【二六六《嘘は嘘を呼ぶ。ただ、どんなに嘘が重なっても真は嘘にはならない》】:一

【嘘は嘘を呼ぶ。ただ、どんなに嘘が重なっても真は嘘にはならない】


「凛恋が……嘘を吐いてる?」


 萌夏さんが放った言葉に戸惑う。萌夏さんの言葉は、凛恋が男性恐怖症じゃないのに男性恐怖症だと言っているということだ。でも、凛恋になんでそんな嘘を吐く必要があるか分からない。


「私の想像だけの話だけど、私はそう思う」

「どういう?」

「凡人くん、凄くモテるでしょ」

「いや……そんなことは――」

「そんなことないって。凛恋もかなりモテるけど、凡人くんもモテる。だから、凛恋は不安なんだと思う」

「不安?」

「うん。凛恋ってあんなに可愛くて高校でもかなりモテてたのに、自分に自信がないの。まあ、自信の無さは凡人くんほどじゃないけど」


 そう言ってクスッと小さく笑った萌夏さんは、コーヒーを一口飲んで回顧するように話し始めた。


「凡人くんを凛恋が好きになった時もそう。凛恋に好かれて嫌な男なんているわけないのに、凛恋は希や私達に協力してもらわないとまともにアタック出来なかった。それに、凡人くんと付き合えてもずっと学校でそわそわしてた。凡人くんが誰かに盗られないかって。そんな凛恋の性格と……最近、理緒が塔成大に国内留学したでしょ? それで、凛恋に本気で凡人くんを奪うって宣戦布告した。そんなことされたら、凛恋が不安にならないわけがない」

「じゃあ、凛恋は俺が理緒さんに盗られると思って、自分がまだ男性恐怖症の振りをしてるってことか?」

「そう断言は出来ないけど、私はそう思う。もちろん、いくら栄次くんや瀬名くんには何とか話せているって言っても、多少は男の人に対する恐怖心はあると思う。私も高校の時よりマシになってるけど、やっぱり男の人が怖いっていう考えは私の心の根っこには残ってるから」


 萌夏さんの話は、萌夏さんが最初に言ったように萌夏さんの想像の域を出ていない話なんだろう。萌夏さんも、凛恋と同じ悩みを抱える女性ではあるが凛恋本人ではない。だから、凛恋の心の内を断言出来ないのだ。だったら、凛恋に直接聞くしかない。でも、どう聞けば良い? 凛恋に「男性恐怖症は治ったのか?」そう聞いても、萌夏さんの言う通り心の根っこに男性に対する恐怖心がまだ残っている可能性もある。それに、そんなことを聞いたら凛恋に俺が凛恋を疑ったと思われてしまう。


「凛恋の気持ちは分かる。分かる、けど…………私は凛恋がやり過ぎてると思う。凛恋の男性恐怖症が治った――ある程度男の人と話せるくらい改善したかは私に分からない。でも、凡人くんはそんな凛恋を守るためにずっと気を張って、凛恋を守るために身を削って、凛恋を守るために危険なことにも巻き込まれた。それでも、凡人くんに甘え過ぎてるのは良くない」


 俯いて萌夏さんはそう声を絞り出す。その萌夏さんは葛藤しているように見えた。

 萌夏さんは優しい人だ。それに萌夏さんは凛恋と凄く仲が良い。だから、凛恋を責めるような言葉を言うのは辛いのだろう。


「萌夏さん。萌夏さんはそんなこと言わなくて良い。そもそも凛恋は何も悪くないんだから――」

「だからだよ……凡人くんがそんなだから凛恋は凡人くんに甘えちゃうの。凡人くんが優し過ぎるからっ……どこまでも優しく居てくれるからっ…………凛恋は弱い自分を必死に守ってくれる凡人くんを見るのを止められないっ! …………凡人くんがそんなだからっ……みんな凡人くんを好きになってほっとけなくなる……」

「萌夏さん……ごめん……」


 萌夏さんは目に涙をいっぱい浮かべて、手の腹で必死に浮かんだ涙を拭う。


「ごめん、偉そうなこと言ってるけど、凡人くんの優しさを私が責める権利はない。私は凡人くんのその優しさに救ってもらった人間だから。私は凡人くんに優しくしてもらえなかったら、嫌なことも乗り越えられなかったし夢も叶えられなかった。そんな私が、凡人くんの優しさを責めるなんて、自分勝手なことをしてるのは分かってる。でも、私は凡人くんの優しさに救われた人間だからこそ分かる。凡人くんの優しさには魔力がある。その凡人くんの優しさにずっと触れ続けたいって思わされちゃう力がある。だから……きっと凛恋もずっと凡人くんの優しさを独り占めしたいんだよ。だから、凡人くんが守って優しくしてくれる弱い自分で居ようとするんだよ」


 もし、凛恋が男性恐怖症だと未だに偽っていたとしたら、その責任は俺にある。

 俺は前々から自分が凛恋に対して過保護になっていることを自覚していた。でも、俺はそうだとしても自分にも凛恋にも悪いことはないと信じて、自信を持って過保護で居続けてきた。だけど、その過保護が、凛恋の心を弱くしている原因かも知れない。


「凡人くん……」


 立ち上がった俺を見て、萌夏さんも立ち上がる。そして、俺の手を掴んだ。


「凛恋は一度凡人くんと別れて凄く落ち込んだ。それで……ストーカーとか池水のことがあって、本当に男の人が――凡人くん以外が信じられなくなった。それは間違いない。それで、凡人くんがまた側に居てくれるようになった時、凛恋は本当に心から救われてた。だから、自分で責めたけど、凡人くんの優しさが一〇〇パーセント悪いわけじゃない」

「俺は萌夏さんが俺を責めたなんて思ってない。萌夏さんは教えてくれただけだ。俺が凛恋に過保護になってるって。そのお陰で、俺は自分が間違っていることが分かった。だから、ありがとう」


 ゆっくり萌夏さんが掴んだ手を俺の手から解きながら言うと、萌夏さんは首を激しく振って涙を散らしながら俺の腰に手を回してしがみついた。


「本当に凡人くんは優しい。だから……凡人くんを優しい凡人くんにさせちゃうだけの私じゃ、凡人くんには相応しくないんだ……」

「萌夏さんは俺に相応しくはない。でも、それは萌夏さんの魅力の方が大きくて強いからだ。夢を叶えて、まだ夢を見続けて歩き続ける萌夏さんは輝いている。そんな萌夏さんは、後ろを向いてばかりの俺には相応しくないよ」


 しがみつく萌夏さんの手を解くと、萌夏さんはその場にぺたんと座り込む。その萌夏さんの肩に手を置いて、俺は萌夏さんの部屋から出た。




 萌夏さんの家から、俺は凛恋の家へすぐに向かった。それで、家を訪ねたら、まだ凛恋は帰って来ておらず、家にはお母さん一人しか居なかった。

 家の中に招き入れられた俺は、ダイニングでお母さんが淹れてくれたコーヒーを前にして、テーブルを挟んだ向かいの椅子に座るお母さんを見る。お母さんはテーブルの上に両手を置いて、俺の顔を真っ直ぐ見詰めている。そのお母さんの表情は、ホッと安心する穏やかさがあった。


「お母さんにお話があります」

「話してみて」

「昨日、凛恋が萌夏さんの家で萌夏さんのケーキ作りを手伝っていた時、萌夏さんのお父さんに後ろから肩を叩かれながら声を掛けられたそうです。でも、凛恋はそれで驚いたり怯えたりすることなく、萌夏さんのお父さんを振り返って返事をしたそうです」

「そうなの……つまり、凛恋の男性恐怖症は治っているってこと?」

「完治したとは言い切れないかもしれませんが、俺が思っているよりもかなり改善されているのではないかと思います。でも、凛恋は地元に帰ってくる前は――いえ、こっちに帰ってきても二人で出掛けて街を歩く時は、俺の腕にしがみついて周囲を通り過ぎる男性に怯えている様子でした」

「そう……」


 お母さんは俺の話を聞いて、視線をテーブルの上に落とす。そのお母さんの表情は平常心に見えるが、小さく息を吐いたという行動から少なからず戸惑っているのだと思う。


「それで、凛恋はもしかしたら男性恐怖症ということで俺の気を引いているのかもしれないと思って」


 自分で言うのは言い辛かった。でも、核心を話すにはそう話すしかない。


「……もし、凛恋の男性恐怖症がかなり改善されて、日常生活に支障が出ないレベルになっているとしたら、凡人くんの言う通りだと私も思うわ。……凛恋は、高校一年生の冬に凡人くんと一度別れた時、母親の私の目から見ても酷く落ち込んでいた。それが凛恋の失敗だというのは分かっているけど、その経験から凛恋は知ってしまったと思うの。自分の大切な人を失う恐怖を」

「大切な人を失う恐怖……」

「失うというのは、自分の好きな人が他の誰かを好きになってしまうということ。凛恋にとって恋愛は凡人くんが初めてではないわ。それに失恋だってしていたのも親として知ってる。でも、凛恋には初めてのことだったの。両想いになれた人と別れるという経験は」


「俺も初めてでした。あの時別れたのは不本意でしたし、それにやっぱり凛恋と一緒に居られないんだと思うと辛かったです」

「ありがとう。凡人くんがとても凛恋を大切にしてくれているのは分かっているわ。……それで、凛恋はその辛い経験をして、絶対に凡人くんを失いたくないと思ったんだと思う。文字通り、何をしても」


 何をしても失いたくないと思ってくれた凛恋が採った方法が、男性恐怖症であり続けるという方法だった。凛恋に直接聞いたわけではないが、多分そうなんだろうと思う。


「でも、俺が話したいのはそれじゃないんです。凛恋のことは、これから話すことについて必要だったことで、俺には凛恋を責める気持ちは一ミリもありません」

「じゃあ、本当に話したかったことを話してくれる?」

「はい……凛恋が、お母さんに話したように俺を繋ぎ止めようと男性恐怖症であり続けようとしていたのは、俺が凛恋に対して過保護になっていたからなんです。本当に……本当に申し訳ありません」


 俺は可能性ではなく、確定した事実であるということを強調するために断言する言い方をした。全ての責任は俺であると、お母さんに認めて頭を下げた。


「俺は、凛恋が男性恐怖症だから凛恋を男から守って――凛恋を男から遠ざけました。凛恋に近付く男を全て俺が排除しようとしました。買い物に出る時も凛恋にずっと付き添いました。出来るだけ外で凛恋を一人にしないようにしました」

「私は、凛恋の母親として凡人くんに、感謝してもし切れないくらい感謝している。大学に進学して私達の元を離れて行った凛恋が心配で、凛恋を見守る役割を任せたのは凛恋の親である私達よ。凡人くんが凛恋に対して過保護だったのなら、私達は凡人くんより過保護だった」

「でも……俺が過保護だったせいで、凛恋の心を弱くしてしまいました。本来なら自分の力で立ち向かえることも、俺が全部凛恋に代わってやったせいで、凛恋は強くなれなかった」

「凡人くんが凛恋を守ってくれたことを私達は全く悪いことだなんて思わない。むしろ、凡人くんに全て任せてしまった私達の責任が重いと思っている。向こうで凛恋がストーカーに何度も付きまとわれた時、凡人くんが一人でなんとかしようとしていた。それは、私達が頼りなくて……凡人くんが気軽に相談出来る関係性を作れていなかった私達の責任よ」

「そんな! お母さん達は悪くありません!」


 俺は自分達が悪いと言うお母さんの言葉を否定する。でも、お母さんはゆっくり首を横に振って否定する。


「間違いなく悪いわ。それで、凡人くんは何度も危険な目に遭っているし、精神的に追い詰められたこともあった。自分一人で抱え込ませた私達に責任がある。本当にごめんなさい」

「俺は、そんなつもりじゃ……」


 お母さんに謝ろうとして、逆にお母さんに謝らせてしまった。そんなつもりはなかったのに、頭を下げるお母さんを見て、俺の心には締め付けるような罪悪感が浮かぶ。


「私達にとって、凛恋だけではなく優愛も大切な娘よ。でも、それと同じくらい凡人くんのことも大切なの。でも、私達はずっとしっかりした凡人くんに甘え続けた。凡人くんに甘えていたのは凛恋だけじゃないわ」

「そんなことは……」

「ただいま~」


 お母さんの言葉をどう否定しようか考えている時、玄関の方からその凛恋の明るい声が聞こえる。でも、その明るい声を聞いた瞬間、心の中に気まずさが湧いて出た。


「凡人! どうし――……何か、あったの?」


 ダイニングのドアを開けて俺の顔を見た瞬間、凛恋はパッと明るい表情になる。でも、座って向かい合う俺とお母さんを見て、明るい雰囲気ではないのを察して表情を曇らせた。


「凛恋、隣に座りなさい」

「う、うん……」


 落ち着いたお母さんの声に、凛恋はお母さんの隣にゆっくり腰掛ける。そして、俺を一瞬見てから、お母さんに視線を向けた。


「凛恋、正直に話して。男性恐怖症は以前より改善してるんじゃないの?」

「えっ? 栄次くんとか瀬名くんとか、昔からよく会って話をする人は怖くないよ。でも、街ですれ違う人はまだ怖い……」

「昨日、切山さんのお父さんに後ろから声を掛けられても大丈夫だったんでしょ?」

「えっ!? …………」


 凛恋はお母さんの言葉に驚いて俯き黙り込んでしまう。その凛恋を見ながら、俺は俯く凛恋に話し掛けた。


「今日、普通にお客として純喫茶キリヤマに行ったんだ。その時、萌夏さんのお父さんと話してる時にその話を聞いたんだよ。俺もお母さんも凛恋を責めるつもりはない。凛恋の男性恐怖症が改善してるのなら良いことだ。だから、ただ俺達はどうなのか知りたいだけなんだ」

「……凡人っ、ごめんなさい」


 俺の言葉に、顔を上げて俺を見た凛恋の目には、沢山の涙が浮かんでいた。その揺れる涙はすぐに凛恋の目から溢れて頬を伝って流れ落ちる。


「……男の人の大きな声は怖いし、長い時間二人きりにされたら辛いと思う。だから、完全に怖くないとは言えないけど、少し話をするとか昨日の萌夏のお父さんみたいに肩を軽く叩かれるくらいなら、前みたいに悲鳴を上げるほど怖くはない。身構えはしちゃうけど……」

「そっか。良かった、凛恋が辛い思いをすることは少なくなったんだな」


 凛恋の言葉を聞いて、俺は心からホッとした。

 凛恋はずっと男性に対して怯え続けていた。それは凛恋の心にとって大きな負担だったのは間違いない。でも、今の凛恋に以前までの大きな負担は掛からなくなっている。それに俺はホッとした。


「凛恋、男性恐怖症が改善してきているのに、凡人くんに言わなかったのはなぜ?」


 お母さんは落ち着いた声のまま、優しく凛恋へ問い掛ける。それに、凛恋はまた俯いた。


「凡人を誰にも盗られたくなかったから……。凡人……本当に……本当にっ……本当にごめんなさいっ……」


 涙を流しながら頭を下げた凛恋は、声を詰まらせながらそう絞り出す。そんな凛恋を見て、俺は凛恋に対して申し訳なくなった。

 凛恋は優しくて良い子だ。そんな凛恋に嘘を吐かせたのは俺だ。俺が過保護になって凛恋の心を弱くして、凛恋の心に余裕を持たせなかったから、凛恋は追い詰められて嘘を吐いてしまった。そして、今、凛恋はその罪悪感に苛まれながら必死に俺へ謝っている。でも……それも全て俺のせいだ。

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