、自分は田畠さんに嫉妬されたんだって言ってた』

「そんなことはあり得ませんよ」


 俺は真井さんの話に、色んな感情を抱いたが、真井さんの言っている多久磨さんが思ったことはあり得ないと断言出来た。

 俺は田畠さんを好きになった。それの切っ掛けは明確に言い表せないけど、多分、田畠さんと仕事や休憩中に接していくうちにその思いが生まれたんだと思う。でも、それは俺だけで、田畠さんには俺が好かれるような要素はない。


『桃ちゃんは頭が良い子だし、感受性もかなり高い。だから、あの歳でかなり難しい役もこなせてる。だから、田畠さんから感じた感覚は合ってるとも言い切れないけど、勘違いとも言い切れない。凡人には八戸さんが居るんだし、田畠さんを勘違いさせるような行動には気を付けろよ。じゃあな』

「はい。ありがとうございます」


 真井さんとの電話を切って、勘違いさせる以前に、俺の方が田畠さんを好きになってしまった。でも、よくよく考えればそうだ。

 俺が田畠さんを好きになったからと言って、田畠さんが俺を好きという訳じゃない。だから、俺の思いは通じることのない思いだ。

 気付いた気持ちは胸の奥に仕舞って、俺はその仕舞った気持ちから目を逸らして凛恋を好きで居続ければ良い。俺が凛恋を好きなのは変わらない。それは事実なんだから、たとえ心の半分に違う気持ちが居座っていたとしても、俺は凛恋を愛していけば良い。


「多野くん、上がったよ」

「は、はい」


 浴室の中で着替えを済ませた田畠さんは、チェックイン前に買った上下セットのスウェットを着ている。そのシャワー上がりの田畠さんは化粧を落としていて、いつもより少し幼い顔をしていた。


「多野くんにすっぴんを見られるのってちょっと恥ずかしいかも」

「い、いや、ちょっと幼く見えますけど、別に普通だと思いますよ」


 心の中では、すっぴんの田畠さんを見て可愛いと思った自分が居る。でも、それを素直に言えるような精神状態ではなくて、無難に普通と答えてシャワーを浴びる準備をする。

 シャワー室に入って、俺はシャワーを熱い温度にして頭から被る。それで、自分の髪を伝って床に落ちる水を見下ろした。

 一度好きだと思ってしまったら、それまで気持ちを堰き止めていた壁が壊れてしまって、好きという気持ちを無視出来ない。


 今まで大人しくて真面目な良い人でしかなかった人が、清楚で可愛らしくて大人しい女性に見える。以前までもそう思わなかったわけじゃない。でも、好きになる前と後では全然違った。胸がドキドキして体が熱くなって、それで心の中に田畠さんと近付きたい、田畠さんの手を握ってみたい、肩を抱いてみたい、強く抱き締めてみたい。そんな自分の心に湧き始めた感情に、俺は必死に両手を浴室の壁に突っ張って抵抗する。


 理性で抑える田畠さんへの感情は、凛恋に抱いている感情と同じだった。凛恋に対してなら躊躇わずに言い表せる、躊躇わずに行動で示せる感情だった。

 素直に言えないことが、素直に動けないことが、こんなに辛いものだなんて初めて知った。でも、好きな人に――凛恋に受け入れてもらっていることにありがたさを感じる。

 シャワーから出ると、田畠さんがテーブルの上に買ってきた酒とつまみを広げていた。


「多野くん、一緒に飲まない?」

「いや、俺は――」

「多野くんと二人で飲める機会なんてこれっきりでしょ? 多野くんには八戸さんが居るから私と二人で飲みには行ってくれないし」

「……じゃあ、少しだけ」


 少し寂しそうな顔をした田畠さんに胸が締め付けられて、俺は椅子に座ると田畠さんはベッドの端に座った。

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