【二八三《測り難きは人心》】:一
【測り難きは人心】
今日は朝からではなく、昼過ぎから出勤になった。最近残業も多くなったし、初めての泊まり込みもあった。だから、俺の負担を古跡さんが減らそうとしてくれたらしい。
俺は社員じゃなくてアルバイトだから、社員と同等の時間を働かせるのは良くない。そういう理由があるのかもしれないが、俺はこの間から俺が原因で揉めている平池さんと巽さんのこと、それから田畠さんのことが関係しているんじゃないかと思う。
「あっ! 凡人さん、今日はこの時間からなんですか?」
月ノ輪出版の本社ビル前で、俺は同じく出勤してきた巽さんと出くわす。すると、巽さんは俺の隣に並んでクスッと笑った。
「もっと私にも身長があったらな~」
「そんなに身長がほしいの?」
「だって、もっと身長があったら凡人さんと並んだ時にバランス良いじゃないですか。キスもしやすいですし」
「することないから心配しなくて良いよ」
「わ~、今日の凡人さん、めっちゃ塩対応~」
笑いながら付いてくる巽さんとセキュリティーを抜けてエレベーターに乗り込むと、巽さんは小さくため息を吐いた。
「今日、平池さんって出勤ですかね?」
「休みじゃないと思うよ。昨日は泊まり込みだったはずだから、今日は昼過ぎ出社かな。多分俺達より少し遅いくらいに来ると思う」
「そうですか~……平池さん、怖いからヤダな……」
「無難にやれば良いんだよ。人には相性が必ずあるし」
「困ったら、凡人さんに助けてもらいますね。そういえば、凡人さんって皆さんの出社時間とか把握してるんですか?」
「把握って言うか、他の編集さんの仕事に合わせてこっちの仕事を出す必要があるから自然に見てるだけだよ。だから、俺が受け持ってる仕事に関係ない編集さんのことは分からない」
「でも、仕事ってそれぞれに納期があるじゃないですか。それに合わせれば良いんじゃないですか?」
「まあ、それで俺は良いと思うよ。納期ってそういうものだと思うし。でも、たとえば俺が明日までにコピー用紙を買ってくる仕事を請け負ってて、巽さんは明後日までにコピーを終わらせないといけないけど今日コピー出来る余裕がある。だけど、肝心のコピー用紙がない。そうなったら、巽さんは明日俺がコピー用紙を買ってくるまで仕事が進まないってことだろ? でも、俺が今日コピー用紙を買ってきたら今日仕事が終わらせられる。それだけで、巽さんには二日分の一つの仕事に掛ける余裕が出来る。その分の余裕を他の仕事に回せば、また余裕が出来る。それが続けば巽さんの負担がどんどん軽くなっていく。結構話が長くなっちゃったけど、長い目を見て色んな人の余裕を作る。それが俺の今の仕事だから」
「凄いな~。私、納期に合わせるだけで精一杯なのに」
「巽さんはそれで良いんだよ。まだインターンを始めたばかりだし」
「でも、慣れても凡人さんと同じ様に出来る自信ないです。やっぱり凡人さんは私とは違って仕事が出来るんですよ。そもそも、一度に何人もの仕事の進捗を把握するなんて無理です」
「別の仕事をやる時にちょくちょく話を聞くだけだよ。そうすると、次にこれをやろうとしてたけど、こっちを先に出した方がいいなとか分かってくる」
そんな話をしてるとエレベーターのドアが開いて、俺は巽さんと一緒に編集部へ入る。
「「おはようございます」」
巽さんと一緒に挨拶をして、俺達はそれぞれ自分の仕事の確認に入る。すると、机の上にチョコレート菓子が置かれていて、それに猫の形をした付せんが貼ってあった。その付せんは田畠さんが愛用してる付せんの一つだった。
『この前は本当にごめんなさい』
そう書かれた付せんを読んでから、前に座る田畠さんに顔を向ける。すると、俺を不安そうな顔でじっと見ている田畠さんと目が合った。
俺は声で返答するのは田畠さんも恥ずかしいと思い、付せんの貼られたチョコレート菓子の箱を持って見せて、俺は笑顔で頭を下げた。すると、不安そうな顔をしていた田畠さんはパッと明るい顔をして一度頷くと、パソコン作業に戻った。
この前のこと、というのは、屋上のことと巽さんにキスをされた時のことを言ってるんだと思う。でも、どっちも田畠さんが謝ることはない。俺が変に田畠さんのことを避けるような態度を取っていたのが悪いのだ。
多分、田畠さんから歩み寄ってくれたお陰で、俺の中にあった変な遠慮と恥ずかしさも消えると思う。それで、俺と田畠さんの問題は解決出来る。あとは、古跡さんと家基さんが平池さんと巽さんの問題を解決してくれるのを待つしかない。
「おはようございま~す」
作業に入ってしばらくすると、昼出社をしてきた平池さんが入ってくる。そして、田畠さんの隣に座ると、二人で顔を合わせて頷いてから立ち上がった。
「多野くん、今日残業終わり三人でちょっと飲みに行かない? この前、多野くんに迷惑を掛けたお詫びにご馳走させて」
「え?」
「女と二人きりだと八戸さんに気を遣うでしょ? でも、三人なら八戸さんも安心だろうし」
俺に近付いて来てそう提案した平池さんの言葉を聞きながら、視界に平池さんの隣に居る田畠さんも入れる。
この前、家基さんと飲みに行った時、凛恋は巽さんと田畠さんなら反対したと言ってた。確かに、平池さんの言う通り二人きりというわけではないから、凛恋に言っても良いよと言うかもしれない。でも……。
「ごめんなさい。最近、凛恋のことを心配させてしまって。なので、ちょっと女性と食事するのは控えようと思ってるんです」
何か取って付けた理由にすれば良かったと思う。でも、俺達の会話を少し離れたところで巽さんも聞いていた。だから、俺は巽さんに凛恋のことを大切にしてるとアピールすることも含めて、平池さん達の誘いを断ることにした。
「そっか……まあ、そういうことなら仕方ないわね」
そう言った平池さんが自分の席に戻ると、田畠さんも同じく席に戻る。そして、田畠さんは俺の方を一瞬見てから視線をパソコンに落とした。その反応をした田畠さんは、ガッカリという感情が見えるほど肩が落ちている。その田畠さんの姿を見て、俺は胸の奥がギュッと締め付けられた。
「凡人さん」
「何か困ったことあった?」
「これ、パソコンを借りてやってくれって言われたんですけど……」
「良いよ。俺のを使って」
「本当ですか! ありがとうございます」
席を譲ってパソコンを貸すと、俺は自分の席を離れて巽さんの仕事が纏めてある机に向かう。
机の上には俺が教えた通り、優先度の高い順に分けられた仕事の依頼書があり、それをペラペラ捲って確認する。そして、俺は一生懸命俺のパソコンに向かう巽さんを振り返ってから、仕事の依頼書を見て作業を始める。
パソコンが使えないのは仕事の進行に大きく影響して痛い。ただ、他の編集さんの仕事は俺の仕事よりもパソコンの必要性が高いし、なにより俺より任せられている仕事の重要さは段違いだ。
凛恋、今日はちょっと遅くなる。ごめん。そう心の中で謝り、後で休憩の時にメールしておこうと思った。
「多野。ちょっと」
「はい」
コピー機を設定して印刷を開始すると、古跡さんに声を掛けられて呼ばれる。でも、連れて行かれた先は古跡さんの席ではなく会議室の中だった。
「それからどう? 田畠とは」
「今日、田畠さんがこの前はごめんなさいって付せんの貼られたチョコレート菓子を机に置いててくれて。俺は謝る必要なんてないって思ったんですけど。後で田畠さんに改めてお礼を言おうと思ってます。多分、それで変なわだかまりはなくなると思ってます」
「そう。さっき平池と田畠に声を掛けられてたのは何?」
「平池さんに、この前迷惑掛けたことのお詫びに飲みに行かないかと言われて。凛恋が気にしないように田畠さんと三人でって言われたんですけど、それでもやっぱり凛恋を心配させると思って遠慮しました」
「そう……」
「それで、平池さんと巽さんの方はどうですか? 家基さんには首を突っ込むなって言われたんで俺は何もしてないんですけど、状況を聞くくらいは良いですよね? 俺が原因みたいですし」
「多野が原因というか、多野に頼りっきりな巽さんに平池が突っ掛かった形よ。今は、家基が平池に釘を刺して様子を見てるところ」
「なんか、家基さんは長引きそうだって言ってましたけど、座談会までには大丈夫ですよね?」
「まあ、最悪、完全解決しなくても座談会では平池と巽さんは関わらないから問題ないと思うわ」
「そうですか……」
古跡さんの話を聞く限り、家基さんが言っているように簡単に解決することは出来ない問題らしい。でも、それが恋愛事という括りの話なら、俺は簡単に解決出来ないというのは分かっている。
昔はさておき今の俺は、俺を好きになってくれた人達が沢山居ると知っている。その人達に俺としては、誠心誠意、気持ちに応えられないという答えを出し続けたつもりだった。でも、それをみんながみんな完全に納得してくれたわけじゃない。理緒さんはまだ諦めていないと言っていたし、理緒さんの話では萌夏さんもそうらしい。真弥さんからもステラからもそんな話を聞いたわけじゃない。
「古跡さんは、女性としてはどうやって好意を断られたら諦めが付きますか?」
「諦めの付く断り方? 多野の場合は彼女が居るからって理由で足りると思うけど。何? 誰かから告白されたの?」
ニヤッと笑った古跡さんの顔にいたずら心が見えるが、俺は真面目に話を続ける。
「もしそれじゃ納得出来ない、諦め切れないって言われたらどうしますか?」
俺の返答で、俺の質問の切実さが伝わったのか、古跡さんは真剣な表情で腕を組む。
「そうね……恋人が居るってことで諦めが付かないとなると、変な期待を持たせないことね」
「変な期待を持たせない?」
「まずは、相手に優しくしないことよ」
「相手に優しくしない……」
「たとえば、相手が落ち込んでいるのを見て声を掛けるのはダメ。そういう気落ちしてる時に掛けられる優しさは凄く心に染みるものよ。それが好きな相手なら尚更だし、もしかしたら自分に気持ちが向いているかもしれない。そう思ってしまう人が多いと思うわ。特に、多野みたいに気が利いて優しい人がそういうことをやってしまいがちだと思うけど。優しくし過ぎるっていう失敗は」
「優しくし過ぎる……」
優しくし過ぎることが悪いというのは、今まで色んな人から言われてきた。つい最近は平池さんからも言われた。でも、俺は優しくしているつもりはない。俺は普通に――。
「でも、だからと言って無理に自分を変えて人に対して冷たくなる必要なんてないと思うわ。この世に完璧な人間なんて一人も居ない。それに、多野の優しさは確実な長所よ。八戸さんだって多野のことを好きな理由に多野の優しさは必ず入っているはず。それを潰すのは止めた方が良いわ」
「だったら、俺はどうすれば良いんですかね……」
「それは、真摯に断り続けて相手に向き合い続けるしかないわ。でも、それも多野の長所の一つでしょ。それでも相手が多野のことを諦められないとしたら、それは多野が悪い訳でも相手が悪い訳でもない。ただ、その人が本気で燃え尽きない恋を多野にしたということよ」
「燃え尽きない恋……」
「私の友人にも居るわ。新しい恋を始められない人がね。それは前の恋が燃え尽きてないからよ。でも、私からはその友人は毎日楽しく生きているように見える。恋は人の心を豊かにしてくれる。でも、恋だけが人の心を豊かにするものじゃないわ」
俺にそう言ってくれた古跡さんは、クスッと笑って俺の顔を見る。
「モテる男は大変ね。私にしたら羨ましい悩みだわ。じゃあ、田畠とも関係が良くなりそうだと聞けたし、私も仕事に戻るわね。ああそれから」
「はい?」
「巽さんの仕事、全部終わらせちゃダメよ。油断すると多野は集中して全て終わらせてしまうから」
「分かりました」
会議室から出て行く古跡さんの後、俺も会議室を出る。そして、コピー機に設定して印刷しておいた資料を綴じ始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます