【二六六《嘘は嘘を呼ぶ。ただ、どんなに嘘が重なっても真は嘘にはならない》】:二
「凛恋が謝ることは何もない。俺が、凛恋をそこまで追い込んだんだ」
「凡人は悪くないっ! 悪いのは全部私よっ! 私が……嘘を吐いて凡人が私の側にずっと居てくれるように気を引いて仕向けてたの……。だから、悪いのは全部私」
「いや、悪いのは――」
「お互い、少し距離を取るべきだと私は思うわ」
謝り合う俺と凛恋の会話を黙って聞いていたお母さんが、凜としたよく通る声でそう俺と凛恋の会話を途切れさせる。
「俺は――」「ママ――」
「凛恋は凡人くんに頼り過ぎてる。それは凛恋が凡人くんの近くに居て、いつでも凡人くんに頼れる状況だからよ」
「お母さん、俺は凛恋と――」
「凡人くんは高校二年生の頃からずっと、凛恋のことを見守ってくれてた。でも、それで凡人くんがトラブルに巻き込まれたのも事実。それは、凛恋自身にトラブルを解決――いいえ、未然にトラブルを回避する力がないからよ」
そう言ったお母さんは、凛恋の目を真っ直ぐ見て言った。
「凛恋はもう大人。いくつになっても私達の大切な娘だけど、高校生の頃みたいにずっと私達が見ていられるわけじゃない。それに、ずっと見ていられないのは凡人くんも同じ。今はアルバイトをしていると言っても学生で、凡人くんにも時間的にも精神的にも余裕はある。だけど、大学を卒業したら二人は結婚するんでしょう? その結婚の条件に、凡人くんは自分から自分の就職を条件にしてくれた。凡人くんがどんな仕事に就くかは分からないけど、正社員として就職して結婚もすれば凡人くんは家族を持つ世帯主になる。そうなれば、アルバイトや学生の時みたいな余裕は時間的にも精神的にも少なくなる。それなのに、凡人くんを――夫を支える立場になる凛恋はずっと凡人くんに甘えるつもり? もし凛恋がそうだと言うなら、私は二人の結婚には反対よ」
「私は、凡人を支える」
「今の、凡人くんに甘えてばかりの凛恋の言葉は信じられない。だから、一度凡人くんと離れて暮らして、それで私達に証明して。凛恋が凡人くんの力に頼らなくても生きられるって。それで、凛恋は凡人くんを支えられる妻になれるって」
お母さんはそう言ってから、俺に目を向ける。
「凡人くんは凛恋にはもったいないくらい素敵な男性よ。優しくて誠実で、それで真摯に凛恋のことを愛してくれてる。それに、凡人くんはたった一人で凛恋だけじゃなく、私達家族や、もっと大きな大勢の人達を守ってきた。そんなことが出来る男性、この世を探しても凡人くん以外居ない。そんな人が私達の娘を、凛恋を選んでくれた。それに凛恋も真摯に応えないといけない。それは凛恋も分かるでしょ?」
「うん……ママの言う通り、凡人は凄く素敵な人で、私のことを選んでくれて本当に嬉しいしありがとうって思ってる。それにママの言う通り、今の私じゃ凡人に相応しくないのも分かる。それに、私が凡人に相応しくなくてママに結婚を認めてもらえないなら、私は結婚を認めてもらうために何でもする」
お母さんを真っ直ぐ見返す凛恋の言葉には芯が通っていてしっかりとしている。
俺の過保護が凛恋を弱くしてしまった。でも、凛恋はその弱さに立ち向かおうとしてくれている。その凛恋の頑張りに俺も応えて、凛恋の頑張りを手助けしたい。
「詳しい話はお父さんや凡人くんのお爺さんお婆さんとも相談しないといけない。でも、凛恋が頑張ると言ってくれて私は嬉しいわ。ありがとう」
お母さんは凛恋の頭に手を置いて優しく撫でる。そのお母さんの顔は本当に温かく凛恋を包み込む優しさに溢れていた。
八戸家と多野家が話し合いをした結果、俺達の結婚に新たな条件が一つ付け加えられた。それは……。
大学卒業までの残り一年間、同棲を解消して生活すること。
今のセキュリティの強いアパートは凛恋がそのまま住み、俺が別の部屋を借りて住むことになる。新しい部屋は爺ちゃんから予算を伝えられて、それに合わせて俺が自分で探すことになった。
凛恋との同棲が終わることは寂しくないわけじゃない。でも、俺も凛恋も結婚のための前向きなことだと捉えることが出来た。
八戸家と多野家の家族会議が終わり、俺は凛恋と手を繋いで家から出て歩き出す。行く先は決めず、俺と凛恋は散歩デートを始める。
「凡人」
「ん?」
「凡人が凄く優しくて心が広い人で良かった。私……凡人を騙してたのに」
「俺は騙されてたなんて思ってない。凛恋の男性恐怖症が良くなってて良かった。凛恋が怖い思いをしなくて済むのが一番なんだから」
「ほんと……凡人チョー格好良過ぎる」
腕を抱いた凛恋は、俺と指を組んで手を握る。
「私、絶対にママ達に認めてもらうから。私が凡人に相応しい人だって」
その凛恋の言葉と強く握られた凛恋の手から、凛恋の決意が伝わってくる。
「俺も、一人で出来ることを増やす。同棲してる時は料理をほとんど凛恋に任せてたし」
凛恋が俺に甘えていたように、凛恋の優しさに甘えていた。凛恋が料理をしてくれるという優しさに甘えて、今も俺は自分一人ではまともに料理をする自信がない。だから、自立を目指す凛恋と同じように、俺も自立をしなければならない。そして、お互いに自立し合って、爺ちゃん婆ちゃん、凛恋のお父さんお母さんにちゃんと認めてもらい結婚する。それで、俺と凛恋は家族になってまた前へ進んでいける。
「――ッ!?」
隣を歩く凛恋の顔を眺めていると、明るく笑っていた凛恋はキッと視線を鋭くし、俺の目の前に立って背中で俺を隠すような動作をした。その凛恋の後ろから正面に視線を向けると、真っ白なダウンジャケットを着た本蔵さんが立っていた。
「多野、こんにちは」
「凡人に何の用?」
目の前に立っている凛恋を無視して俺に挨拶した本蔵さんに、凛恋は強い口調で尋ねる。それに、本蔵さんは首に巻いたマフラーから口を出して、小さく白い息を吐いた。
「今から多野のところに行こうと思ってた」
「だから、凡人に何の用があるって聞いてるのよ」
「八戸は多野に嘘を吐いている」
「……何の嘘よ」
「八戸は男が怖くない」
俺はその言葉を聞いて、意外だとは思わなかったが驚いた。
凛恋の男性恐怖症が改善されたのは、萌夏さんのお父さんの話が切っ掛けで分かっていることだった。ただ、それを本蔵さんの口から言われるということに驚いた。本蔵さんは凛恋のその話を知らないはずだった。だけど、本蔵さんは凛恋が俺に男性恐怖症が改善していることを隠していたことを知っていた。
「そう。多野は知ってた――ううん、気付いたんだ」
俺の目を見た本蔵さんは一度頷いて納得したように呟く。しかし、その目を凛恋に移すと、本蔵さんは目を細める。
「私、成華女子に友達が居るの。文芸サークルの交流で会った人」
「それがどうしたのよ」
「八戸のことを聞いたら、その友達が言ってた“ああ、あの他大の男とよく遊んでるグループで一番可愛い子ね”って。凄く成華女子で有名だって言ってた」
「えっ?」
俺は本蔵さんの言葉を聞いて、そんな間抜けな声しか出せなかった。
凛恋の大学の友人とは何度か顔を合わせたことがある。その人達は、落ち着いているというよりも明るく騒がしく、大学生らしい大学生、リア充らしいリア充という人達だった。
「よく他大の男とか社会人の男と合コンをしてるって話してた。それでよく“男の人の家に泊まって飲み会をする”とも言ってた」
「本蔵さん、凛恋の友達はそうかもしれないけど、凛恋は合コンなんて行ってないし、ましてや男の家に泊まるなんてこともしてない」
凛恋の前に歩み出て、今度は俺が凛恋を背中に隠す。そして、真っ直ぐ本蔵さんを見て言った。
凛恋の友達がやっているからって、凛恋がやっているなんて話がまかり通るわけがない。
そもそも本蔵さんの言っているのは本蔵さんの友達から聞いた話だ。それに、その本蔵さんの友達もどうせ又聞きでの情報でしかないに決まってる。又聞きした情報なんていくらでも尾ひれが付いてしまうものだ。ただの飲み会が合コンだとなったり、女同士のオールが男も交ざっていたと話されたりもするだろう。それは、話し手が話を面白可笑しくしようと脚色したり、話し手に凛恋達の友人に嫉妬心があったりと色んな要因が思い付く。
「多野は八戸を信じてるんだ」
「当たり前だろ。本蔵さんの話以前に、顔も知らない本蔵さんの友達の話より俺は凛恋を信じてる」
俺が強い言葉で断言すると、本蔵さんは表情を変えずにまた小さく白い息を吐いた。
「高校から多野はそうだった。まるで恋愛漫画や恋愛小説のヒーローみたいに一途に八戸を愛し続けていた。そして、本当に創作の中のヒーローみたいに大きな困難を解決してきた。ただ、多野はそんな創作物のヒーローじゃない。多野は現実のどこにでも居る普通の大学生。そして、八戸だってヒーローに一途なヒロインじゃない。八戸もどこにでも居るただの大学生」
「本蔵さん、何が言いたいんだ?」
「人は誰でも嘘を吐く。大なり小なり人は自分を偽って良く見せようとする生き物。だけど、それを差し引いても、八戸が多野に吐いている嘘、隠している事実は許せる許容範囲を超えている。少なくとも、私の許容範囲からは」
俺から目を外した本蔵さんは再び凛恋に視線を向ける。そして、全く表情を変えることなく、凛恋に向かって首を傾げた。
「ほら、多野に何か言ったらどう? 私はそんなことしてない。本蔵の言ってるのは全部嘘。そう多野に嘘を吐いたら? そしたら、きっと多野は八戸の言葉を信じて八戸を好きで居続けてくれる。そして、真実を話した私を多野は怒る。多野にとって大切な八戸を侮辱した最低な人間だと多野は認識する。そうしたらもう、八戸は私が多野を奪おうとすることは出来ないって安心出来る。多野に吐いてた嘘を突き通せて、同時に邪魔な私を完全に排除出来る。一石二鳥でしょ?」
淡々と、冷たくそう言った本蔵さんから目を離し、ずっと黙っている凛恋の顔に視線を向ける。俺は、その視線を向けた先に居た凛恋の顔を見て目を見開いた。
さっきまで明るく笑っていた表情は影も形もなく、表情は強張っていて顔色は青白い。それに、視線は定まっていなくてキョロキョロと泳いでいる。その凛恋の様子は、本蔵さんの言葉に動揺しているようにしか見えなかった。
「前に飾磨がペラペラと話してた。多野は女子学生と会う時は、律儀に八戸へメールだけでも連絡する人だって。女子を交えた飲み会は行くけどオールは絶対やらないって。そう飾磨が話してた。凄く真面目。凄く一途。そして、凄く可哀想」
本蔵さんは俺の目の前まで歩いて来て、斜め下から俺を見上げる。その真っ直ぐとした目は直視すると気圧されるほどの雰囲気があった。
「多野、目を覚まして。八戸は、多野が思っているような人間じゃない」
「言いたいことはそれだけ?」
「――ッ?」「凡人……」
俺が返した言葉に本蔵さんは目を見開いて驚き、後ろからは凛恋の消え入りそうな声が聞こえた。
「きっと凛恋のことだから、友達の誘いを断り切れなかったんだ。凛恋は空気をよく読む性格だし、頼まれたら断れない性格もある。だから、断って場の雰囲気を壊せなかったり、断るタイミングを逃したりして仕方なく合コンに行ったりオールの飲み会に付き合ったりしたんだ」
誰にでも言えないことはある。俺にだって、凛恋に言えないことはある。理緒さんや真弥さんにキスされたことは言えないし、空条さんが俺のことを好きなことは言っていない。それは、凛恋に変な心配をさせたくないからだ。
大事なのは俺が凛恋を好きだということだ。不意討ちで理緒さんや真弥さんにキスをされても、空条さんが俺のことを好きになってくれたとしても、俺の凛恋に対する気持ちは変わらない。俺がそうであるように、凛恋だって俺と同じ気持ちのはずだ。俺は、そう信じてる。
「本蔵さん、俺は本蔵さんがいくら凛恋に不信感を持たせようとしても凛恋を嫌いになんてならない。それに、それで本蔵さんのことを好きになるなんてもっとない」
「良い年した男女がお酒を飲んで酔って、しかも男の家でだなんてやることやってるに決まっている。多野はそれでも――」
「本当は女性に対してはこんな言葉を使いたくはないんだけど……。俺の彼女を馬鹿にするのも大概にしろよ。それ以上、凛恋を侮辱したら許さない」
「多野……多野は八戸に騙されて――」
「確かに、凛恋の反応を見たら、本蔵さんの言ってる、合コンとかオールは事実なんだと思う。それを知らなかったことは、凛恋が俺に隠してたってことだ。でもそれが、俺のことを変に心配させないためなのは分かってる。それに、言ってしまうことが怖いことだってことも俺は分かる。俺だって、合コンに行ったとか女性が居るところでオールしたなんて言えない」
「でも、八戸は多野以外の男と――」
「さっき言ったはずだ。それ以上、凛恋を侮辱したら許さないって」
俺は一歩も動かず、目の前に居る本蔵さんに向かってただ言葉を返す。しかし、本蔵さんは僅かに一歩後ろに足を引いて後退りをした。
「嘘は一度吐いたら嘘を重ねてしまうものだ。嘘を隠すために嘘を吐いて、その嘘をまた真実に見せるために嘘にする。でも、それは最初が嘘から始まったものだけに言えることだ。最初から本当、真だったものは、どんなに嘘を重ねたって真でしかない。俺にとって重要なのは凛恋の真だ」
俺は一度深呼吸をして興奮した心を落ち着かせる。そして、本蔵さんを後退りさせてしまった男らしくない威圧を抑えて言葉を発する。
「俺のことを世界で一番大切にしてくれて、俺のことを世界で一番好きで居てくれる。その凛恋の真が根本にあるなら、どんなに嘘が重なってもそれは変わらない。俺はその真が真であり続けるならそれで良い。その真がしっかりしてるなら、凛恋は絶対に俺を裏切らないと信じられる」
「…………」
「分かったなら帰ってくれ」
黙っている本蔵さんに言うと、本蔵さんは俯いて俺と凛恋に背中を向けて歩いて行く。そして、本蔵さんの姿が曲がり角を曲がって見えなくなるのを見て、俺は心を落ち着かせるためにホッと白い息を吐いた。その直後、後ろからドスッと軽い衝撃を受け、俺の腰に後ろから凛恋の手が回る。その凛恋の手に、俺はそっと自分の手を重ねた。
「凡人っ……ありがとうっ……」
「俺は凛恋を信じてるからな。本蔵さんの言葉より、凛恋の心を信じてる」
「友達に誘われて行った飲み会が合コンだったのも本当だし、友達の家でオールしてたら友達が男の人を呼んだことがあるのも本当。でも、私は凡人を裏切ってない」
「聞いてなかったのか? 俺は凛恋に改めて言われなくても信じてる。何年の付き合いだと思ってるんだよ」
「うん……」
後ろから凛恋が俺の背中に顔を埋めるのを感じながら、俺は空を見上げた。
見上げた空は青く、その青に綺麗な白い雲と太陽が浮かぶのが見える。その晴れやかな空を見上げながら、俺は心の中で色々と支えていたものが取れた気がした。
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