【二七四《間違いに因って来たる空隙》】:一

【間違いに因って来たる空隙】


 次の日、俺は朝早くに訪ねてきた希さんに、両頬を摘まれて横に引っ張られていた。こっちは寝不足気味だって言うのに勘弁してほしい。


「連絡したのに繋がらなくて心配した」

「ごめん」


 頬から手を離した希さんは、大きくため息を吐いて、テーブルに置かれた俺のスマートフォンを見る。

 昨日の夜、凛恋と電話で喧嘩した後についカッとなって投げたスマートフォンは壊れてしまっていた。だから、昨日の夜に希さんや栄次が掛けた電話が繋がらなかったらしい。


「凡人くんが物に当たるなんて珍しい」

「…………凛恋から話は聞いてるんだろ?」

「うん。でも、凡人くんからも話を聞かないと。こういう話、聞き出さないと凡人くんは自分から話さないし」

「…………」


 昨日のことを誰にも話すつもりがなかった俺は、希さんの言葉に何も言えず黙るしかない。そんな俺を見て、希さんは呆れたようにため息を吐いた。


「凛恋にも言ったけど、お互いに結婚を認めてもらうための一人暮らしなんだよね? それなのに自分達からどんどん会う時間減らしてどういうつもりなの?」

「いや……でも、凛恋のお母さんが結婚を認めてくれないのは――」

「凡人くんは凛恋のお母さんと凛恋、どっちが大事なの?」

「それは凛恋に決まってる」


 質問に即答すると、希さんはクスッと笑って首を傾げた。


「じゃあ、一人暮らししてますって言いながら、毎日お互いの家に泊まり合えば良いじゃん」

「いや、それはダメだろ。さっき希さんが言ったみたいに、俺と凛恋はお互いから自立するために一人暮らしをしてるんだ。それなのに泊まり合ってたら意味ないだろ」

「でも、そのせいで凡人くんは不満が溜まって凛恋と喧嘩しちゃった。でも、凛恋も同じなんだよ」

「凛恋も同じ……」

「凛恋だって凡人くんに会いたくて会いたくて仕方なくて、でも我慢しなきゃって我慢し続けてた。そのせいで、慣れないアルバイトのストレスのはけ口がなくて、昨日の電話で爆発しちゃった。それで二人の仲が悪くなっちゃう方が問題でしょ? 同棲から半同棲になれば良いと思うよ。お互いに半分ずつお互いの家にお泊まりするの」

「半同棲……」


 言葉としては知っていても、それが実際どういう状態のことを言うのかは分からない。でも、希さんの言ったように、毎日じゃなくても頻繁にどちらかの家に泊まるような関係をそう言うんだろう。


「私と栄次は簡単に会える距離に居ないから、絶対に会えるって日をお互いに目指して生活してる。でも、凛恋と凡人くんは下手にいつでも会える距離で一人暮らししてるから、心のどこかでいつでも会えるから大丈夫だって思ったんじゃないかな。個人的には、私は二人は絶対に毎日会わないなんて無理だと思うけど」


 俺と凛恋の心を見透かしたように笑う希さんに、俺はばつが悪くなる。


「凛恋なんて特に無理だよ。だって、凡人くんと付き合う前から学校が終わると全力ダッシュで凡人くんに会いに行ってたんだよ? そんな凛恋が三年も同棲してたのにいきなり別々に暮らすなんて無理に決まってるよ。それに凡人くんだって無理なはず。だから、凡人くんらしくないこんなことをするくらい限界だった」


 壊れてしまった俺のスマートフォンを持ち上げた希さんは、自分のスマートフォンを見て微笑んだ。そして、スマートフォンの画面を見せる。そこには、SNSでの凛恋とのやり取りが映し出されていた?


『希? 凡人の家着いた?』

『まだ。でも、最寄り駅に着いたから、あと一〇分くらい』

『希、一生のお願い! 走って凡人の家に行って!』

『今着いたよ。凡人くんのスマホ、壊れてたから繋がらなかったみたい』

『凡人、やっぱり私のこと嫌いになってる?』

『そんなことないよ。でも、凄く怒ってるよ。凛恋がデートの約束破ったから』

『希、凡人との仲直りに協力して。私、絶対に凡人と別れたくない。私には凡人しか居ないの。だからお願いっ!』

『任せといて。絶対に二人を仲直りさせてみせるから』


 そこで凛恋のアルバイトの時間になったのか、やり取りは途切れていた。


「任せといてって言っちゃったから、絶対に仲直りしてね」

「ああ」

「良かった。昨日、凛恋から泣いて電話があったんだよ。凡人くんと喧嘩して着信拒否されてるって。凛恋、喧嘩して電話切っちゃった後、冷静になって謝るために何度も掛け直したんだって」

「凛恋に悪いことしたな……」

「私は、悪いことをしたのは凛恋だと思ったよ。だから、凛恋にはちゃんと誠心誠意凡人くんに謝ってって言った。いくらなんでも二回もアルバイトで彼氏とのお泊まりデートの約束を破るなんてあり得ない。凡人くんもそうだけど凛恋も人が良すぎるんだよ。私だったら、絶対に休みは代わらない」


 その希さんの言葉を聞いて、希さんの言っていた「下手にいつでも会える距離で一人暮らししてるから、心のどこかでいつでも会えるから大丈夫だって思ったんじゃないかな」という言葉が納得出来た。

 栄次と希さんは簡単に会える距離じゃない。だから、二人は約束した日に会えなければ、次にいつ会えるか分からない。そんな状況だから、二人はなんとしてもその日に会おうとする。でも、俺と凛恋は本当に会いたいと思えば会える距離に居る。そのせいで、俺達はお互いに会う努力をしなかった。


「俺だって凛恋に会おうとしなかった。きっと俺も無理をすれば一時間でも三〇分でも凛恋と会う時間は作れたはずだ。だから……俺が悪い」

「凡人くん、違うよ。凡人くん“も”悪いだよ。今回の二人の喧嘩はお互いに悪いところがある。凛恋の行動が引き金だったけど、凡人くんが言ったみたいに凡人くんにだって出来ることがあった。だから、これからはお互いに努力し合えば良いんだよ。それに、凛恋のお母さんに内緒で半同棲したって良い。それをしないで二人がまた喧嘩しちゃうより、よっぽど良いと思わない?」

「希さんの言う通りだ。凛恋にお互いの家に泊まり合えないか話してみる」

「うん。これで一件落着だね」


 希さんがニコッと明るく笑った直後、部屋のインターホンが鳴って来客を知らせる。俺が立ち上がって玄関のドアを開けると、ドアの隙間からニコニコ笑って手を振る理緒さんの顔が見えた。


「凡人くん――と、希も一緒だったんだ」


 ドアの隙間から部屋の中を見た理緒さんが、目を細めてそう言う。そして、俺を見て首を傾げた。


「凛恋と喧嘩して、それで希がもう仲裁しちゃった?」

「理緒さん、凛恋から聞いたのか?」

「そんなわけないよ。凛恋とは全然連絡取ってないから。でも、凛恋がずーっと間違え続けてたから、そのうちにお互いにすれ違うとは思ってた。だけど、希がそこを仲裁しちゃったんだね。せっかく二人がすれ違った隙間に入ろうと思ってたのに」

「理緒。ちょっと良い?」

「良いよ。でも、ここで話そうよ」

「外で良いでしょ?」

「何? 凡人くんに聞かれちゃマズい話でもするの?」


 理緒さんと希さんが俺を挟んで睨み合うのを見て、俺はドアを開いてから二人を交互に見る。


「喧嘩するのは止めてくれ。二人の話は俺も聞く。理緒さん入って」

「お邪魔します」


 理緒さんを招き入れると、二人はテーブルを挟んで向かい合って座る。俺は理緒さんにコーヒーを淹れてから二人の中間に腰を下ろした。


「凛恋と凡人くんの邪魔をするのはもう止めて。理緒が何をしようとしても、二人の仲は引き裂けない」

「希が余計なことをしなければ分からなかったでしょ? 凛恋が凡人くんに全然会ってない間、凡人くんはいっぱいいっぱいだった。だから、喧嘩したんだよ。それは二人は合ってないってことでしょ?」

「喧嘩するだけで合ってないなんて言えない。喧嘩くらい誰だってする。それに人なら間違うことだってある。それに私は余計なことなんてしてない。二人のために、二人がすれ違わないようにしただけ」


「それが余計なことなんだよ。今後、また凡人くんと凛恋が喧嘩したらどうするの? また――」

「何度でも私は二人の仲を取り持つ。私は凛恋と凡人くんの親友だから。私は二人に二人で幸せになってほしい。私は二人が付き合う前からずっと見てる。だから分かるの。二人にはお互いしか居ないって」

「凡人くんには私が居るよ」


 二人ともにお互いの意見をぶつけ合うだけで、それは話し合いというより言葉のぶつけ合いでしかない。でも、俺はその二人が言葉をぶつけ合う原因になっている。その俺が下手に口を挟んで良いとは思えない。だけど、口を挟まなければ二人は互いを言葉で傷付け合ってしまう。


「希、そろそろアルバイトの時間じゃないの?」

「それは……」

「遅刻は良くないよ」

「……凡人くん、私は帰るけどちゃんと凛恋と仲直りして」

「分かっ――」

「遅刻するよ」


 希さんにそう言った理緒さんは、テーブルの上に置いたコーヒーを飲む。その理緒さんを見て、希さんは部屋を出て行った。


「凛恋は今日もアルバイト?」

「そうだよ」

「そっか。……凡人くんは凛恋と仲直りするつもりなの?」

「ああ。ちゃんと会って謝る。それでまた――」

「それでまた、凛恋は凡人くんにばかり無理させて凡人くんは一人だけ我慢しちゃうってことだね」

「今回のことは、会う時間を作らなかった俺も悪かったんだ」

「凡人くんは何も悪くない。一人暮らしをするのも凛恋が凡人くんに頼りっぱなしだから」

「俺だって過保護になり過ぎてたんだ」

「私は凡人くんは何も悪くないって思ってる」


 コーヒーを飲み終わった理緒さんはコーヒーの入っていたマグカップを置いて、俺の目を見てため息を吐いた。


「凡人くん、自分が何してるか分かってる?」

「何したか?」

「凡人くん、また折れたんだよ。自分の意見を曲げて凛恋に合わせた。希に説得されて自分から凛恋に歩み寄った。それって今までの、優しい凡人くんだけが辛くなることと変わってない」

「俺は折れてなんか」

「そもそも凛恋がアルバイトを優先させなければ問題にならなかったはずでしょ? 凡人くんって一週間も我慢出来ないような人じゃない。理性的な人だよ。今まで、凡人くんは凛恋と喧嘩らしい喧嘩をしてなかったでしょ? それはきっと凡人くんが全部耐えてたから。でも、そんな凡人くんが喧嘩するくらい耐えられなかったなら、私はそれが限界だと思うけど」

「俺は限界なんかじゃ」

「限界になってなかったら凡人くんはこんなことしないよッ!」


 テーブルに置いてあった俺のスマートフォンを持って理緒さんが声を荒らげる。


「確かに自分でも物に当たるなんて馬鹿なことをしたと思ってる。でも、それは凛恋のせいじゃない」

「凛恋が――」


 理緒さんが何か言葉を言おうとした時、部屋のインターホンが鳴る。すると、俺が出る前にドアが開いて、凛恋が入って来た。


「凛恋? アルバイトは――」

「辞めてきた」

「辞めてきた?」

「ごめん凡人。話は後にさせて」


 俺にそう言った凛恋は、座っていた理緒さんの腕を掴んで立たせた。


「私、理緒のこと甘く見てた。本気で……本気で私達の友情が壊れてでも凡人を私から奪うつもりだったんだね」

「言ったでしょ? それに凛恋も分かってるはず。同じ人を好きになった全員が幸せになる方法なんてない」

「うん。そうだよね……だから、もう――」


 キッと理緒さんを睨んでから、思いっ切り右手で理緒さんの頬を打った。


「私の彼氏に手を出すあんたとは友達じゃないから。もう二度と凡人に近付かないで」


 凛恋は頬を押さえる理緒さんにそう強い口調で言う。でも、理緒さんは頬を押さえたままニヤッと笑った。


「嫌だよ。そのくらいで諦めるなら、私は大切な友達を裏切らない。絶対に凡人くんの心を奪うつもりで来てる。何があっても」


 その理緒さんは、持っていた俺のスマートフォンを凛恋に差し出す。


「凛恋。凛恋は凡人くんにここまでさせたってことは分かってた方が良いよ。今回は希に助けられたみたいだけど、次はないと思った方が良いんじゃない?」

「…………」

「凡人くん、また来るから」


 俺に手を振って理緒さんは部屋から出て行く。その理緒さんが出て行ったドアが閉まると、凛恋は走ってドアの内鍵を掛けた。そして、俺の元に戻って来て胸に飛び込んだ。

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