【二五九《対等か不等か》】:四

 俺が良いと思う人がマリアさんにとって良いと思う人ではない。それは当たり前だし、その正論に対して俺は反論する言葉は持ち合わせていない。でもやっぱり、それでも納得出来ない。


「凡人は素敵な男性よ? 女性に対してとても紳士的。それに、とても良い目をしてる。その目で見詰められたら、どんな女性も虜になってしまうわ」

「自分ではそうは思いませんけど」

「自信を持って。目の前に凡人の虜になった女性が最低でも一人は居るんだから」


 そう言いながら、マリアさんは俺のスマートフォンの隣に綺麗なレザーカバーに包まれた自分のスマートフォンを置く。


「凡人の連絡先を教えてもらえない?」

「彼女が居るので」

「連絡先を教えるのもダメなの?」

「俺をホテルの部屋に誘うような人と連絡先を交換すると、彼女を心配させてしまうので」


 俺がはっきり答えると、マリアさんは出した自分のスマートフォンを仕舞いながら破顔する。


「順番を間違えてしまったのね。今まで、連絡先を教えなくてもホテルの部屋を教えれば男性と親密になれることばかりだったから」

「世の中にはそうじゃない人も居ると思いますけど?」

「少なくとも、今まで私が会ってきた人は凡人のようにガードの堅い人じゃなかったわ」

「そういうこと、躊躇いなく言えちゃうのは凄いですね」

「何を躊躇う必要があるの? 私は私が良いと思った男性を誘って、その男性は私を良いと思って誘いに乗ってくれた。それだけのことよ?」

「まあ、それはそうなんですけど」


「私はマンイーターなんて言われてるらしいけど、それは心に余裕がない人達が言ってるだけよ。普通、他人のことに他人は無関心であるものでしょう? 私は自分以外の女性が何人の男性と寝ていようと興味がないわ。それなのに、私が誰と寝たかを躍起になって追いかけ回してくる方がおかしいの」

「それはそうですけど、人気のモデルさんとなると、そういう話を商売にしてる人達からも狙われるでしょうし」

「別にパパラッチに写真を撮られて記事に書かれても、それが事実であるなら私は否定はしないわ。それで良い思いをする人が居るのなら、私のお陰で良い思いが出来て良かったと思うし」


 余裕たっぷりで全く周りからの評価を気にしていない。そんなマリアさんはかなり凄い人だと思った。だけど、それくらいの豪胆さがないと、世界で活躍するモデルにはなれないのかもしれない。


「それで? 凡人は私の撮影に付いて来てくれるの?」

「いえ、その気はありません。副社長に言われても断ろうと思っています」

「そう。でも、月ノ輪出版の人達は諦めないと思うわ。私の写真集を出したいと言ってくる出版社は世界中に沢山あるし、私も私の写真集はかなり売れると思う。だから、私みたいな金のなる木は手放したくないんじゃないかしら?」

「それは月ノ輪出版が考えることですから」

「でも、私が言うのはおかしな話だけど、気を付けた方がいいわ」

「気を付けた方が良い?」


 アップルパイを食べながら、コーヒーのカップを持ち上げたマリアさんは俺の顔を見ずに、喫茶店の壁に掛けられた抽象画に視線を向けながらぼそりと呟いた。


「お金は人を変えるわ。それは大抵、悪い方向に」




 喫茶店からマリアさんよりも先に出て、歩いて数分の月ノ輪出版の本社ビルに入る。すると、入館証を通して警備を抜けてすぐ、俺の目の前にスーツ姿の女性が立ち止まった。


「多野凡人様。社長がお呼びです」

「社長?」

「こちらへ」


 突然社長の名前を出され、俺の答えを聞く前に女性はエレベーターに向かって歩き出す。その行動に横暴さは感じたが、いくらなんでも社長の名前を出されて無視出来るほど俺は豪胆じゃない。

 スーツ姿の女性とエレベーターに乗って最上階まで上がると、他の編集部の使っているフロアよりも落ち着いた雰囲気のフロアに出る。


「こちらです」


 通路を歩いてすぐ、突き当たりに木製の重厚そうなドアが見える。そのドアには金色のプレートで『社長室』という分かり易い単語が書かれていた。


「多野凡人様をお連れしました」


 軽くノックして女性が部屋のドアを開けた瞬間、俺は息を飲んだ。

 部屋の中にはスーツを着た何人もの男性が立っているのが見える。雰囲気でその人達が平社員ではないのは分かる。きっと、月ノ輪出版の役員職の人達だろう。そして、その男性達の奥には、木製のデスクの向こうに座る老年男性が見えた。


「入って下さい」


 デスクの向こうに座る老年男性が落ち着いた声で俺に言う。その声にゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れると、入り口に一番近い右手で曽原常務が立っているのが見えた。その曽原常務は、俺の目から見ても強い緊張感を抱いていると分かる強張った顔をしていた。

 俺がゆっくり歩いて、老年男性の座るデスクの前まで行くと、俺を社長室まで連れてきた女性が、俺の目の前にあるデスクの上に二枚の紙とボールペンを一本置いた。


「――ッ!?」


 ふと、目の前に並べられた二枚の紙を見て、俺は息を飲む。

 一枚は契約書で、その契約書には軽く見た感じで、マリアさんの写真集撮影に同行する際の給与や労働時間と言った契約内容が書かれていた。その契約書には俺の名前が書いてある。

 その契約書の隣にあるもう一枚の紙には、一番上に『異動辞令』と書かれている。


『古跡咲希殿。  をもって月ノ輪書管株式会社、保管管理部への異動を命ず』


 辞令に書かれているのはその文だけだ。だけど、その異動辞令には日付の箇所が歯抜けになっていた。


「月ノ輪書官株式会社は、我が社が出版する書籍及びコミックの保管管理会社だ。古跡くんには、そこで保管管理業務に携わってもらおうと思っている」


 その淡々とした老年男性の言葉を聞いて、目の前にある異動辞令の意味を悟った。


「……俺がマリアさんの写真集撮影への同行を断ったからですか?」

「この後、この辞令を交付しようと思う。ただその前に、丁度多野くんに話があったのだ。世界的な人気モデル、マリア・ヘルトロ・フェル様がうちで初写真集を出版しても良いとおっしゃって下さっている。だが、それには撮影地をドイツのローテンブルクにすることと、多野くんの撮影随伴を希望されている」


 目の前に居る老年男性――いや、月ノ輪出版の社長は、言葉にしないが契約書と古跡さんの異動辞令を並べて言っている。

 俺が話を受ければ、辞令は取り下げると。


「すぐに決断出来るようなことではないので、一旦――」

「さっきも言ったが、古跡くんの辞令はこの後に出すことになっている」


 一旦持ち帰ることで逃げ道を作ろうとした。でも、すぐにそれは防がれる。

 俺が今ここでマリアさんの撮影に同行すると言わなければ、古跡さんに明らかに左遷としか思えない辞令が言い渡される。


 古跡さんは、俺がレディーナリー編集部でインターンシップを始めた頃から、時には厳しく時には優しく俺に沢山のことを教えてくれて、俺のことを見守ってくれた。ただのインターン生でしかない俺のことを編集部の一員と認めてくれて、御堂の件の時では何歳も年下の俺へ何度も頭を下げて謝ってくれた。俺がインターンを打ち切られた時は、俺をまた編集部に戻すために尽力してくれた。それで、俺は今また、レディーナリー編集部で働けている。


 俺は古跡さんに沢山の恩がある。その恩人の古跡さんが、俺の一言で左遷させられようとしている。

 雇用主と労働者は不等だ。どうしようもないくらい不等だ。目の前にある契約書と異動辞令を握り潰して、目の前に居るクソジジイの顔面に投げ付けたいほどの怒りを抱くくらい不等だ。


 俺は、両手の拳を痛いくらい握り締めて目の前に居るクソジジイと俺の左右に立っている役員達を見る。

 俺よりも遥かに年上の大人達が、雁首揃えて自分達よりも遥かに年下のアルバイトに対して脅しを掛けている。


「多野くん、分かって頂きたい。それくらい、マリア様の写真集出版は我が社にとって重要な案件なんだ」


 副社長がそう言って俺に軽く頭を下げる。

 世の中、綺麗事だけで生きていける訳がない。それは分かっている。だからきっと、少なくとも副社長はこの中でまともな人間なんだと思う。


 ボールペンを右手に持って、俺は左側に置かれた契約書にサインをする。その契約書へのサインが終わると、素早くスーツの女性が契約書をクリアファイルに挟んで回収した。すると、デスクの向こう側に座った老年男性がデスクの上に置いてあった古跡さんの辞令を手に取って両手でくしゃくしゃに握り潰しゴミ箱に放り投げた。


「一度は辞令を承認したが、古跡くんはレディーナリーの編集長としてよくやってくれている。それに、古跡くんを中心に編集部が一致団結している面もあるようだ。だから、まだ古跡くんの異動は早いだろう」

「社長のおっしゃる通りです」


 俺のすぐ左手に居た壮年男性が社長の言葉に笑顔で同意する。その言葉を聞いてから、俺は社長に頭を下げた。


「失礼します」

「ああ、もう用は済んだ。下がって良いよ」


 その言葉を投げ付けられ、俺は両手の拳を握り締めて社長室から出て、すぐにエレベーターに乗り込んだ。

 レディーナリー編集部のある階まで下りる間、凛恋に対する申し訳なさで心の中が一杯だった。


 凛恋にどう言おう。きっと脅されたなんて言ったら凛恋が悲しむ。でも、凛恋を納得させるには事実を言うしかない。それに……編集部のみんなにはどう説明すればいい。

 気が変わって行こうと思ったんです。そんな嘘、簡単に見破られるに決まっている。嘘が見破られると分かってしまうくらい、俺とレディーナリー編集部の関係は深まっている。だから、下手な嘘は吐けない。でも、事実を事実として話すのも躊躇われた。


 一番は古跡さんだ。古跡さんに話をしたら、絶対に責任を感じるに決まっている。絶対に自分のせいだと自分を責めるに決まっている。

 エレベーターが停まってドアが開いても、俺はしばらくエレベーターから下りられなかった。でも、ドアが閉まり出してすぐ、ボタンを押してドアを開きながらエレベーターから下りた。


 レディーナリー編集部に続く廊下を歩く間で、俺は軽く両手で頬を挟んで強張った顔をほぐす。そして、鏡はないが笑顔を練習した。


「おはようございます」


 誰の目にもいつも通りに映るように、俺は大きくもなく自然な声で挨拶をする。すると、俺の顔を見た途端、古跡さんが駆け寄って来て両肩に手を置いた。


「ついさっき社長から内線があったわ。多野を説得してくれてありがとうとおっしゃってた」

「はい。色々考えた結果、やってみようかと――」

「嘘吐かないで正直に話しなさいっ!」


 背中にバチッと電撃が走るかのような激しい古跡さんの声に思わず体を跳ね上げる。すると、古跡さんは焦った表情をして俺の両肩から手を離した。


「ごめんなさい」

「いえ、古跡さんが謝ることは何もありません」


 古跡さんに笑顔で言うと、古跡さんは俺の腕を掴んで会議室まで連れて行く。すると、古跡さんはスーツのポケットから折り畳まれた紙を取り出すと、会議室のテーブルの上に広げて置く。それは、俺が社長室で見せられた古跡さんの辞令と同じものだった。


「……答えなさい。社長にこれを見せられたのね」

「……はい」

「…………どうして無視しなか――」

「出来る訳ないじゃないですか」


 もう隠す必要が、隠す意味がなくなった俺は、正直に言葉を溢した。


「目の前で古跡さんが左遷させられるって言われてるんですよ。俺の冬休み二週間と古跡さんがレディーナリー編集部から居なくなるのなんて……そんなの天秤に掛けられる訳ないじゃないですか」

「多野……」

「俺にとって古跡さんは恩人なんです。それに、俺にとってレディーナリー編集部は大切な場所なんです。そのレディーナリー編集部には古跡さんが居ないとダメなんです。俺が大切だって思えるレディーナリー編集部には、今居る誰が欠けてもダメなんです。だから、そんなことになるくらいだったら、嫌でも受けますよ」

「多野……本当にごめんなさい。私は……申し訳ないけど、情けないけど、多野に……感謝してる」


 俯いて両手の拳を握った古跡さんの顔から、会議室のカーペットの上に涙が落ちた。


「レディーナリーは私にとっても大切な雑誌よ。それにレディーナリー編集部は私にとっても大切な居場所なの。……昨日、多野を説得出来なかったら左遷だと、この辞令を出された時に頭が真っ白になった。保管管理をしている人達には失礼なことだけど、私の仕事じゃないと思った……」

「俺も、古跡さんの居場所はここだと思いますよ」

「多野……ありがとう」


 深々と頭を下げる古跡さんを見て、古跡さんがどうして涙を流さなければならないのかと思った。

 元はと言えば、マリアさんが俺の同行を条件に出したことが発端だ。でも、マリアさんは条件に合わないなら仕事を受けないと言っただけで、その条件を満たすためになりふり構わなかったのは、月ノ輪出版の役員達だ。


「多野、今日八戸さんに話をする時は私も同席させて。私からきちんと八戸さんに説明と謝罪をさせてもらいたい」

「分かりました」


 ハンカチで涙を拭いた古跡さんが小さく深呼吸をしてキリッとした表情を作る。そして、ゆっくりと会議室から出て行った。

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