【二一九《駈る者、駈られる者》】:二

 本蔵さんに最低限の言葉を返して、俺は凛恋の腕を引っ張って病院の出入り口まで凛恋を連れて行く。そして、本蔵さんから離れて通路の角を曲がった時、凛恋が俺の腕に両手を絡めてしがみついた。


「絶対に本蔵が仕組んだのよ」

「確かに本蔵さんが偶然居合わせたっていうのは不自然過ぎる。でも、それも合わせて警察の捜査が終わるのを待つしかない。もし、本蔵さんと御堂がどこかで知り合って協力してたとしたら、御堂が警察の取り調べで白状する」

「そうだけど……」

「それに問題なのは凛恋が一人で来たことだ。俺は家で待ってろって言っただろ?」

「だって……凡人が襲われたって聞いて、家でジッとしてられなかったんだもん……」

「それでも、俺は凛恋が危ない目に遭うのが一番嫌なんだ。だから、もっと冷静に行動してくれ」


 もし、凛恋が一人で病院まで来る間に、羽村や西が強引な手段に出たら女の子の凛恋じゃ抵抗出来ない。それが、俺の飛躍した妄想であると笑い飛ばせないくらい、羽村と西は危険だ。だから、俺は絶対に安全な家の中で待っていてほしかった。


「凡人……怪我は?」

「全治二週間の軽傷だ」

「私……頭を怪我したって聞いて……高校の頃、凡人が記憶喪失になった時のことを思い出して……」

「大丈夫。俺の隣に居るのは八戸凛恋。俺の大切な彼女だって分かってる」


 俺は凛恋を落ち着かせるためにゆっくりと語り掛ける。そして、凛恋が俺の腕に絡めた手へ指を絡ませて握る。

 俺は凛恋の手を握りながら、本蔵さんが俺に見せた偽物の写真のことを思い出していた。

 その写真を本蔵さんに送った人物は何のために、その写真を本蔵さんに送ったのか。それは、間違いなく本蔵さんを俺と凛恋に焚き付けるためだろう。


 本蔵さんは高校三年の頃から俺に好意を持ってくれているらしい。その好意が今もあるのかは分からないが、本蔵さんに写真を送り付けた人物はそれを知っているということになる。

 写真を送り付けた人物は、本蔵さんを俺達に焚き付けて何を成し遂げようとしたのか。きっと、俺と凛恋を別れさせたかったのだ。


 凛恋が浮気をしているという疑念を俺に抱かせて、それで揉めさせて仲違いをさせようとした。しかし、現実はそうはならなかった。

 俺も凛恋も、互いの浮気の証拠とされる写真が出てきても絶対に信じない。そんな物よりも、俺と凛恋は互いを信じ合っている。その俺達を分かれさせようとしても上手く行くわけがない。


 写真を送り付けた人物は、俺達を別れさせて傷心している凛恋に近付く魂胆だったのだろう。でも、本蔵さんと面識のある人物でそういうことをしようと考えるであろう人物が思い付かない。

 もし、写真の件が本蔵さんの自作自演だったのなら、話は綺麗に繋がって説明が出来る。でも、それも俺の想像の域を出ない話だ。やっぱり、警察が御堂達を取り調べして真実を突き止めてもらうのを待つしかない。


「凡人」

「どうした?」

「今すぐ結婚したい……」

「凛恋……」

「今すぐ結婚して凡人と子供作って……凡人の全部が今すぐ欲しい……」


 凛恋の言葉はわがままに聞こえる懇願だった。それは、言葉が震えて目から涙が零れている様子から分かった。

 俺だって、何度思ったか分からない。今すぐに結婚して凛恋を八戸凛恋から多野凛恋に変えられれば、書類上や法律上だとしても凛恋は文字通り俺の凛恋になる。


 俺は結婚した経験がないけど、それで一定の安心感は得られると思う。その安心が欲しいと思うほど俺は不安だった。凛恋が俺を裏切るという不安ではなく、凛恋に誰かが近付くことを遮りきれない不安が……。


 結婚をすれば、凛恋に言い寄って付き合うことは民法違反になる。刑事罰はないが、裁判で損害賠償請求をされれば負ける。その事実だけで、凛恋に言い寄ろうとする男はきっと精神的にブレーキが掛かって踏みとどまると思う。羽村や西くらい理性や倫理観が飛んだ相手には通じないかもしれないが、凛恋を見て軽い気持ちで言い寄る相手は確実に減るはずだ。でも、結婚をしていない今は、凛恋に言い寄ることは民法違反ではない。羽村や西のように、凛恋に付きまとい行為をするまでになれば警察は動いてくれるが、ただ好意を向けるだけでは何も出来ない。


 もしかしたら凛恋も俺と同じ気持ちなのかも知れない。俺と同じように、気休めでしかないとしてもほんの少しでも安心が欲しいのかも知れない。

 俺も凛恋も互いに独占欲が強い。俺と凛恋はお互いの独占欲が強いレベルで釣り合っている。だから、俺達の関係は強く固まっていて崩れない。俺も凛恋も互いに独占欲が強いからこそ、互いのことで不安を感じやすく些細な安心でも欲してしまう。


 病院から家まで帰り着くと、すぐに凛恋が作っていたビーフシチューを温めてくれる。その凛恋の後ろで、俺は凛恋の腰に手を回して凛恋を抱き締める。そして、凛恋の頭に頬を付けた。


「もっと甘えて良いのに」

「十分甘えてる」

「全然十分じゃない」


 ガスコンロの火を弱めた凛恋は、俺の方を振り返って丁寧に俺の前髪を流す。


「私の凡人にこんな怪我させて、絶対に許さない」

「もう警察が捕まえたから、凛恋が何かする必要はない」


 凛恋が唇をキツく結んで俺の頭に巻かれた包帯をそっと撫でる。

 怪我は痛い。でも、凛恋が怪我した俺を見て悲しむ方がもっと痛い。

 襲われるのは怖い。でも、凛恋が俺が襲われたことで心に暗い気持ちを持つ方がもっと怖い。


「なんでだろうね……凡人も私も、何も悪いことしてないはずなのに。私達は誰にも迷惑なんて掛けてないはずなのに、なんで周りから悪いことをされて迷惑を掛けられるんだろ」

「……なんでだろうな、本当に」


 凛恋の問いに、俺は凛恋を納得させられる答えを持ってこられなかった。俺自身も凛恋の問いに疑問を持つ。でも、その疑問は結局解決されない――解決出来ない疑問だ。

 人の気持ちなんて、その人以外には分からない。だから、犯罪に手を染めても好きな人を手に入れようとする気持ちや、犯罪に手を染めても気に食わない人を排除しようとする気持ちは分からない。


 同じ立場に立てれば、少なからず相手の気持ちの一片を垣間見ることは出来るのかもしれない。でも、俺と凛恋は犯罪に手を染めなくても大好きな人が自分の一番近くに居てくれる。ただ俺は、犯罪に手を染めても気に食わない人を排除しようとする気持ちは分かる。俺は人を殺したいほど憎んだことがあるから。


 凛恋が人を殺したいほど憎んだことがあるかは分からない。でも、俺は、凛恋を守りたい、凛恋を傷付けるものを消し去りたいという気持ちの延長線上で、人を殺したいと思った。そう思うことは道徳的に間違ったことだ。でも、血の通った、心を持った人間として考えたら間違っていると俺は否定出来ない。

 ただ、だからと言って、御堂や羽村、西の気持ちが理解出来て行動を肯定出来るわけじゃない。三人共に俺は全く共感出来ない。むしろ、理解出来なくて良かったと思っている。


 もし俺が三人の欲望を理解出来たとしたら、俺はその時点で凛恋に相応しくない人間になってしまう。だから、凛恋が嫌悪を抱く対象に、俺も嫌悪が抱けて本当に良かったと思う。

 他人の気持ちを推し測ったとしても、それは結局不毛な思案でしかない。そんな不毛なことに時間と心を費やすなら、俺はもっと大切なことに時間と心を費やすべきだ。

 それを、俺は凛恋にも求めたい。


「俺は、凛恋に俺のことだけ考えててほしい。俺達に不利益な人間のことをあれこれ悩むくらいなら、その時間と心を俺のために使ってほしい。一秒でも多く、俺のことを好きだって想っていてほしい」

「想ってる。ずっと想ってるよ。凡人のことが大好きだって毎日想ってる。毎日毎日……毎日毎日毎日、朝起きて夜寝るまでずっと。ううん、夢の中でも私はずっと凡人のことを想ってる」

「めちゃくちゃ嬉しい」

「凡人は?」

「俺も凛恋のことを想ってる。毎日毎日、何度想ったって想い切れないくらい凛恋のことを好きだって想ってる。凛恋とずっと一緒に居たいって想ってる。早く就職して凛恋と結婚して家族になりたいって想ってる」

「チョー嬉しくてチョー幸せ。あっ……」


 ニッコリ微笑んだ凛恋の優しい笑顔に耐えきれず、俺は凛恋の首筋に鼻を付けながら唇を首に触れさせる。


「凡人……ダメだって。怪我してるんだから……」

「怪我してるから慰めてほしい」


 凛恋の腰に回した右手を下げてスカートに包まれたお尻を撫でながら太腿に触れ、左手は凛恋のシャツの裾から手を入れてブラ紐を指先で撫でる。

 今になって、凛恋の腕の中に包まれた後になって、御堂に襲われた時の恐怖が蘇ってくる。


 殺されるかと思った。状況的に不自然だとしても、確実に本蔵さんが居なかったら俺は今頃この世に居なかったかもしれない。それくらい怖かった。

 死んだら、凛恋と結婚出来なくなる。死んだら、凛恋に二度と会えなくなる。死んだら……凛恋の体に触れることが出来なくなる。だから、死ななかった未来に進んだ俺は、進まなかった、進まずに済んだ未来を恐れて、より自分の中の欲求に抗えない。


 下から、凛恋がすくい上げる様にキスをする。そのキスをしながら、俺は荒く凛恋の体に触れる。その荒々しい俺の欲求にも、凛恋は自然と身を合わせてくれる。

 キスをしながら凛恋が後ろ手でガスコンロの火を消す。


「シチューは後で温め直せば食べられるけど、凡人は今慰めないとね」


 とろけた目で見上げ赤く上気した顔を向ける凛恋の頬に右手で触れると、凛恋がその手を掴んで自分の太腿に戻した。


「シャワー浴びないといけないよね……」

「後で良いだろ」

「でも、病院まで走ったから汗掻いてる」

「俺が凛恋の汗の臭いが好きだっていうのは今更だろ? それに、どうせ汗を掻くんだから今流す必要はない」

「そうだね。……でも、後で一緒にお風呂入ってね?」

「それも今更だろ? 俺と凛恋が一緒に風呂に入らなかったことはないだろ?」

「うん。……でも、確認したくなっちゃう。分かってても、つい確かめたくなっちゃうの。凡人が私の凡人だって」

「今から確認出来るだろ? お互いに」


 俺は凛恋の手を引っ張って和室に入り、布団を片手で引っ張り出す。すると、手を繋いだ凛恋が後ろでクスッと笑うのが聞こえた。


「凡人、チョー目が血走ってる」

「怖いか?」

「ううん。その目、私は大好きだから。凡人が必死に私のこと求めてる目」


 居間の照明がぼんやり照らす和室で凛恋がシャツとスカートを脱ぐ姿を、俺は目に焼き付けるようにジッと見詰める。

 凛恋の細く引き締まった腰回りから、ブラジャーに包まれた女性らしく膨らんだ胸が見える。その後には、パンツに包まれた腰から下の綺麗な曲線と細く滑らかな足が見えた。そして、その綺麗で魅惑的な姿の凛恋は、ゆっくり誘うように俺の腰に手を回してそっと身を委ねる。


「凡人……息が荒くなってる。可愛い」


 耳をくすぐる凛恋の囁きに、俺は胸を激しく高鳴らされて、全身に熱くたぎった血液が駆け巡るのを感じた。

 全身が震えるくらい嬉しかった。凛恋に求められているのを感じて、凛恋を求めることを当然のように受け入れられて、膨大な幸せが全身に押し寄せる。だけど、幸せでは満足出来なかった。幸せは、俺をもっと濃密で甘い幸せに駈り立てる。

 布団の中に凛恋を引きずり込んで、凛恋を包み込むように覆い被さる。そして、目を瞑って自分の心を煽って凛恋に自分をより駈り立てた。


「もっとがっついて」

「凛恋っ!」


 凛恋に煽られ、俺は荒々しく凛恋の唇に自分の唇を押し付ける。そして、凛恋の背中に手を回してブラジャーのホックを外して荒く凛恋の胸に手を重ねる。


「ダメ。もっと私のこと欲しがって」

「凛恋が欲しい」

「もっと」

「凛恋が欲しい!」

「もっと!」

「凛恋が欲しい! 俺だけのものにしたい! 凛恋を俺だけの凛恋にしたい!」


 煽られ駈り立てられた俺が叫ぶと、凛恋は下から俺の顔を見上げながらいたずらっぽく微笑む。


「もう凡人のだけど、また私を凡人のに出来る権利を凡人にあげる。だから……私にも頂戴、凡人を私のに出来る権利をもう一回」

「毎日あげるよ。一日に何度だって俺を凛恋のものに出来る権利をあげる」

「やった……凡人は私だけの凡人」


 俺達は独占欲が強いレベルで釣り合っている。そして、俺と凛恋はどちらの独占欲が振り切ろうとしてもずっと互いに振り切り合って互いの独占欲に押し潰されない。だから俺達は…………。

 互いを駈り立て合って、安心して互いを独占し合える。

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