【二二三《境界線を越えた者達》】:二

「そんなことはどうでも良いの。多野くん、ボディーガードを付ける気はない?」

「ごめん、空条さん。それは遠慮する」


 空条さんの提案に首を横に振る。それに、空条さんは小さく息を吐いてまた視線を落とした。


「多野くんはそう言うとは思ってた」

「そこまで迷惑は掛けられないっていう理由もあるし、凛恋の周りに出来るだけ男を近付けたくないんだ」

「八戸さんも付きまとわれているんでしょ? 大学生と多野くんがインターンをしてた月ノ輪出版の編集者、随分前に私も会った人」

「ああ。元々凛恋は男が苦手だけど、今はいつも以上に過敏になってる。確かに、俺はボディーガードみたいに変なやつが出てきても取り押さえられるほどの力はない。でも、それと引き替えに凛恋が怖がるのが嫌なんだ。それに、警察も凛恋に二人も付きまとっている男が居るのは放置する気はない。俺達の住んでるアパート周辺の警戒は強めてくれてる」


「そう……。でも、多野くんと八戸さんの部屋に侵入した講師は捕まったとしても、その二人が何もしないと決まったわけではないと思うの。ちゃんと八戸さんが怖がらない距離で警護をさせれば、多野くんだけじゃなくて八戸さんの身を守れる」

「空条さんが俺達のことを心配してくれているのは分かる。でも、やっぱりダメなんだ。俺は、そういう時に支援してもらうために空条さんの友達で居るわけじゃない」

「私は、多野くんが私の家を当てにして友達で居てくれてるなんて思ってないよ」

「それに、空条さんは実家の力を借りるのは好きじゃないだろ? だから、俺達が初めて会った時に何も言わなかった。お金持ちのお嬢様って見られたくないから、俺達とはそういう陰を見せずに気軽に接してくれたんだろ? だから、空条さんに空条さんがやりたくないことをさせたくない」

「多野くん……」


 空条さんはずっと、自分がお金持ちだということを見せ付けるようなことをしなかった。特に、俺達が出会った当初は極端に自分の家について隠していた。空条さんが俺に家の話をするようになったのは、互いに仲の良い友人になれた頃だった。だから、空条さんは実家の力を出来るだけ借りたくない、実家が金持ちという目で周りから見られたくないと思っていると、俺は思った。


 空条さんは成人していても、まだ俺と同じ大学生だ。だから、大学生活で必要なお金は空条さんの実家から援助してもらっている。でも、それは空条さんが生きるために最低限必要なものだ。しかし、俺のためにしてくれることは、空条さんが生きるために最低限必要なものから逸脱してしまっている。


「友達がやりたくないと思ってることを、友達の俺がやらせたくないんだ」


 俺がそう自分の思いを伝えると、空条さんは優しく微笑んで小さくしっかり頷いた。


「うん、ありがとう。ごめんなさい、さっきの話はなかったことにして。でも……私は、友達のためならやりたくないことも出来る。それくらい、多野くんのことを大切だと思ってるのは知っててほしい」

「ありがとう、空条さん。コーヒー、ご馳走になります」

「どうぞ」


 俺は目の前にあるコーヒーカップを手にとって、ゆっくり温かなコーヒーに口を付ける。そのコーヒーには、深いコクと優しい香りがあった。


「多野くん、ストーカーをしてる人に心当たりはないの?」

「今のところはないよ。警察が色々調べてくれてるみたいだけど、手掛かりが掴めてないみたいだ。手紙もまるでストーカーが複数人居るみたいに、消印の違う郵便局複数から同じ時間帯に発送されてるらしい。ということは、広い地域のポストに投函してることになる。いくらなんでも、そんなことは一人じゃ出来ない。でも、手紙の字は全く同じだった」

「だとしたら、多野くんを突き落とした人が所属してた集団ストーカーで協力してやってたんじゃない?」

「それは、今警察が捕まえた人達に事情聴取をしてるだろうから、それで話されるまで分からない」


 今回、インターネットの匿名掲示板に書き込んでいた人達が、俺に対して嫌がらせを行ったことは、空条さんが言った『集団ストーカー』と呼ばれるものであると言っても良い。いや、集団ストーカーだった。

 集団ストーカーは、何らかの理由で特定の個人に対して付きまといや嫌がらせを行う不特定多数の集団組織のことを言う。だから、俺が元文部科学大臣の息子だという、根も葉もない噂を信じて俺に嫌がらせをしようとした匿名掲示板の利用者達は、集団ストーカーと言える。


「嫌がらせで、俺にストーカーが付きまとっていると思わせたかった可能性がないわけじゃないけど、違う気がするんだ。おかしいかもしれないけど、きっと俺に手紙を書いた人は、本気だと思う」

「本気で多野くんのことを好きだってこと?」

「ああ。向けられて気持ちの良い好意じゃないのは間違いない。でも、それが好意なのも間違いないと思う」


 俺はそう言いながら、温かいコーヒーをまた飲んで凍えるような寒気が走る体を温める。

 逮捕された人達は、匿名掲示板に俺に対する脅迫の書き込みをしたからだ。俺に対する脅迫の書き込みをしていない掲示板の利用者は他にも居る可能性がある。もし、その人達が俺に手紙を送っているのなら、その方が良いとさえ思える。それなら、あの手紙から感じる黒くて冷たい好意は偽物なんだから。

 だけど……それはあり得ないと感覚で分かることに、俺は心のそこから体を震わせる寒気を感じた。




 空条さんと喫茶店で別れ、俺は空条さんに申し訳なくて、迷惑を掛けた自分が情けなかった。

 空条さんは人の嫌がるようなことをする人じゃない。それでも、探偵を使って調べたのは、俺のことを心配してくれたからだ。でも、探偵を空条さんが雇ったということは、それだけ空条さんに精神的にも金銭的にも迷惑を掛けたということだ。今度、空条さんに何かお詫びをしないといけない。


「多野くん」

「え? 小竹さん? こんにちは、偶然ですね」


 喫茶店から出て少し歩いたところで、以前アルバイトしていたスーパーの社員の小竹さんにばったり出くわす。

 俺がそんな挨拶をした。すると、小竹さんはニコニコ笑って髪を耳に掛ける。


「一昨日はゆっくり話せなかったから残念だった」

「すみません。夜も遅かったですし、俺も結構飲んでて」

「私、今日休みなんだ。多野くんとゆっくり話したいな。この後用事ある?」

「この後、ですか?」

「うん。私の住んでるアパートがこの近くなの。美味しい紅茶とクッキーを出すから」

「時間はあるんですけど、どこか喫茶店で良いですか?」

「私、外で食事とかお茶するのが苦手で」


 小竹さんは少し恥ずかしそうに頬を赤く染めて答える。俺としては、いきなり自宅へ行くのはどうなんだろうと思う。しかし、小竹さんが外は苦手だと言っている。人が少なく落ち着いた雰囲気の喫茶店を知らないわけではない。でも、今居る場所からは遠くて、小竹さんをわざわざ自宅から離すことになってしまう。それにやっぱり、凛恋という彼女が居るのに、女性の家に二人切りになるのは良くない。


「遠慮しないで。私が多野くんとゆっくりお話したくて誘ってるの。付いてきて、本当にすぐそこだから」


 俺が断る前に小竹さんが歩き出してしまい、断るタイミングを失う。だから、俺は仕方なく前を歩き出した小竹さんの後を歩き出す。

 駅の前を通ってから住宅地に入ってすぐ、ピンクベージュの外壁をしたヨーロピアンなアパートが建つ敷地に入る。そのアパートは二階建てのコの字型になっていて、小竹さんはそのアパートの外階段を上って二階に上がる。


「小竹さん、やっぱり――」

「さっ、入って入って」


 玄関ドアの鍵を開けた小竹さんに声を掛けて断ろうとするが、笑って小竹さんは俺の腕を掴んで引っ張る。

 俺は土足で上がらないように慌てて手を使わず靴を脱ぎ、すぐに電気ケトルでお湯を沸かし始める小竹さんの背中を見る。


「座って待ってて」


 振り返った小竹さんに言われて、俺は近くにあった丸テーブルの側に腰を下ろしてあぐらをかく。

 女性の部屋に入るのが初めてというわけではないが全く落ち着かない。落ち着いた方が異常だということは分かっているが、自分の感覚が正常なものでも落ち着かない気持ちがある以上、居心地の悪さは拭えない。


 急に俺が来たことで、人が来ることを想定していなかった小竹さんの部屋は生活感に溢れている。

 整理整頓されていないわけではないが、テーブルには雑誌が一冊置かれていて、棚には並んでいない化粧品が見える。


「――ッ!」


 つい部屋を見渡してしまった俺は、その自分の失礼な行動を後悔した。

 小竹さんが部屋干しにしていた下着を見てしまったのだ。見ようと思って見たわけではないがかなり気まずい。

 視線をそれとなく小竹さんの背中に向けると、小竹さんは鼻歌を歌いながら紅茶の準備をしている。俺が小竹さんの下着を見てしまったことにも気付いていないが、下着を部屋干ししたままだということにも気付いていない様子だった。


 気軽に「下着干したままですよ」と伝えられれば良いが、俺はそういうことは出来ない。だから、このまま部屋干しされた下着には気付いていない体で居るのが、小竹さんのためにも俺のためにも一番良い。


「お待たせ」

「ありがとうございます。頂きます」


 テーブルの上に置かれたおしゃれなティーセットと、ティーセットと同じブランドの皿に盛られたクッキーに視線を集中させる。そして、俺は気まずい心を落ち着かせるためにミルクティーを飲んだ。


「美味しい?」

「はい。あまり紅茶は飲まないんですけど、ミルクティーだから飲みやすいです」

「良かった。多野くんはいつもコーヒーだもんね」

「え? あ、はい」


 一瞬、なんで俺がコーヒーをよく飲むことを知っているんだろうと思ったが、そう言えばスーパーでアルバイトをしている時の休憩中に、俺はよく缶コーヒーを飲んでいた。だから、俺がコーヒーをよく飲むと知っていたのだろう。


「多野くん」

「はい?」

「私の下着、興奮した?」

「――ッ! ゲホッゲホッ!」


 隣に座った小竹さんが自然な笑顔で言った言葉に、俺は驚いてミルクティーが気管に入りそうになってむせる。数回咳をして落ち着いてから、俺はゆっくりと視線を隣の小竹さんに向ける。俺が視線を向けると、小竹さんはニッコリと微笑んだ。


「顔が真っ赤」

「す、すみません。見るつもりは無かったんですけど、視界に入ってしまって……」

「多野くん、白とか淡いピンクの下着が好きでしょ?」

「へ?」

「多野くんは清楚な色の下着が好きだから、全部買い換えたの」

「小竹……さん?」


 小竹さんは明るく平然とした声でそう話す。しかし、俺は小竹さんの言葉に、ゾッと冷たい寒気を感じた。


「私、好きな人の好みに合わせられる女なの。服装も多野くんの好きな清楚だけどスカート丈の短いファッションにしたの」


 小竹さんはニッコリ笑いながら、自分の穿いているスカートの裾を太腿の半分まで持ち上げる。


「でも、あの女のパンツは見ようとするのに、私のパンツは見てくれなかったね。ずっと紅茶の準備しながら見せてたのに」


 唇を尖らせて残念と不満が交ざったような表情と声で言う小竹さんは、ゆっくり俺の手に自分の手を重ねる。その手から逃れるように俺が手を引くと、小竹さんは強引に俺の手を握って引き寄せた。


「傷付いちゃうな、避けられると」

「小竹さん、俺には彼女が居て」

「あんな女止めた方が良いよ。私の方が多野くんのことを愛してる」

「小た――ッ!?」


 俺の体に抱き付いて来た小竹さんから逃れようとした。でも、俺は体に力が入らずに、テーブルの脇へ仰向けに倒れる。倒れた俺は、クラクラと揺れる頭で上をボーッと見上げる。すると、小竹さんが俺の上に覆い被さるように四つん這いになった。


「大丈夫。私が多野くんのこと、幸せにしてあげる」


 その小竹さんの声が頭の中で反響するのを聞きながら、俺は強い睡魔に襲われて目蓋が重くなる。きっと、紅茶の中に睡眠薬を盛られたのだ。そうじゃなかったら、急に他人の家で睡魔に襲われることなんてあり得ない。でも、それに気付いた時には既に遅かった。


「大好き。一生、一緒に居ようね」


 小竹さんの嬉しそうな声が頭の中に小さく聞こえ、その直後、俺の唇に温かく柔らかい感触がする。でも、その感触が何であるかを判断する前に、俺の意識は途絶えた。

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