【二一九《駈る者、駈られる者》】:一

【駈る者、駈られる者】


 警察署の取調室で、俺は目の前に座る男性警察官の神妙な顔を見返す。そして、その隣に座る女性警察官に視線を移してから、俺達の間にあるテーブルの上に置かれた大量の手紙を見下ろす。


 毎日送られてくるようになった手紙は最初は一日一通だった。しかし、次第に一日に届く手紙の数は二通三通四通と増えていき、今では数えるのも馬鹿らしくなるくらいの数になっている。俺達の前にあるテーブルの上に置かれているのはその大量の手紙達だった。


「不安な毎日を過ごさせてしまって申し訳ありません。パトロールや周辺への聞き込みを行っているのですが……」

「いえ、気にしないで下さい。解決しようとして下さっているのは分かっているので」


 俺に頭を下げた男性警察官にそう言って、俺はまたテーブルの上に広げられた手紙に視線を落とす。

 最初はおしゃれな封筒におしゃれな便せんが一枚というシンプルな手紙だった。しかし、便せんの枚数は二枚に増え、封筒の中には便せん以外に別の物も入るようになった。


 いつの間にか隠し撮りされていた俺の写真であったり、『多野南都子』と名前だけ書かれた婚姻届も入っていたりした。相手は流石に婚姻届に住所まで書くほど馬鹿ではないらしく、送られてくる物が増えても警察はまだ犯人に辿り付いていない。

 最初はアパートの郵便受けに消印なしで届いていた手紙は、送られてくる枚数が増えると消印が付くようになった。しかし、それがかえって不気味だった。


 手紙の消印は俺達が住んでいる地域の郵便局のものだが、広い範囲の郵便局の消印が満遍なく交ざっているらしい。つまり、手紙が出されている場所の範囲が広すぎて犯人の生活圏を絞るという材料には出来ないということだ。


 今日、俺は自分に届いた手紙を捜査のための証拠品として持ってきたついでに警察官から現状について話を聞いた。でも、聞く必要がないくらい進展はない。

 取調室から出て警察署の一階まで降りてきた俺は、自販機コーナーでスマートフォンを取り出す。そして、凛恋に電話を掛けた。


『もしもし、どうだった?』

「まだ話せるようなことはないってさ」

『そっか……』

「今から帰る」

『うん、待ってるから寄り道せずに帰って来てね』

「凛恋が待っててくれてるんだから、寄り道なんてしないって。じゃあ、後でな」

『うん』


 凛恋との電話を終えて、俺はスマートフォンをポケットに仕舞って警察署の外へ出た。

 俺はやっと自覚してきた。自分がストーカーに付き纏われていることを。

 俺にはストーカーを引き寄せるほどの人間的魅力はないと思っていた。だから、ストーカーから送られてくる手紙も、俺のことを嫌いな人間の嫌がらせだと思っていた。しかし、今頃になってその認識を改めた。


 ストーカーは間違いなく俺に好意を持っている。その好意はどす黒く粘着性の強い好意で、向けられて嬉しいとか気持ちの良い好意ではない。それでも、それが好意であるのは分かった。

 手紙自体は丁寧に全て手書きで書かれているし、俺自身に対する中傷は何一つない。でもやはり、その好意を俺の方は好意的に見られない。


 まだ空に太陽が浮かぶ明るい街を歩き、解決のめどが立たないストーカー問題に小さくため息を吐く。

 これからクリスマスもあるし年の瀬も迫ってくる。途中に大学の学園祭もあるが、サークルにもゼミにも所属していない俺にはあまり関係ない。しかし、新年を迎えたら、来年から就職活動が始まる。そこが、俺にとって最も大事な時なのだ。


 お父さんお母さんが凛恋を俺に安心して預けてくれるような仕事に就かなければ結婚出来ない。俺はそういう約束をお父さんお母さんとした。だから、その就職活動を安心して行えるように、少なくとも就職活動が解禁されるまでには事態が収まってほしかった。ただ、一刻も早く収まってほしいという思いも当然ある。しかし、俺の頭を悩ませているのは俺のストーカーだけではない。


 羽村は一度つきまとい行為で警告を受けていたから禁止命令を出された。しかし、羽村の態度は反省しているような感じではなかった。あの調子だと、また凛恋に近付いて来るかもしれない。それに西もまだ接触して来ていないが、また凛恋に近付く恐れがある。

 警察にも俺のストーカーと合わせて、羽村の件と西の件は伝えてある。だが、羽村にはまだ禁止命令以上の対応は出来ないし、西もまた凛恋に接触して来るまで警告も行えない。


「イッ! ガハッ!」


 警察署から駅まで向かっていた俺は、ビルとビルの間にある細い路地に突然引っ張り込まれ、思い切りビルの壁に突き飛ばされた。


「ゲホッゲホッ――グハッ!」


 一度ビルの壁で跳ね返って地面に倒れた俺は、一瞬息が詰まり地面に両手両足を突いて咳き込む。しかし、間髪入れずに横から頭に強い衝撃を受けた。

 何が起きたのかは分からない。それに、頭が揺れて自分が今どういう状況か認識する余裕がなく、強い痛みと吐き気のことしか考えられない。


「グッ……」


 上から頭を足で踏み付けられ、冷たく固い地面に頬を痛いくらい押し付けられる。


「おい、場所を移すぞ。ここだと誰かに見られる」

「お前達! 何してるッ!」


 俺を襲った男達の一人が俺を連れ去る提案をした直後、男性の怒鳴り声が聞こえる。


「逃げるぞッ!」


 怒鳴り声を聞いた男達は路地の奥へと走り去った。

 俺の視界の端で、制服を着た警察官二人が逃げた男を追い掛けていく。その後に、俺の側に一人の女性がしゃがんだ。


「多野、私が分かる?」

「もと……くら……さん……」


 俺の側に膝を突いてしゃがんだ本蔵さんが、俺の顔を覗き込んでいた。


「すぐに救急車が来てくれるから」

「どうして……本蔵さんが……」

「話は後。まずは多野の手当てが先」


 本蔵さんの手が優しく頭に置かれ、俺は視線を硬いアスファルトの地面に落とす。そして、耳に救急車のサイレンの音を聞きながらゆっくりと目を閉じた。




 病院で目を覚ました俺は、警察から俺が男達から襲われたことについて説明を受けた。

 俺を襲った犯人達は、すぐに駆け付けてくれた警察官が捕まえてくれたらしい。しかし、その犯人の正体が問題だった。

 俺を襲ったのは御堂龍太郎(みどうりゅうたろう)とその友人。御堂は、元レディーナリー編集部に居た編集者だ。

 御堂とその友人は俺に暴行を加えた後、逃走したが警察に捕まり、取り調べでこう言ったらしい。


「人生を狂わされた復讐をしたかった」と。


 レディーナリー編集部から月ノ輪出版の営業部に異動になった御堂は、異動後すぐに月ノ輪出版を自主退職したらしい。しかし、退職後に就職活動をするも就職先が見付からず、アルバイトをしながら食い繋いでいた。そして、そのアルバイト生活中に俺に対する恨みが募り、アルバイト先の友人に協力してもらい俺を襲ったそうだ。


 最初に思ったことは「しょうもないことで襲われたな」ということだった。

 全部、御堂の自業自得だ。俺にパワハラをして会社で問題になり、それでも反省の色を見せずに会社に噛み付いて営業部に異動へなった。月ノ輪出版を辞めたのも御堂が自分で選んだことだ。それで自分の思い描いた人生にならなかったからと言って、俺に八つ当たりすることは正しいことじゃない。


 病院内にある相談室で警察の話を聞き終えた俺は、部屋の外へ出た。そして、相談室の脇の壁に背中を付けて立っていた本蔵さんが、俺の方を向いて壁から背中を離した。


「怪我は?」

「全治二週間だった」

「良かった」


 本蔵さんと短い言葉を交わした俺は、本蔵さんが真っ直ぐ向けている視線を受けて疑り深く視線を返す。


「どうしてあそこに?」

「多野が警察署から出て来るのを見たから、何があったのか聞こうと思って追い掛けてた。そしたら、多野が路地に連れ込まれるのが見えた」


 本蔵さんは淡々とした口調で答える。

 偶然、警察署の前を通り掛かった時に俺を見た。だから、俺が襲われるのを見て警察に通報することが出来た。だが、そんな偶然が早々あるとは思えない。


「それと、私の家に八戸が浮気をしてる写真が届いた。消印がない封筒に入って」


 本蔵さんが鞄から茶封筒を取り出し、中から数枚の写真を出して俺に見せる。

 本蔵さんが取り出した写真には、女性が男と手を繋いでいたり、男の家らしきマンションに手を繋いで入ったりする姿が写し出されている。


「凛恋は浮気なんてしない」


 写真を一瞥(いちべつ)しただけで否定する。ただ、本蔵さんはその写真を俺に凛恋に対する疑念を抱かせるために出したわけではなかった。


「これは合成写真。でも、素人がただ別の画像を貼り合わせただけじゃない。技術を持った人が画像編集ソフトを使って合成してる」


 本蔵さんは俺に見せた写真を偽物だと分かっていた。そして、それを俺に話したということは、少なくとも俺に凛恋に対する疑念を持たせたいわけではないようだ。しかし、そうなると本蔵さんはなぜ、俺に偽物の写真を見せたのだろう。


「多野は誰かに狙われてる」

「俺を襲った犯人は捕まった」

「違う。多野を襲った犯人以外にも居る。この写真を私に送って来た人が」


 本蔵さんの言葉が全て正しいという証拠はない。しかし、本当に本蔵さんが何者かに偽物の凛恋の浮気写真を送り付けられたとしたら、確かにきな臭い。

 本蔵さんが警察署の近くに居たことも不自然だが、そもそも御堂達が居たこと自体が不自然だ。


 俺と御堂は、御堂が異動になってから会ってない。それなのに、御堂は警察署帰りの俺を襲った。大学帰りなら、まだ俺に関係する場所だから分かるが、警察署帰りは明らかに俺の居所を把握してないと襲うことは出来ない。


「本蔵さんにその写真を送り付けた人に心当たりは?」

「分からない。でも、多野が誰かの悪意に晒されているのは確か。私は多野を助けたい」

「俺のことは警察が助けてくれる。その写真も警察に出してくれれば犯人の手掛かりになるかもしれない」

「もちろん警察には提出するし、事情聴取も受けるつもり。でも――」

「凡人ッ!」


 本蔵さんと話していると、凛恋の声と病院の廊下を駆ける足音が聞こえてすぐ、俺は本蔵さんから引き離されるように腕を引っ張られた。


「凛恋!? なんで来たんだ。大した怪我じゃないから心配するなって――」

「凡人に何したの!」

「凛恋……」


 凛恋は両手を広げて俺を庇うように、俺と本蔵さんの間に立つ。その凛恋の行動に、本蔵さんは表情を変えずに言った。


「多野が襲われていたから警察に通報した」

「馬鹿言わないでよ! 凡人が襲われてるところにたまたまあんたが居るわけないでしょッ! 凡人に嫌がらせしてるのあんたでしょッ!」

「多野? 何かされてるの?」


 凛恋の言葉を聞いて本蔵さんは俺に尋ねる。しかし、それよりも俺は取り乱している凛恋をなだめる方を優先した。


「凛恋、落ち着けって。本蔵さんが警察を呼んでくれたお陰で御堂は捕まったんだ」


 凛恋が抱いた本蔵さんに対する疑念を、俺も抱かなかったわけではない。襲われている時に本蔵さんが登場するというのは、本当に偶然の可能性もあるが、あまりにもタイミングが良すぎると思ってしまう。でも、やっぱり作為的なことである証拠がないのだから、疑念で留めておくことしか出来ない。


「……凡人がそう言うなら」


 凛恋は完全に納得した様子ではない。いや、凛恋は全く納得していない。でも、俺の言葉だからと怒りの矛を収めた。


「多野、何かされてるって話は?」

「あんたには関係ないでしょ」


 凛恋を落ち着かせると、本蔵さんが俺に質問を重ねてくる。しかし、それに凛恋は棘のある態度と言葉を返した。


「本蔵さんが心配するようなことじゃない。もう警察にも相談して対応をしてもらってる。俺の方も何も出来なくて、警察から報告をもらうのを待ってる状況なんだ」


 詳しい話を本蔵さんにする必要はないと思った。それに、一刻も早く話を切り上げてこの場を凛恋と一緒に離れたかった。

 凛恋はパニックに陥っている上に、かなり気が立ってしまっている。今の凛恋は、今すぐにでも本蔵さんに掴み掛かってもおかしくない状態だ。このまま、本蔵さんと対峙させておくのは、本蔵さんにも凛恋にも何もメリットがない。


「多野の力になりたい」

「あんたの力なんて要らないわよッ! どうせ凡人に取り入って誘惑しようって魂胆でしょッ! 私は絶対にあんたなんかに凡人を渡さないッ!」

「ごめん、本蔵さん。もう帰らせてくれ」


 本蔵さんの方に足を踏み出した凛恋の腕を引っ張って引き寄せながら、俺は本蔵さんにそう頼む。それに、本蔵さんは凛恋の方を一瞬見た後に俺に視線を戻した。


「分かった。でも、もっと警戒した方が良い。次は誰かが助けられるとは限らない」

「分かってる。心配してくれてありがとう。じゃあ」

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