【二二二《それは儚い》】:一

【それは儚い】


 天井照明が明々と照らす、シンプルでありながら女性らしく小物を置いておしゃれにし、そして化粧品が置かれて生活感の感じる部屋のベッドで、鷹島さんに首を抱かれた俺は、鷹島さんに抱きしめられたまま固まる。しかし、固まったのは俺の意識の中ではほんの一瞬で、俺は出来るだけ素早く、そして優しく鷹島さんの体を押して離れさせた。


「たか、しま……さん?」


 俺は俺の方を真っ赤な顔でボーッと見ている鷹島さんの名前を呼んで尋ねてみる。

 鷹島さんは確実に酒に酔っている。でも、鷹島さんがいくら酒に酔ったからと言って、男にいきなり抱き付くだろうか? いや、でも酒は人の性格を激変させるし、鷹島さんは酒に酔うと……いや、でも鷹島さんはそんな軽い人ではない。


「……初めて意識したのは、多野くんが転校するために刻季高校へ書類を貰いに来た時」


 ゆっくりと、一言一言を噛みしめるように口にした鷹島さんは、俺の首から両手を解いた。


「ずっと学校に来られなくて、多野くんが転校するって聞いて、私は多野くんのことをずっと考えてた……。でもそれは、多野くんが辛い思いをしてたのに、私が何も出来なかったことへの罪悪感だと思ってた。多野くんは私が辛い思いをした時に助けてくれたのに、私は肝心な時に何も出来なかった。多野くんが学校で傷付くのも、黙って見ていることしか出来なかった。だから、私が多野くんを助けられなかったから多野くんは転校せざるを得なくなってしまったと自分を責めていたから、多野くんのことが頭から離れなかったと思っていた…………でも、違ったの」


 自分の太腿に置いた両手を、鷹島さんはギュッと握り締めて震えさせる。そして、頭を横に振りながら瞳から雫を散らした。


「好きだったの……好きになっていたの…………私は、多野くんのことが好きだった。後悔しても遅いくらい、多野くんのことを深く好きになってた……」


 鷹島さんのその告白に、俺は鷹島さんの表情を見ていられなくなって、視線を布団の上に逸らしてしまう。

 言葉は鷹島さんの口から発せられている。でも、鷹島さんの思いは鷹島さんが発してるように感じなかった。本当は心にバリケードを作って留めていたものを、酒という暴徒によって破壊されて、無理矢理晒されたような……そんな辛い告白に見えた。だから、俺を好きだと言ってくれることの嬉しさや、それに応えられない申し訳なさよりも……告白させてしまっていることへの純粋な痛みを感じた。


「こんな思いは間違っていると分かっているの。多野くんには八戸さんという素敵な彼女が居て、私のことは友達だとしか思っていないということは分かっているの。でも、会えない時間が続いて、私はその時間で多野くんのことを忘れられると思っていた。でも、会えない時間が長くなっても、私は多野くんのことを忘れられなかったわ。そして、高校二年生の夏、夏期講習で多野くんに偶然出会えた時に……運命を感じてしまったの。それから、気持ちを振り払えなくなった」


 夏期講習で鷹島さんと再開したのは本当に偶然だった。いくら同じ街に住んでいたとしても、夏期講習を行っている学習塾は腐るほどある。その中で同じ学習塾の夏期講習を受けるのは、低くもないが決して高くもない確率だと思う。


「何度も思った……多野くんに会う度に、八戸さんからどう多野くんを奪おうかと。でも、その度に自分が酷く汚く最低なことを考えてることに自己嫌悪になった。八戸さんはとても素敵な人。それは容姿が綺麗というだけではなく、性格もとても素晴らしかった。八戸さんは初めて会う私にも気さくに話してくれたし、友達がそれほど多くなかった私は凄く嬉しかった。それに……多野くんに対する八戸さんの全てはとても輝いて、それでいて温かかった。あれほど、多野くんのことを全て包み込める女性は八戸さん以外居ないわ。私も、きっと八戸さんの真似は出来ない。…………私は八戸さんに勝てるわけがないと思っている。でも……勝てないと分かっていても、簡単に切り捨てられる思いじゃなかった。だから……私は…………」


 太腿に置いていた両手を持ち上げ、鷹島さんは自分の顔を覆う。その手の隙間からむせび泣く鷹島さんの声が聞こえ、俺は再び鷹島さんから視線を逸らすことしか出来なかった。


「私……本当は成華女子の社会情報学部志望だったの」

「えっ……でも、夏期講習の時に――」

「多野くんが塔成大の文学部志望って聞いて……変えたの。……本当に、ごめんなさい」


 俺は鷹島さんに謝られて、鷹島さんが謝った理由に納得しながらも、俺に謝る必要はないと思った。

 俺と志望校と学部を合わせたことは、極限まで悪い印象を持つ観点からしか見なければ付きまとい行為――ストーカーだ。だから、鷹島さんはそういうことを考えて実行してしまったことを俺に謝った。でも、鷹島さんが本当に謝らなければいけないのは、俺ではなく自分自身だ。


 たとえ、最後は自分の意志で決定したとしても、自分の人生を左右するかもしれない選択を恋心だけで決定してしまったのは、悪いことだとも言えないが良いことだとも言えない。実際、鷹島さんは俺に謝って泣いている。それは、その選択を後悔しているからだと思う。だけど、後悔するような選択をしてしまったことを謝る必要は、自分自身に対してしかない。


「大学で再会して、もしかしたら……そんな淡い期待を持っていなかったわけじゃなかったわ。でも、心のどこかで分かっていた。何があっても多野くんは私のことを好きにならない。でも……苦しいくらい、多野くんは素敵な人だったの。大学に入ってからも何度も諦めようとした……。だけど……あなたに守られて、もうダメだった。私に想像するのも恐ろしいことをしようとした人達から、多野くんは私を守ってくれた。そんな姿を見せられたら……躊躇うことなんてさせてもらえないわ」


 両手をストンとベッドの上に落とした鷹島さんは、ベッドの上に敷かれた布団を強く両手で握り締めた。


「多野くんがミニスカートを穿いた女性が好きだと知って、私は慣れないミニスカートを穿いたわ。それまで、最低限の身だしなみしか気にしなかったけれど、ファッション誌を買ったりインターネットで調べたりして、可能な限り男性に好まれるファッションを調べた。それに……それまでは躊躇ってやらなかった行動も、多野くんに好かれるためにやった。恥ずかしさを押さえて出来る限り多野くんに一番近い場所に居て、時折……多野くんの体に触れもした。自分でも不思議なくらい、多野くんの体に触れることは恥ずかしかったけど幸せだった。多野くんの腕や肩に触れる度に、私も多野くんに触れて欲しいと思いもした」


 布団を握り締めていた右手を胸元に持って来た鷹島さんは、見て分かるくらい強くシャツの胸元を握り締めて握った拳を自分の胸に押し付ける。心の中で張り裂けそうな苦しさを押さえるように。


「鷹島さん、俺は――」

「分かってるわ。私の気持ちに応えられないことは。いいえ、多野くんには応える気がないくらい。八戸さんに買ったワインを八戸さんが喜んでくれたと話していた多野くんの顔は本当に嬉しそうだった。だから……私のことを好きになってくれないことも分かってる」

「ごめん……」

「謝らないで。私が黙って多野くんと仲良くするのが嫌だったの。八戸さんに打ち明けるまでの勇気は出ないけど、私がそういうつもりだと分かっていたら多野くんも距離を取ったり態度を変えたり――」

「俺は、出来るなら鷹島さんと変わらず友達で居たい。最初は鷹島さんも難しいと思うけど、大学で話したり飲みに行ったりさ」


 俺が鷹島さんの顔を真っ直ぐ見ながら言うと、鷹島さんは俺を見て憂いのある笑顔を浮かべた。


「愛は劇薬ね。上手くいけば恋の病を完治させる特効薬になるけれど、心にずっと痛みや苦しさを持たせ続ける毒にもなる」

「鷹島さんのは?」

「間違いなく毒よ。でも、痛みと苦しみを感じるのに悪い気はしない。多野くんのことを好きで居られなくなることを考えれば、痛みや苦しみは辛さにならない。だって、痛いと思うことや苦しいと感じるってことは、私が多野くんを好きで居られているということだから。でも、諦めたわけじゃないから」


 鷹島さんは唇を人さし指でなぞってフッと微笑む。その笑顔は綺麗に透き通っていて涼しげだった。


「八戸さんには勝てないけれど、私は多野くんのことを好きで居られるうちはずっと好きで居るつもり。私、二〇年生きてきてこんなに人を好きになったのは初めてなの。だから、この気持ちを大切にしたいし、ほんの少し狡いこともしてみたかったし」


 耳元でそう言った鷹島さんは、俺から離れてクスッと微笑む。

 いつもの鷹島さんではない。酔っているからこその言動だというのは分かる。でも、きっと俺に対する気持ちは酔いのせいではないのだろう。いくら酔っていても、鷹島さんは誰にでも告白したり抱きついたりする人じゃない。


「八戸さんには、私のタイミングで話させてもらえない? すぐには無理でも、遠くない時にちゃんと八戸さんには打ち明けるつもりだから」

「分かった」


 凛恋にすぐに言えないのは俺の心も苦しいが、鷹島さんの気持ちを勝手に俺が凛恋を含めて第三者へ伝える権利はない。鷹島さんが決意したタイミングに任せるのが一番だ。


「今日はありがとう。とても楽しかったわ。今度は八戸さんと赤城さんも一緒に行きましょう」

「ああ、凛恋と希さんにも話しておくよ。じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」


 鷹島さんのアパートを出て、俺は真っ暗な空の下、駅に向かって歩き始める。そして、自分の胸にあるチクチクとした苦しさを抑えるように胸へ手を置いた。

 誰かに好きだと言われることは嬉しいことだ。でも、やっぱり何度言われても苦しい。応えられないと分かっているからこそ、凛恋以外からの好きは拒否する選択肢しかないからこそ、自分に向けられる好きを減らしたいと思う。でも、それは俺の傲慢だ。


 自分が気持ちに応えられないからと言って、俺を好きになってくれる人の気持ちを要らないなんて言って良いことじゃない。応えられなくても、俺は気持ちを聞かなきゃいけないしその都度断らなきゃいけない。応えられないことに申し訳なさを感じるから、好きな気持ちを減らしたいというのは、俺の利己的な考えでしかない。


 俺は、本当の意味での告白をしたことがない。俺がしたことがあるのは、相手が――凛恋が自分のことを好きだと分かっている状況の告白ばかりだ。そう考えると、鷹島さんは本当に凄い。


 酒の勢いを借りたのかもしれないが、断られると分かっている告白をするのはとても辛いことだ。答えが分かっている分、断られるか受けてもらえるか分からない告白よりは潔い気持ちで行けるのかもしれないが、それでも否定されると分かっていて気持ちを伝えるのは心に応えるものがある。俺はそれが怖かったから、凛恋に本当の意味で告白出来なかった。


 俺は駅に辿り着き、改札を抜けてホームで電車が来るのを待つ。すると、ふとホームに設置された鏡が目に入る。

 鏡にはボーッとやる気のない顔を向ける俺が見えて、酒に酔っているせいか少し眠そうな顔にも見える。


「……――ッ!?」


 鏡に映る自分を見ていた俺は、上着のポケットに入れた両手の拳を握り締めて驚いて上げそうになった声を必死で抑える。俺と同じように電車を待っている人混みの中に、本蔵さんの姿を見た。


 焦げ茶のダッフルコートを着た本蔵さんは、俺から距離を取っている。偶然、俺と同じ駅に居合わせたのだろう。しかし、そう思うと同時に、御堂に襲われた時に本蔵さんが居合わせたことが思い浮かぶ。


 俺に付きまとっているストーカーは手紙に『南都子』という名前を書いている。しかし、だからと言って、俺に付きまとっているストーカーの名前が南都子と決まっているわけじゃない。それは、ストーカー自身が自分に疑いが掛からないように使っているフェイクの可能性もある。


 俺は電車に乗り込みながら、俺と少し離れた場所に立っている本蔵さんに視線を向ける。あまり見過ぎて、本蔵さんの存在を気付いていることを悟られるわけにはいかない。

 もし、本蔵さんがストーカーだったら、本蔵さんが俺に付きまとい行為をしているという証拠を掴めれば、付きまとい行為を警察に注意してもらって止めさせることが出来る。でも、ここで俺が気付いていると知られたら、証拠を掴む前に逃げてしまうかも知れない。

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