【二五七《銀の跳弾》】:二

 ドアの向こうから聞こえる理緒さんの叫びに、ドアノブに伸ばした手を下ろした。

 友達が自分のせいで泣き叫ぶのを聞くのは辛い。そして、その辛さで出て行く勇気を挫かれた。

 ドアの前で立ち尽くしていると、ドアが開いて目を赤くした理緒さんの顔が見えた。


「服、洗って乾かすから」

「いや、そこまでは」

「良いから」


 洗濯機にクリームで汚れた服を入れて洗濯機を回した理緒さんは、振り返って俺を見た。


「やっぱり、凡人くんは仮装なんてしない方が格好良い。そのままの凡人くんが私は一番好き」

「理緒さん……ごめん」

「うん、分かってる。これくらいで心変わりしないよ、凡人くんは」


 理緒さんから離れて脱衣室を出ると、テーブルの前でへたり込んでいる凛恋の後ろ姿が見えた。


「凛恋」

「凡人……」


 シスター姿のままで涙を流す凛恋の前に座り、凛恋の涙を拭ってゆっくり顔を近付ける。


「理緒さん、洗濯してくれてる服は明日取りに来る」

「うん。良いよ。でも、凛恋とはもう会いたくないから凡人くん一人で来て」

「分かった」


 理緒さんは凛恋に視線さえも向けなかった。それに辛さと寂しさを感じながら、凛恋の手を引っ張って理緒さんの部屋を出た。




 家に帰り着いてから、凛恋と一緒にお風呂に入って凛恋の髪を乾かして布団へ一緒に入る。

 凛恋は家に帰って来てから一言も発さない。

 布団の中で横になりながら凛恋の頭を撫でると、凛恋の目から涙が溢れた。


「怖い……」

「凛恋……」

「交換してなかったら……私が凡人にパイを投げさせられてた」


 凛恋の体を抱きしめながら、俺はゆっくりと目を閉じる。

 世の中には、パイ投げを楽しめる人は居るのだろう。少なくとも、パーティー会場で笑っていたやつらはそういうやつらだろう。でも、俺や凛恋は違う。それに理緒さんも。

 ガタガタと震える凛恋の体を擦ると、凛恋は俺の体に手を回そうとしない。でも、俺が凛恋の手を取って俺の腰に回させた。


 凛恋の気持ちは分かる。


 凛恋がグラスマーカーを交換しなかった場合の、俺にロニーと凛恋がパイを投げるという構図は、人の残酷さと醜悪さを感じることだった。

 この世の中でパイ投げを楽しめる人が居たとしても、公衆の面前で恋人にパイをぶつけて楽しめる人はこの世に何人居るだろう。少なくとも、俺はそんな人居ないと思う。


 恋人を辱めることに喜びを感じる人は居ない。もちろん、凛恋だってそうだ。でも、もし凛恋がグラスマーカーを交換するという、ロニー側にとってのイレギュラーがなかったら、凛恋はやりたくないことを強いられた。


 行為の意味として違うが、俺は江戸幕府が行っていた絵踏(えふみ)を思い出した。


 元は、徳川家康と徳川秀忠が二度キリスト教の信仰と布教を禁止した時に、隠れてキリスト教を信仰する人間、隠れキリシタンを見付けるために行われたことだ。

 キリスト教を禁止したことは、外交的な問題や他勢力との争いに関係していて、個人の意思とは言えない。でも、人の思想を……意思を踏みにじって強制しようとしたのは間違いない。


 ロニーは凛恋に俺へパイを投げさせようとした。それは、きっとロニー自身が俺のことを気に入らなくて、ロニーが思いを寄せている凛恋が俺にパイを投げるところを見たかっただけなのだろう。それで俺が凛恋を嫌う訳がないし、凛恋もそれで俺を笑う訳がない。でも、実際の結末がロニーの思い描いていたはずの結末にならなかったとしても、ロニーは凛恋の純粋な想いをエゴで踏みにじった。


 ただでも怖い男から、恋人を傷付けろと強制されたかもしれない。それを、凛恋が恐ろしく感じない訳がない。誰よりも、この世に存在するどんな女性よりも強く冷たい恐怖を感じたに決まっている。そして、きっと……凛恋は理緒さんに言われた言葉に深く傷付いた。


 もし、俺が凛恋の立場なら、目の前で自分の恋人が辱められているのを止められなかったら、酷く自分を責める。それこそ、凛恋に自分は相応しくないと思ってしまう。でも、今の立場の俺は凛恋にそんなことを思ってほしくない。


 あの時、司会の男性がパイ投げの話を持ち出した時点で、俺はあのステージ上から下りて退場することが出来た。俺には、それでパーティーをしらけさせて台無しにすることに全く負い目は感じなかったし、たとえそうなったとしても俺には全くダメージがない。むしろ、パーティーを台無しにされた側のロニーを良い気味だと思っただろう。でも、俺はそうしなかった。


 それはなぜだろうか。俺は、あの時、ステージから下りなかった自分を思い出して改めて考えてみる。そして、自分の腹黒さ、醜悪さを感じた。


 俺は分かっていたのだ。あの会場で、本当に俺のことを好いてくれている凛恋が、パイをぶつけられた俺を見て楽しむ訳がないと。むしろ、クリーム塗れになった俺を見て悲しみ、俺をそんな状況に追いやったロニーを心底嫌うだろうと。


 ロニーにとって、今日のハロウィンパーティーはただ盛り上がりたいだけのハロウィンパーティーではなかった。絶対に、凛恋の誕生日にプレゼントの件で落ちた自分のイメージを回復させるためのパーティーだったのだ。それで、俺を利用して凛恋をパーティーに引っ張り出した。


 俺は、凛恋が俺と合流するまでの間になにがあったかは分からない。ロニーと何かを話したかもしれないし、凛恋はずっと大学の友達と一緒に居たかも知れない。そして、ロニーはグラスマーカーを使った抽選会を利用して、凛恋をホテルに泊まらせようとしたし、その凛恋に俺を公衆の面前で辱めさせようとした。


 高い部屋に泊まらせて高い食事を食べさせて気持ちが動くほど、凛恋は軽い人間な訳がない。それに、パイをぶつけさせるという行為で人の恋愛感情は劇的に変わる訳がない。

 ロニーという人間が、どういう人生を歩んできたか分からない。でも、根本的に人の心の扱いが俺よりも下手くそだ。


 きっと、今まで持っている財力や権力でどうにかなってきた場面があったのだろう。持っている財力や権力で人の意思を強制出来た経験があったのだろう。だから、その成功例に則って今回も凛恋の心を動かそうとした。いや、凛恋の心を自分のものにしようとした。


「仮にグラスマーカーを交換してなくても、凛恋は投げなかった」


 凛恋の乾いたばかりの髪に指を絡めながら囁くと、凛恋はわっと涙を溢れさせて俺の胸に顔を埋めた。

 俺は凛恋の涙を胸に感じながら、顔を出した独占欲に従って凛恋を強く引き寄せた。


 俺の目の前で、ロニーは堂々と凛恋をホテルの部屋に連れ込もうとした。実際に誘ったわけではなく、景品として宿泊権を与えることだったが、方法は何であれ同じだ。

 自分で抱く分には純粋だと言い切れる想いも、他人が抱くと気持ち悪くて仕方ない。そんな思いを俺の凛恋に向けた罪を償わせたくなる。


 布団の中で凛恋が穿いている部屋着のズボンに手を掛けると、凛恋がじっと俺を見ながら腰を浮かせる。

 互いに言葉を必要とせずに自然とキスを交わして互いを引き寄せる。今の俺と凛恋には何も言葉は必要なかったから。




 次の日、俺は理緒さんに洗濯させてしまった服を取りに理緒さんの家へ向かった。


『はい。ちょっと待ってて』


 理緒さんの部屋の前に立ってインターホンを鳴らすと、スピーカーから理緒さんの声が聞こえて、言われた通りドアの前で理緒さんが出て来るのを待つ。


「上がって」

「いや、服を取りに来ただけだから」

「ダメ。凡人くんが来るからクッキー焼いたの。それにゆっくり話したいこともあるし」

「分かった」


 部屋の中に入って案内されるままテーブルの前に座ると、理緒さんがテーブルの中央にクッキーの盛られた皿を置き、俺の目の前にホットコーヒーの入ったマグカップを置いてくれた。


「まずは、はい。洗濯した服」

「アイロン掛けまでしてもらってごめん」

「ううん。気にしないで」


 にっこり微笑んだ理緒さんから、服の入った紙袋を受け取ると、理緒さんが手でクッキーを示した。


「食べて」

「ありがとう。いただきます」

「アイスボックスクッキーって形を整えるの面倒じゃなかった?」

「ううん。凡人くんのために作ったから楽しくて全然面倒だと思わなかったよ?」


 クッキーを頬張ると理緒さんがクスッと笑ってそんなことを言う。


「飲み会、いつにしよっか?」

「理緒さんが暇な時で良いよ」

「凡人くんのアルバイトが休みの日にしよう。夜遅くまで飲みたいから、出来れば次の日は大学も休みの日が良いな」

「分かった。じゃあ次の勤務が分かったら条件に合う日を連絡する」

「ありがとう。それと、場所はうちにしない?」

「ここで?」

「うん。二人っきりで」

「それは――」

「約束したでしょ? 一緒に飲み会しようって」

「てっきりみんなで飲むのかと思ってたから」


 二人きりで、しかも理緒さんの家で飲むのは流石にダメだ。そう思って断ると、理緒さんが唇を尖らせた。


「せっかく楽しみにしてたのにな。二人で宅飲み」

「みんなでなら……」

「飾磨くんとは飲みたくないな。彼、結構面倒くさいし騒がしいから。それと、空条さんもちょっと。突っ掛かって来なければ良いけど、私のことが気に食わないみたいだし。宝田さんはきっと空条さんが来ないと参加しないだろうし、鷹島さんも結構性格がキツイから苦手。あと、本蔵さんもダメ。あの人、高校の頃から私のこと嫌ってるし」


 俺が誘えるような人を片っ端から拒否する理緒さんは、小首を傾げて微笑んだ。


「良いよ、飲み会しなくても。あの時、口紅を付けたまま歩き回ることなんて出来なかったし、そもそも凡人くんに条件付ける気なんてなかったから」


 コーヒーに口を付けた理緒さんは、クッキーを一つ取って食べた後、真っ直ぐ俺を見てさっきまでとは違う真剣な雰囲気になった。


「きっと、昨日のあの抽選会、ロニー王子は何も知らなかったと思うよ」

「えっ?」

「きっと、ラッキー賞のグラスマーカー、最初は凛恋のものだったんだと思う。それが他の人に渡った経緯は分からないけど、抽選会の直前までロニー王子はステージと反対側で凛恋のこと探してたから」

「どうしてそれを?」

「凡人くんが先に女子トイレから出た後、私もパーティー会場に戻ったんだけど、入り口近くに居た空条さんに凛恋のことを聞いてた。凛恋はシスター服を着てるって成華女子の学生に聞いたって。それで、空条さんが何か答える前にロニー王子はボディーガードにステージで抽選会があって、その抽選機を回す役割があるって言われて、残念そうな顔をしてステージの方に歩いて行ってた」

「じゃあ――」

「景品も全部部下任せだったんじゃない? きっと、ロニー王子にとっては凛恋に会って話が出来ればそれで良いと思ってるだろうし。それと、凡人くんには話してなかったけど、ハロウィンパーティーの数日前に、私、フォリア王室の人に大学の応接室に呼ばれたの」

「フォリア王室の人に?」


 フォリア王室の人。その理緒さんの言葉で、俺は自分を呼び出したフォリア王室の男性の顔が思い浮かぶ。もし、その男性と同じ人が理緒さんを呼び出していたとしたら、理緒さんがこれから話す話が良くない話になるはずだ。


「内容は単純。凛恋から凡人くんを奪うのに協力しますって言われた。だから、私は私の力で凡人くんを奪うから、協力なんて要りませんって言ったの」

「フォリア王室の人が……」


 フォリア王室がロニーの恋を叶えるために俺と凛恋を別れさせようとしているのは知っている。でも、それで理緒さんにまで話を持ち掛けているとは思わなかった。


「それで、ちょっと気になって改めてフォリア王国について調べてみたの。まあ、調べたと言ってもインターネットで調べた程度の知識だけど」


 そう言った理緒さんは、体を後に向けてラックに置かれたクリアファイルからコピー用紙を二枚取り出した。そのコピー用紙には、英字新聞の記事が印刷されていた。


「フォリア王国王子の新恋人発覚」


 俺の英語力で記事の見出しを翻訳すると、理緒さんがそのコピー用紙に視線を落としながら記事について説明する。


「それは、ロニー王子が産まれる前、ロニー王子の父親と母親の交際報道の記事。詳しい内容はあまり説明する必要はないけど、当時、ロニー王子の父親の現国王は別の女性と付き合ってたらしいの。でも、ロニー王子の父親は付き合っていた女性と別れて今の王妃と付き合い始めたって書いてある」


 記事の写真は白黒だが、写っている白人の男女の顔ははっきり分かる。男性の方は酷く容姿が悪い訳ではないが、王子らしい人目を引く整った容姿とは言えない。それに対して、女性の方はかなりの美人だった。

 俺はその若かりし頃のロニーの父親と母親の写真が載った記事から、もう一枚のコピー用紙に印刷された記事に視線を向け、記事の見出しを翻訳する。


「フォリア王国王子のフィアンセは金銭目当ての略奪愛常習犯?」


 綺麗なドレスに身を包み、ロニーの父親と腕を組んで歩くロニーの母親の写真が載った記事の見出しを翻訳し、自分で発した言葉に眉をひそめた。


「それもロニー王子が産まれる前の記事。ロニー王子の父親と母親の婚約が発表された直後に出た記事らしい」

「内容は?」

「良くありがちな暴露系のスキャンダル。ロニー王子の母親をよく知る人物って書かれている人が、ロニー王子の母親が高校時代から大学時代までの恋愛遍歴を語ってるんだけど、ロニー王子の母親は今までお金持ちの男性としか付き合わずに、相手に彼女が居たとしても彼女から男性を奪っていたって書かれてる」


 ざっくりとした説明を受けて、俺は写真の中で微笑む綺麗な女性に視線を向ける。見た目では上品さを感じる女性で、理緒さんの話の通りの女性には見えない。ただ、人は良くも悪くも見掛けによらないものだ。


「その記事が本当かどうかも分からない。実際にそういう暴露系のスキャンダルって、嫉妬からくる怨恨で出ることが多いって言うし。でも、もしその記事が本当だったら、ロニー王子本人はどうか分からないけど、ロニー王子の母親は略奪愛に抵抗がない人なんじゃないかな? 私と同じで」


 最後の言葉を口にした理緒さんは、クスッと笑って首を傾げる。その理緒さんの表情には、既に人をからかう笑みを浮かべていた。でも、部屋に立ちこめる雰囲気からは、真剣さが消えなかった。

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