【二五九《対等か不等か》】:三

「すみません。クリスマスとお正月は日本で過ごしたいんです」

「そう。それは残念。だったら、私も写真集の撮影は出来ませんね」


 にこやかな表情のまま副社長にそう言って、マリアさんは俺の右手を両手で握る。その時、俺の手の中に丸められた紙を握らせた。


「じゃあ、また」


 丁寧な握手を終えて、マリアさんは俺に背中を向けて編集部の外に出て行く。そのマリアさんの方を副社長は一度向いてから、古跡さんに視線を向ける。


「もう少し猶予がある。君からも彼を説得してくれ」


 それだけ言って、早歩きでマリアさんを追い掛けていった副社長を見送ると、副社長とマリアさんが出て行ってから無言で曽原常務も編集部を出て行った。


「多野、迷惑を掛けたわね」

「古跡さん、大丈夫なんですか? 流石に、副社長からの話だと古跡さんもどうしようもないんじゃ」

「一応、副社長にはこちらから話してみるつもりよ」


 俺はその古跡さんの言葉の歯切れが悪かったことと、古跡さんが「大丈夫」と断言しなかったことに雇用主と労働者の不等さを感じた。


「さあ、締め切りもあるんだからシャキシャキ仕事しなさい」


 古跡さんが編集部によく通る声でそう言うと、編集さん達はそれぞれの仕事に戻って行く。

 レディーナリー編集部の雰囲気がいつも通りの雰囲気に戻ったのを見て、俺は自分の席に座る。そして、隣で鼻歌を歌っている帆仮さんに悟られないようにマリアさんに握らされた紙を開いた。

 その紙には、シティーホテルの名前と部屋の番号が書かれていた。


「多野くん、ちょっと良い?」

「はい。何ですか?」


 紙を確認していた俺に、隣から帆仮さんが声を掛ける。その帆仮さんに返事をしながら、俺は紙を手の中で握り潰して足下にあったゴミ箱に放り投げた。




「はぁっ!? あり得ないしッ!」


 アルバイトから帰って、夕飯も食べて風呂も入って落ち着いたと思った頃合いで、俺は今日編集部であったことをざっくり凛恋に話した。ただ、ざっくり話したと言っても、曽原常務が横暴を言ってきて、それを古跡さんは全力で止めてくれたことも話した。だが、俺の目の前に座っている凛恋は見ての通り、ビックリするくらい可愛いふくれっ面をしている。これだけ可愛いふくれっ面が出来るのは、地球上で凛恋しか居ない。


「ふざけんな! なんで私の凡人がクリスマスもお正月もドイツに行かないといけないのよ!」

「断ったって言ってるだろ。それに、古跡さんも改めて断ってくれるって言ってるし」

「全然安心出来ない! どうせ、常務とか副社長の権力を使ってくるに決まってるじゃん! それにしてもなんで凡人なのよ。凡人はアルバイトで社員じゃないじゃん!」

「なんか、モデルの人が撮影場所をドイツのローテンブルクにすることと、撮影に俺を同行させることを条件に入れてるみたいでさ。その条件が揃わないと撮影をしないって言ってるらしい」

「なんでドイツの――バームクーヘンだっけ?」

「ローテンブルクだ。伸ばし棒しか合ってないぞ……」

「そんなドイツの地名をスラスラ言える凡人の方がおかしいのよ! チョー格好良い!」


 怒りのせいか、凛恋は俺を非難しながら褒めるという意味の分からない状況になっている。


「なんでドイツに凡人が一緒に行くことが条件に入ってるのよ」

「それは俺もよく分かんないんだよ。詳しい話は聞いてないし」


 結局ローテンブルクという単語を言うのを諦めた凛恋を宥めていると、凛恋はノートパソコンを起動しながら俺に話し掛ける。


「凡人、そのモデルの人の名前分かる?」

「えっと……マリア・ヘルトロ・フェルさん」

「マリア・ヘルトロ・フェルってマンイーターで有名な男好きのモデルじゃん!」

「凛恋はマリアさんのこと知ってたのか」

「知ってるに決まってるじゃん! ファッションモデルとしてチョー人気だけど、海外のモデルとか俳優とエッチしまくってるって噂ばかり立ってるし!」

「そうなのか。まあ、確かに綺麗な人だったから、男にはモテると思うけど」

「凡人はマンイーターを見てもなんとも思わないの?」


 俺が首を傾げるのを見て、凛恋が首を傾げる。


「いや、モデルをやってるだけあって綺麗な人だとは思った。それで男にモテるんだろうとも思った。でも、俺はマリアさんに女性として魅力を感じなかったんだよ。なぜか」


 凛恋に言いながら、自分でも不確かな自分の感情に疑問を抱く。

 大前提として俺が好きなのは凛恋だ。凛恋以外の人と付き合うなんて絶対にあり得ない。だけど、そんな俺でも可愛い人や綺麗な人を見れば女性としての魅力を感じる。でも、俺はマリアさんを見た時に綺麗とは思ったが、女性としての魅力という意味では感じなかった。


「私には感じる?」

「凛恋は女性としての魅力に溢れてるよ。溢れすぎて他の男が凛恋の魅力にあてられないか気が気じゃない」

「も~、私は凡人だけの私なんだから安心してよ~」


 さっきまでふくれっ面だった凛恋が、ニヤニヤ笑って俺の頬に自分の頬をすりすりと擦り付ける。


「凡人、だぁーい好きっ!」

「ありがとう。俺も凛恋のことを世界で一番愛してる」


 凛恋を抱きしめると、凛恋も俺を抱きしめ返してくれる。


「お布団の中で話そっか」

「ああ」


 抱き合ったまま立ち上がり、寝室に入って抱き合ったまま布団の中へ入る。そして、俺が凛恋の腰を抱き寄せると凛恋がクスッと笑った。


「布団に入ると凡人って私を触る手がチョーやらしくなるよね」

「そんなことないぞ」

「そんなことあるし。腰を抱き寄せながらさり気なくお尻と太腿を触るし、シャツの上から私のおっぱいチョー見てるし」

「良いだろ、見ても」

「もちろん、凡人はいくらでも見て良いに決まってるわよ。でも、それが嬉しいなって思って」


 ニコッと笑った凛恋は、俺の腰に手を回してシャツの裾から俺の腰に直接触れる。


「高校の頃から何度も触ってるのに、大学生になったら毎日一緒に寝てエッチしてるのに、それでも私って凡人に触りたくなるし触ってほしいと思っちゃう」

「俺も、凛恋に触りたいな」


 凛恋と同じようにシャツの裾から凛恋のスベスベとした腰に触れると、僅かに凛恋がピクッと体を跳ねさせる。

 好きな人に触れてもらう嬉しさと好きな人に触れられる喜びは何とも言えない幸福で心を満たしてくれる。


「寝ちゃダメだから」


 幸福感に目を閉じて浸っていた俺に、凛恋はキスをして頬に触れながら微笑む。


「寝てないって。幸せだなって思ってただけだ」

「じゃあ、私が今からもっと幸せにしてあげる」


 布団の中で俺の上に覆い被さった凛恋は、上から俺の額に自分の額を付け、凛恋の息が唇に触れる距離で囁く。


「まあ、私も凡人に幸せにしてもらうけど」


 凛恋の細く綺麗な指が俺の頬を撫でて人さし指の指先で俺の鼻先を突く。


「凡人、ごめんね」

「凛恋?」

「もっと早く、ロニー王子にはっきり言うべきだった」

「凛恋は何も悪くないって前にも言っただろ?」

「ううん。もっと早く、私が勇気を出してはっきり言えてれば、凡人を傷付けなかった」


 上から抱き締める凛恋の腰に左手を回し、右手はそっと凛恋の頭を撫でる。


「でも……これでやっと安心出来る。あんだけはっきり言えばロニー王子も私が凡人以外を好きにならないって分かるでしょ」

「俺は凛恋を信じてるから大丈夫だ」

「後は……理緒ね」


 理緒さんの名前を出した瞬間、凛恋は唇を尖らせて不満げに言ってから、そのまま尖らせた唇で俺の唇を塞ぐ。少し触れさせてからすぐに唇を離そうとした凛恋の頭を、俺は右手で押さえてキスを続けさせる。


「俺が好きなのは凛恋だけだ」

「うん。でも、理緒が私から凡人を奪おうとしてるのに黙って見てる訳にはいかない。絶対に凡人のことを守り切る」


 俺を抱き締める凛恋の手に力が籠もり、その手から凛恋の心地の良い必死さが伝わる。


「しかも、訳分かんないモデルまで現れて。ほんと、凡人ってモテすぎだし」

「いや、マリアさんは別に俺のことなんてなんとも思ってないと思うけど」

「なんとも思ってない凡人のことを、写真集の撮影に連れて行こうとする訳ないでしょ」

「まあ、そりゃそうかもしれないだけど……」


 凛恋の言う通り、客観的に見れば仕事に全く関係ない異性を指名して同行させることには、それなりの下心が垣間見えると思う。でも、やっぱり俺はなんでマリアさんが俺を指名するのかが全く分からない。それに、凛恋には言えなかったが、編集部で握手した時に渡された紙のことも不思議だった。


 俺がマリアさんから渡された紙に書かれていたシティーホテルの名前と部屋番号は、きっとマリアさんが泊まっているホテルの部屋だったのだろう。そこを他の人に悟られないように俺へ知らせてきたということは、ホテルの部屋に誘われたということなんだと思う。


 マリアさんは人気のモデルで、家基さんや凛恋が言っていたマンイーターという異名まであるほど男好きらしい。だから、マリアさんが気になった男性をホテルの部屋に誘うというのは日常的にあるのかもしれない。でも、そうだとしてもやっぱり、なんで俺なんだろうという疑問が浮かぶ。


 俺が初めてマリアさんと会ったのは、マリアさんが別雑誌のインタビュー記事の写真撮影に俺を名指しして同行させた時だった。でも、俺はそれ以前にマリアさんとは面識がない。だから、俺とマリアさんが出会う切っ掛けになった取っ掛かりからおかしいのだ。


 マリアさんはいつ俺のことを知ったのか。その一つの疑問だけで、マリアさんの行動が全て不自然に思えてくる。もしかしたら、俺が気付いていなかっただけで、月ノ輪出版の本社内で顔を合わせていたのかも知れない。そうだとしたら、マリアさんが俺を指名する切っ掛けは俺の知らないところであったのだろう。だけど、俺の知らないところで起きたかもしれない仮定の話では納得出来ない。そんな、心を淀ませるモヤモヤとした疑問があった。




 いつも、大学終わりからアルバイトまで時間がある時は、大学の食堂で時間を潰すことが多い。でも、今日は食堂内で内装工事が入るからと、全ての人間の立ち入りが禁止された。だから、行き場を失った俺は、一人で月ノ輪出版近くの喫茶店に立ち寄った。月ノ輪出版の真向かいにある優愛ちゃんがアルバイトをしているチェーンの喫茶店もあるが、そっちはいつ行っても人で混み合っているから落ち着いて時間は潰せない。


 静かな店内で俺はとりあえず大学から出されたレポートを書き上げ、スマートフォンで時間を確認する。だが、アルバイトの時間までまだまだ時間があった。ただ、一度帰るには時間が足りない。


「隣、良いかしら」

「えっ?」


 テーブルに出した物を鞄の中に仕舞っていると、隣から声が聞こえてソファーの隣に誰かが腰掛けた。その隣を見ると、サングラスを外すマリアさんが座っていた。


「マリアさん、どうしてここに?」

「雰囲気の良い喫茶店を見付けて入ったの。でも、まさか凡人が居るとは思わなかったわ」


 クスッと笑ったマリアさんは、店員さんにオリジナルブレンドとアップルパイを注文すると、背もたれに背中を付けて小さく息を吐く。


「日本にはいつまでいらっしゃるんですか?」

「しばらくこっちで仕事があるから。まあ、一二月の中頃はドイツに行くかもしれないけれど?」

「月ノ輪出版と話が付いたんですか?」

「ええ。副社長さんに必ず凡人を同行させるからと言われたわ」

「すみません。俺は断ったんですけど」

「良いじゃない。タダでドイツに二週間滞在出来るのよ?」

「でも、クリスマスとお正月は彼女や家族と過ごしたいので」

「妬けちゃうわ。凡人に時間を使ってもらえる凡人の彼女に」


 運ばれてきたコーヒーに口を付けたマリアさんは、ナイフとフォークでアップルパイを切り分けながら俺に話し掛けた。


「男性にすっぽかされたのは凡人が初めてよ。ずっと部屋で待っていたのに」

「俺には彼女が居ますから。誘うなら彼女の居ない人にして下さい」

「ダメよ、他の人じゃ。私は凡人が良いの」


 アップルパイを一口食べたマリアさんは、俺の目を見ながら唇に突いたアップルペーストを舌で舐め取る。


「前から聞きたいことがあったんですけど、初めて俺を雑誌の撮影に呼んだ時、俺を呼んだ理由は何だったんですか?」

「打ち合わせで月ノ輪出版に行った時に凡人を見たの。それで、凡人を現場に連れて来てって言ったわ」


 マリアさんの言ったことは、俺が想像したこととほぼ同じことだった。その理由はありきたりで不自然さはない。でも、マリアさんから答えを聞いても納得出来ない。


「俺よりも良い男は沢山居ると思いますけど」

「凡人が良い男だと思う人と、私が良い男だと思う人は別よ。私は、凡人を一目見て凡人のことを知りたくなった」

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