【二八三《測り難きは人心》】:二
午前を丸々休んだことと巽さんにパソコンを貸したことで、当然仕事の進みは遅い。でも、その中でもなんとかやりくりをして仕事をした。
今日がちょっと遅くなる残業になると凛恋にメールしたら『分かった。働き者の旦那様が帰ってくるまで待ってるね』というハートの絵文字が沢山付いたメールが返ってきた。
昔から思うが、凛恋から来るメールにハートが沢山使われているだけで元気が出るのはなぜだろう。ハートマークなんてスマートフォンの中に入った画像データでしかないのに。
俺は自分がハートマークの謎について考え始めたことで、自分の集中力が切れたことに気付いた。
「凡人さん、お先に失礼します」
「お疲れ様」
俺の隣で鞄を持って頭を下げた巽さんに挨拶すると、巽さんは俺に顔を近付け口を手で隠しながら小さな声で囁いた。
「今日も格好良かったです。また明日も会えるの楽しみにしてます」
そう言ってクスっと笑った巽さんが出て行くのを見送ると、俺は再びパソコンに向かおうとする。すると、その手を後ろから掴まれた。
「こら、休憩中はちゃんと休まないとダメだぞ?」
その後ろから聞こえた声に振り返ると、後ろから俺の手を掴む田畠さんが見えた。
「ダメだよ。ちゃんと休む時は休まないと体を壊しちゃう」
「すみません。田畠さんはライターとの打ち合わせ終わりました?」
「うん。ついさっき帰ってきたところ。それでね……これ、一緒に食べない?」
「え? 良いんですか?」
田畠さんが右手に持った袋を持ち上げると、袋からは美味しそうなパンの香りが漂ってきた。
「多野くんと私の分しか買ってきてないから、上で食べよう」
人さし指を立てて口に当てた田畠さんは、チラリと編集部のフロア内に視線を向けてから、編集部の出入り口を視線で示した。
俺は田畠さんと月ノ輪出版の上階にあるラウンジスペースに行く。そして、窓際の席に座って俺は田畠さんの隣に座った。
「紅茶おごってくれてありがとう」
「パンをおごってもらいましたから、飲み物くらいはおごらせてもらわないと」
「私が年上なんだから気にしなくて良いのに。でも、そういうところが多野くんらしいよね。さ、食べよ」
ラウンジスペースから日が暮れて薄暗くなった街を見下ろすと、隣から田畠さんが俺の前にパン袋で小分けにされたパンを置いた。
「今日は、私と同じパンにしてみた。チーズとトマトの入ったお惣菜パンとメロンパン」
「ありがとうございます」
俺はメロンパンを取り出すと、田畠さんもメロンパンを取り出す。
「多野くんもメロンパンが先なんだ」
「後味を辛い味で終わりたいんで、先に甘い方を食べようかと思って」
「私と同じだ」
ニコッと笑った笑顔を見て、俺の心臓はドクッと脈打ち全身に熱い血を駆け巡らせる。
「……良かった。ちゃんと多野くんと話せてる」
「すみません。なんか、避けてると思わせてたみたいで。そういうつもりはなかったんですけど」
「ううん。結果的に私の方が多野くんの方を避けちゃったから……」
「それってやっぱり、巽さんが休みの日に来た時のことが原因ですか?」
「……うん。そうだよ」
少し躊躇いがちにそう答えた田畠さんは小さくメロンパンを囓った。
「多野くんは気にしてないかもしれないけど、私はあの時の巽さんの行動が許せない」
「俺、そんな人からキスされても動じない遊び人に見えてました?」
「えっ! いや! そういうことじゃないの! でも、次の日も淡々としてたから、冷静に処理出来たのかなって。多野くんっていつも落ち着いてるから」
「気にしないと言い聞かせないと気にしないことが出来ませんでしたからね。凛恋に話す時は自分からじゃないって言っても罪悪感で胸が張り裂けそうでした」
「八戸さんはなんて?」
「物凄く怒ってました。それで……泣かせてしまいました」
「そうだよね……大好きな彼氏が他の女の子にキスされて告白されたなんて。私だったら不安と悲しさとやるせなさで胸が一杯になると思う。それに、そんなことをした人のことを本当に怨むと思う」
「巽さんにはちゃんと断ったんですが、まだ分かってもらえてないみたいで」
「多野くんが優しくしちゃうからじゃないかな? 今日だって巽さんが多野くんのパソコンを使ってる間、多野くんが巽さんの仕事を進めてたでしょ?」
「まあ、古跡さんに全部終わらせるなって言われたんで、完結させたのは簡単な資料作りで、他の仕事は段取りを組んだだけですけど」
「でも……私も巽さんのこと言えないんだよね。私が入って来たばかりのことを思い返すと」
正面の窓から外を見詰める田畠さんは、昔を思い返すように笑った。
「右も左も分からなくて、毎日がドキドキの連続で、本当に上手くやっていけるか不安だった。私って人見知りで引っ込み思案で要領が悪くて、月ノ輪出版の、しかもレディーナリー編集部の内定をもらった時に夢だと思ったの。私がそんな凄いところの内定もらえるなんてって」
「その時の田畠さんに今の田畠さんを見せてやりたいですね。特集号の目玉記事の担当をやってるんですから」
「そうだね。でも、新人の頃の私は本当にダメダメだった。だけど、そのダメダメな私でも仕事を今くらい出来るようになったのは、多野くんが居てくれたから。絵里香はどうか分からないけど、私、多野くんが隠してた優しさに気付いたの」
「俺が隠してた優しさ? そんなこと――」
「私達の成長に合わせて、やってくれる仕事を変えてた。資料作りでも私が縦書きか横書きかで変わる綴じ方を覚えられてなかった時、資料のコピーと部数分けはしてくれてたけど、綴じるのは全部残しておいてくれた。それで、メモ用紙で『綴じ方が分からなかったら気軽に聞いて下さい』ってメモまであって。他には資料探しの時も、手伝ってくれるのは私が場所を覚えた資料ばかりで、私が場所を覚えてない資料を私に探させて、見付けられない時はヒントを出してくれた」
「そんなことしてましたっけ?」
「してたよ。そのお陰で、私は余裕を持って少しずつ仕事が出来るようになって、今みたいに記事の担当をさせてもらえるようになれたの。だから、今の多野くんに助けられてる巽さんのことは悪く言えない。多野くんにキスしたことは別だけど」
紅茶を一口飲んだ田畠さんは、ポケットから随分ボロボロの手帳を取り出した。
「これ、多野くんから教えてもらったことを全部メモした手帳。もう今では見返すこともほとんどなくなったけど、毎日持って来てる。仕事のメモじゃなくて、私の仕事のお守り」
「お守りですか?」
「うん。随分慣れたって言っても、私が人見知りなのは変わらなくて、今日みたいに外で初めて会う人との打ち合わせとかあると緊張しちゃうの。でもこの手帳を持ってると、勇気が出るの。側に、年下だけど頼りになる先輩が居てくれてるみたいで」
その嬉しそうにクシャッと笑った笑顔は、凄く明るく晴れやかで、ここ最近田畠さんがしていた暗い顔とは全く違った。そして、その笑顔を見ながら、俺も自然を笑顔が出ていた。
ここ最近、俺も会社で笑うことはなかった。でも、思い返せば俺が笑う時はいつも田畠さんも笑ってた。
家基さんや平池さんにお互いがからかわれて、そんなお互いを見て笑い合い、帆仮さんのする面白い話に一緒になって笑う。今はその時のように、大声で笑った訳じゃない。でも、久しぶりに会社に来て気が軽くなった気がする。
「多野くんの笑った顔、久しぶりに見れた」
俺の笑顔を見てまた笑う田畠さんは、二つ目のパンに小さく囓り付く。それに、俺も二つ目のパンに囓り付いてコーヒーを飲んだ。
「多野くん」
「はい?」
「今、絵里香が巽さんが揉めてるけど、絵里香は悪くないの」
「知ってますよ。平池さんは、巽さんが俺の負担を増やしてるって思って話をしてくれたってことは。でも、家基さんにはそれには首を突っ込むなって言われたんです。俺が首を突っ込むと余計なことになるって」
「まあ、絵里香はどうもしないと思うけど、巽さんは多野くんが入ると加熱するかもね。巽さん、多野くんのことを好きだから」
「まあ、断りますけどね。何度気持ちを伝えられても。俺が好きな気持ちに応えられるのは凛恋の気持ちだけですから」
「本当に八戸さんは多野くんに愛されてるね」
「当然ですよ。俺が初めて好きになった人で、俺が唯一好きな大切な人ですから」
窓の外を見ながら、凛恋は今頃何をしてるだろうと考える。買い物は昨日一緒に行ったから、テレビを見ているかもしれない。いや、希さんか誰かに電話をしてる可能性もある。いいや、この時間帯ならパソコンで萌夏さんと話をしている頃かもしれない。そういえば、最近残業続きで萌夏さんと話をしていない。今度、時間をどうにか作って萌夏さんの近況を聞いてみよう。
「そろそろ戻ろうか」
「あっ、もう時間ですね」
俺は残りのパンを口の中に放り込み席を立って田畠さんと一緒に編集部へ下りる。そして、編集部のフロアに戻ると、平池さんが駆け寄って来る。
「多野くん!」
「はい?」
「epic gloryの真井くんと知り合いだったの!?」
「真井さんがどうしたんですか?」
「epic gloryの真井くんにインタビューのオファーを出したら、多野くんが一緒なら良いですよって快諾してくれたらしいの。古跡さんがニッコニコよ。真井くんは主演映画の公開も近いし今は人気連ドラの主演もしてる! わざわざ多野くんの名前を出してくるなんて、知り合いなんだよね!?」
「まあ、ゲーム友達ですかね」
「なんで教えてくれなかったのよ~! 私ファンなのよ!」
平池さんが真井さんのファンだったなんて知らなかったが、たとえ知ってたとしても真井さんのことはあまりペラペラ喋れない。相手はなんて言ったって、今をときめく日本のトップアイドルだ。
「でも残念……明日は私、別の打ち合わせあるし……中の仕事ならどうにか出来たんだけど打ち合わせはなぁ~」
「…………え? ちょっと待ってください。俺が行くんですか?」
残念そうな平池さんに首を傾げていると、平池さんの後ろから古跡さんが歩いて来た。
「その件なんだけど、真井さんの方から多野をご指名なの。でも田畠も同伴して。流石にアルバイトだけを向かわせるなんて失礼なことは出来ないから」
「えっ!? 私ですか!?」
「明日は打ち合わせの編集が多くて、余裕がありそうなのは田畠しか居ないの。ライターもカメラマンも手配は出来てる。二人に資料を送っとくからお願い。あと、取材場所がちょっと遠くて、朝から一日になると思うけど頼むわ」
「場所はどこなんですか?」
ちょっと遠いと古跡さんは言ってるが、一日外に出てないといけないというのは、それなりの距離なんだろうと思う。
「宮城県の仙台よ」
「仙台ですか」
仙台までは新幹線で一時間半か二時間くらいの距離。確かにそんなところに取材に行くなら一日掛かりになっても仕方ない。
「新幹線のチケットはこれね」
「ありがとうございます」
「あっ、ありがとうございます」
新幹線の往復乗車券を受け取ると、古跡さんが俺の両肩に手を置いてニヤッと笑う。
「いや~多野の顔が広くて助かったわ。epic gloryの真井さんは女性人気が高いし売れるわ。あっ、取材はそんなに時間が掛からないだろうし、ついでに観光でもしてきなさい。真井さんの取材に貢献してくれた対価よ」
「まあ、俺は何もしてないんですけどね。でも、せっかくなんで色々見てきます」
俺は真井さんと友達なだけで、俺を指名したのは真井さんの方だ。でも、そのお陰で日頃行けない場所に行けるのは運が良いと思う。まあ、仕事だけど。
俺は古跡さんにもらった乗車券を鞄に仕舞い、帰ったら凛恋に明日は仕事で仙台に行くことを話そう。ただ、心苦しいのは凛恋と一緒に仙台に行けないことと、一緒に行く人が田畠さんということだ。
仕事で行くのだから仕方ないが、凛恋は田畠さんに対してかなり不安を抱いている。そんな時に、田畠さんと二人で出張なんて聞いたら余計不安を煽ってしまう。
今日いっぱい凛恋を抱き締めてちゃんと安心させてから行こう。そうすれば、きっと凛恋も少しは安心してくれるはずだ。
俺は早く帰って凛恋に出張のことを伝えるのと、いっぱい凛恋を抱き締めるために仕事に取りかかる。その俺がパソコンの画面へ向けた視線の奥で、平池さんと田畠さんが何かじゃれ合っているのが見えた。
平池さんがニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべて田畠さんの脇腹を攻撃して、それに田畠さんが抵抗する。ただ、田畠さんの顔は真っ赤で、平池さんの攻撃を躱した後に俺にふと視線を向けた。
「た、多野くん」
「はい?」
「明日はよろしくね」
「はい。まあ、ほとんど田畠さんに任せてしまうことになると思いますけど、何でも言ってください」
俺は真井さんが名前を出したから連れて行ってもらえるだけで、編集者としてメインになるのは田畠さんだ。だから、俺は俺の仕事の編集補佐として田畠さんをサポートしないといけない。
「多野くん。分かってると思うけど、美優って頼りないところあるからしっかり美優のこと頼んだよ。まあ、多野くんの方が美優よりしっかりしてるし、言う必要もないと思うけど」
「え、絵里香! 私だって子供じゃないんだから、出張くらい行けるよ!」
俺はまた始まったその二人の微笑ましいじゃれ合いを、しばらくただ眺めていた。
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