【二七一《消えない微傷》】:二

「私が行った時に、男性客が言ってたのよ。あの可愛い子今日は居ないんだって。他にも可愛い店員が居るかもしれないけど、残ってる客のほとんどはケーキ目当てじゃなくて店員目当ての人ばっかりじゃないかなって思う」

「絵理香」


 田畠さんが平池さんをたしなめるように言って、平池さんはそれで俺に凛恋のアルバイト先について話すのを止めた。

 凛恋は頼りにされて喜んでいた。実際、凛恋は頼りにされていた。でも、店に頼りにされていたのは仕事が出来る凛恋じゃなくて、凛恋の顔だった。そんな……そんな酷いことがあってたまるか。

 凛恋は一生懸命、自立しようと頑張っている。苦手なことにもチャレンジして乗り越えようとしている。その純粋で真面目な凛恋を、誰かの商売の道具に利用されるなんて見過ごせるわけがない。


「でも、可愛い店員さんが居るから行くって悪いことなんですかね?」


 俺の持つタウン情報誌を横から眺めていた巽さんは首を傾げる。


「格好良い店員さんが居るからカフェに通う女の人も居ますし、男の人もそういう人って沢山居ると思います。それに可愛いは自分の長所ですよ。それを仕事に活かすのって悪いことなんですか?」

「巽さん……」


 確かに巽さんの言う通り、店員を目的に通う客は居る。それに凛恋が可愛いのも長所だ。でも、俺はどうしても凛恋が高二の時、ストーカーに付きまとわれた時のことを思い出す。

 店員に好意を持った客が暴走したらどれだけ恐ろしいことになるか、どれだけ深く凛恋を傷付けるか知っている。


「まあ、これだけ可愛い彼女さんを持つと心配なのは分かります。きっとお客さんから声掛けられたり連絡先を渡されたりしますから。でも、私も高校の時に彼氏も居てアルバイトもしてましたけど、連絡先を渡されても断ってましたし、無理矢理渡されてもそのお客さんが帰った後に出てクシャって潰してゴミ箱に捨ててましたよ。彼氏が大好きで他の人なんて好きになりませんでしたから。もちろん勇気を出して渡してくれた人には悪いことをしてしまいましたけど、連絡先なんて渡されても連絡する気もないし、何より持ってたら彼氏を裏切るってことですから。だから、多野さんの彼女さんもきっと貰っても捨ててますよ」


 明るく笑って巽さんはそう言う。

 俺は凛恋を疑っているわけではない。凛恋の身を案じていただけだ。でも、事情を知らない巽さんからすれば、俺は彼女が他の男に盗られそうと心配する男に見えたのだろう。いや……今でも凛恋が他の男に盗られないか心配じゃないわけじゃない。だから、巽さんはあながち間違いではない。


 凛恋がせっかく踏み出した勇気を、俺が横から掻き回して駄目にして良いわけがない。だから、俺はちゃんと大人の心を持って凛恋のことを見守るべきなんだと思う。だけどやっぱり……まだ凛恋のことを心配する子供の俺が居た。




 様子を見に行くだけ、ただ凛恋が普通にアルバイト出来ているか確かめるだけだ。

 アルバイト終わり、一緒に帰ろうと誘ってくれた巽さんに用事があると言って、俺は凛恋のアルバイト先に再び来た。でも、この前みたいに店の中に入るつもりはない。

 ただ、外から凛恋が働いている様子を確認――いや、凛恋を目当ての客がいないか――いや……凛恋に付きまとうような男が居ないかの確認だ。


 今日俺が様子を確認した時に、たまたま凛恋に付きまとうような男が居ない可能性もある。でも、俺が今日来たのは自分を納得させるためだ。

 凛恋のアルバイト先の前まで来て、わざとらしくスマートフォンを取り出してメールチェックをする振りをする。それで、さり気なく視線を店の奥に向けた。


 ケーキを並べたショーケース越しに、凛恋はケーキ屋の制服姿で立っている。凛恋の制服姿はやっぱり一段と可愛く見える。凛恋はいつも可愛いが、やっぱり日頃あまり見られない姿っていうものはどうしても新鮮で輝いて見えてしまう。


「……やっぱり男ばっかりだな」


 編集部で平池さんが言っていた通り、店の中に客は一人しか居らず、しかもそのたった一人のお客は男だった。それに、ずっと凛恋の前をうろちょろしてチラチラ凛恋を見てる。完全に、凛恋目当ての客だと思った。

 中に入って男の邪魔をしたい、そんな衝動が湧く。でも、今日の俺はそうやって今までみたいに凛恋に過保護をしに来たわけじゃない。俺はただ、凛恋が安心して働けているか確認しに来ただけだ。


 凛恋の前をうろちょろしていた男は、凛恋の目の前でショーケースに並んでいるケーキを指さして凛恋に話し掛けている。そして、凛恋はケーキをショーケースから取り出して箱に詰めながら会計をした。その行動は客である男を待たせない素早い動きで、凛恋が真剣に仕事をしてるのが分かった。


「凛恋、頑張ってるな」


 笑顔を絶やさず、店員としてお客が気持ち良く買い物を出来るように心掛けているのが分かる。それは、接客に携わる人にとって当たり前のことなのかもしれない。でも、それをほんの一年前まで男を怖がっていた凛恋が自然にやっているのは、本当に凄いことだ。


「やっぱり、俺って心配性だったな」


 心配し過ぎだった自分が馬鹿らしくなってきて、小さく笑いが溢れた。でも、その笑いを溢した笑みは、凛恋がショーケースの向こうから出てきて、丁寧にケーキの箱を男に差し出した直後に消えた。

 男が、凛恋に向かって紙を差し出した。あれにはきっと、男の連絡先が書かれている。


『連絡先を渡されても断ってましたし、無理矢理渡されてもそのお客さんが帰った後に出てクシャって潰してゴミ箱に捨ててましたよ』


 その巽さんの行動を見て、俺は凛恋が男の連絡先を断る姿を想像した。でも、実際の凛恋は爽やかな笑顔を向けて紙を受け取った。そして……その紙を制服のズボンのポケットへ仕舞った。

 俺はその光景を目にして、買い物を済ませた男が出てくる前に店の前から離れる。そして、カモフラージュのために持っていたスマートフォンを強く握り締める。


 なんだろう。この、心の一番下でドロドロしたものが動く嫌な感覚は。

 連絡先を受け取ったのは、断って相手を刺激したくないから。一度客に付きまとわれてストーカーの被害に遭ってる凛恋ならそうする可能性だってある。目の前で握り潰さずにポケットの中に仕舞ったのも同じだ。


 全てが男を変に刺激しないため。その理由で片付けられる。それに、凛恋は俺以外の男なんて好きになるわけないんだから、きっとあの後、男から貰った連絡先は捨てるに決まっている。

 でも、そう説明出来るし納得出来るのに、心の奥底にある嫌な感覚は消えない。


 まさか、俺が凛恋を疑ってる? いや、そんなことはあるわけない。じゃあなぜ?

 そう考えて、いつもよりも速い歩調で駅まで歩いてきて、俺は分かった。

 俺は凛恋を疑ったわけじゃない。俺は、がっかりしたんだ。俺は自分の想像した通りの行動を凛恋がしなかったことに落胆した。それは凄く、身勝手で醜い思考だ。

 凛恋は俺のことだけ好きなんだから、俺以外の男の好意なんて迷惑でしかなくて、嫌悪の対象でしかない。だから、相手の好意なんて投げ捨てる。そんな姿を想像してしまった。でも、よくよく考えれば、ちゃんと冷静になって考えれば、凛恋がそんなことをする人じゃないのは俺がよく知っている。


 確かに凛恋は、自分が嫌いと思った相手に対してはとことん嫌いを貫くし、堪忍袋の緒が切れたら、彼氏の俺でも止めたくなるような言葉で拒否感を示す。でも、そこまで嫌いじゃない人にはちゃんと気が遣える優しい人だ。だから、アルバイト先で連絡先を渡してきたお客に失礼な態度なんて取れる性格じゃない。

 それが、凛恋がそういう人だと分かっているのに、俺がそうじゃない凛恋を想像したのはなぜか? それは単純だった。俺がまだ、どうしょうもないくらい凛恋から自立出来てないせいだ。


 俺は凛恋が心配だ。でも、それは凛恋に傷付いてほしくないという心配以外に、別の質を持った心配がある。

 俺は凛恋が自分の手の届く範囲から居なくなるのが心配なんだ。

 凛恋が俺のことを裏切らないと、凛恋が俺以外の男を好きにならないと確信していながらも、俺は凛恋が自分の側を離れるのが心配――怖い、のは……俺が今日まで経験してきた全てのせいだ。


 何度も俺は、凛恋の彼氏であることを他人から否定され、俺から凛恋を奪おうとする人間に出会ってきた。その人間達は、俺と凛恋の間を引き裂くことを正義と考えて、凛恋を傷付けることも厭わず行動を起こしてきた。そういう人間のせいで大きく傷付いたのは凛恋だ。でも、そういう人間のせいで傷付いた人間は凛恋だけじゃなかった。

 俺も、俺から凛恋を奪おうとする人間に傷付けられてきたんだ。それは自覚出来なかったくらい細い、でも……心に確かに傷跡を残す深い傷を。


 また、あの男が俺から凛恋を奪うと言い出して、また凛恋と俺の仲を引き裂こうとするんじゃないか。そんな恐怖が襲う。また、俺が凛恋に相応しくないと思われるせいで凛恋に不安な思いをさせて、俺が凛恋に相応しくないと思われるせいで、自分で自分の首を絞める日々が来るんじゃないかと思ってしまう。

 あと少しなんだ。就職も内々定だけど決まって、あとは大学を現役で卒業するだけなんだ。そしたら俺と凛恋は結婚出来る。結婚して、結婚という凛恋を俺から奪おうとする男から守れる最強のバリアを手に入れられる。


 最強のバリアで安心しようとした瞬間、街頭ビジョンに表示されたニュースで芸能人の不倫報道のニュースが流れていた。


「全然……最強のバリアじゃないじゃないか」


 世の中には、たとえ結婚をしていたとしても好きな気持ちを押し通してくる人間は居る。だから、馬鹿みたいに何度も不倫で身を滅ぼした人達のニュースが流れるのに、不倫をする人は後を絶たない。

 結婚は最強のバリアなんかじゃない。ただ、恋人よりも強い盾なだけだ。その盾の脇を貫いて来ようとしてくる男は沢山居る。


 盾を得ても、扱う人間が弱かったら意味がない。どんなに強いと言われるようなバリアがあっても、攻めてくる敵を追い払える攻撃手段がないと敵は攻撃をし続けてくる。

 ロニーの時もそうだ。ロニーも俺だけじゃ撃退出来なかった。凛恋の強い意志と、カルロス国王の言葉がなければロニーは諦めなかったはずだ。結局、俺は何もしてない。


 電車に乗って、電車に揺られて体がフラフラして、背中を電車の壁に付けて体を支える。

 無性に凛恋に会いたかった。無性に凛恋に会って抱き締めたかった。凛恋に会って抱き締めて、それからキスして……エッチして安心したかった。

 電車が線路のつなぎ目を乗り越える規則的な音を聞きながら、俺は他の乗客に悟られない様に両手の拳を握る。


 俺は凛恋と一緒に並んで歩いているつもりで居た。でも、ふと我に返った時には、凛恋は俺の一歩も二歩も先を歩いている。その足取りはしっかりしていて、真っ直ぐ自信を持って歩いていた。それに対して俺は、右へ行ったり左へ行ったり、立ち止まったり振り返ったり、勇み足になったり……そんな自信の欠片もない歩きしか出来ていない。だから、いつの間にか凛恋の前を歩いて引っ張っているつもりだった俺は、いつの間にか凛恋に横を追い越されてしまった。


 俺を追い越したことは凛恋が悪いわけじゃない。俺があまりにも歩くのが遅すぎて拙すぎるのだ。凛恋は恐怖に打ち勝つためにどんどん前に進んでいる。その歩きには、立ち止まった時に感じる恐怖を感じないようにという意気があった。だから、凛恋は立ち止まりたくても立ち止まれないのだ。だから……本当なら、俺がその凛恋を一人にしないようにしっかりと凛恋の隣を歩かなきゃいけない。

 凛恋を一人にして不安にさせないように、俺が凛恋の隣を歩かなきゃいけないんだ。言葉は発しなくても、目線は合わせなくても、確かにそこに、隣に俺が居ると凛恋に感じさせてあげないといけない。凛恋の彼氏は、凛恋にそうしなきゃいけないんだ。


 考え事をしている間に、電車はアパートの最寄り駅に着いて、俺は電車から降りてさっきよりも重くなった足を動かしてアパートまでの道を歩く。

 結局、俺は昔っから何も変わってない。凛恋から自立しようとする以前に、自分の本質的な性格が全く成長してない。

 自分に自信がなくてすぐ不安になる。その上、考えること全てがネガティブ。全部分かっている。凛恋にも言われたし、栄次達にも何度だって指摘されてる。それに、そのことで過去に何度も失敗して、何度も凛恋を失いそうになった。


 学習能力のない人間は、やがて人を離れさせる。そんな話をどこかで聞いたか見たことがある。学習能力のない人間は、何度も同じ失敗を繰り返すから、初めは温かく見守ってくれていた人も、何度も同じ失敗を繰り返すうちに嫌気が差して見放していくらしい。

 今のところ、俺は凛恋に見放されていない。いや、多分俺はそういうやつなんだと受け入れて納得してくれているんだ。他の俺の側に居てくれる人達も凛恋と同じだろう。でも、だから俺がそのみんなの優しさに甘えて良いわけじゃない。それに、今納得してくれているからと言って、これから先、俺の学習能力のなさでの失敗が積み重なって、それが俺の側に居てくれる人達の許容範囲を、凛恋の許容範囲を超えてしまったら――。


「馬鹿野郎……」


 自分の部屋の玄関前に立って、鍵をドアの鍵穴に差し込みながら俯く。そして、顔を下げた床に三つの水滴の跡が見えて、その水滴の跡が四つ五つと増えた後、視界が歪んで見えなくなった。


 情けない。自分が学習能力のない不甲斐ない人間なだけなのに、全部自分が悪いせいなのに、泣いて片付けようとしている自分が、心底情けなかった。

 そして、また一つ、俺は自分の心に細く小さな、深々とした傷が付くのを感じた。

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