【二一四《関心外の錯綜(さくそう)》】:二
頭を振りながら話す空条さんは困惑した表情をしている。それは、自分の発している言葉に自分で困惑しているような様子だった。
俺が一人で居ることを心配されたことは沢山ある。それは、栄次もそうだし凛恋も、希さんや萌夏さん達もそうだ。でも、俺が一人で居ることを困惑した表情で語られたのは初めてだった。その空条さんの困惑は俺に対してのものではない。でも、何となく、今のこの状況が今まで経験した状況とは全く違う状況であるのは分かった。
「心配してくれてありがとう。でも、俺は他人には無関心だけど、家族や友達にはちゃんと関心がある。友達の空条さんにも風邪を引いてほしくないって思うし。だから、とりあえず中に入ろう」
「心配、してるんだよね? うん……」
空条さんは俺を見ずにそう呟いた。そして、ゆっくり頷いてから俺に微笑んだ。
「変な話をしてごめんね。やっぱり酔いすぎてたみたい。もう大丈夫」
空条さんは笑う。その空条さんの笑みが頑張っている笑みだと、俺は人と関わるようになって分かるようになった。だから、頑張った笑みか頑張ってない笑みか分かるようになった俺だからこそ……その笑みを見た瞬間に、胸の奥がキュッと痛んだ。
空条さんの部屋を出て、すっかり暗くなった道を歩く。俺は歩きながら、空条さんの部屋のベランダで聞いた空条さんの話を思い出していた。
酔っていたから出た単なる世迷い言(よまいごと)だと切り捨てるなんて出来ない。あの空条さんの言葉は本音なのだ。きっちりと考えとして、意見として固まっていないものだったかもしれない。迷いのある言葉だったかもしれない。でも、確実にあの空条さんの言葉は空条さんの本音で本意が表れた言葉だった。
空条さん自身が迷っていて固まっていなくて自分でも理解し切れていない本音を俺が理解しようなんて無理な話だ。理解しようと考えること自体が自分に対するおごりがあるように思う。でも、自分に誰かの人の心を見透かす力なんてないと分かっていても考えてしまう。
空条さんは大学でもよく話すし、大学に入ってから出来た大切な友達だ。その大切な友達が、俺のことで戸惑って心を惑わせている。それが、申し訳ないと思うと同時に、自分をそんなことをさせても良い人間なんかじゃないと思った。
自分が誰かを迷わせる価値のある人間だなんてつもりは毛頭ない。でも、実際に俺は空条さんを俺のことで迷わせている。
俺は今まで色んな人のことを悩ませて迷わせてきてしまった。凛恋ももちろん、萌夏さんも真弥さんも理緒さんもステラも、栞姉ちゃんも……他にも沢山。その迷いの類いを好意に限定しないのなら、それは膨大な数に膨れ上がる。
なぜ、そうなったのかを俺は分からない。だけど、分からないからこそ考えるのを止められない。
「あ~あ~……せっかく千紗ちゃんと奈央ちゃんと一緒に飲んだのになんもなかった~……」
数歩前を歩いていた飾磨が、自分の頭を掻きむしった。
「飾磨、何もなかったって?」
「はあ? あんなに可愛い女の子二人と飲んだんだぞ? ちょっとは期待するに決まってるだろ?」
「おい。お前、流石にそれは無い。二人は大切な友達だろ? それなのに――」
「はあっ? 女の子に仲良くなりたくないって言う方が失礼だろ? それに凛恋ちゃんっていう可愛い彼女が居る多野と俺を一緒にするな」
いきなり飾磨が話し出した話に、俺は嫌悪感を露わにして言い返す。しかし、飾磨は俺のその言葉を荒く否定した。
「飾磨は色んな女の人と遊んでるだろ」
「俺は女の子には平等に接するのがモットーなんだ。男としてはっきり言うが、あの状況で一ミリもエロいことを多野が考えなかったとしたら、男としておかしいぞ。千紗ちゃんの太腿とかめちゃくちゃエロかったし、奈央ちゃんのおっぱいは服越しに見ても大きかったし。あ~やべぇ~、思い出しただけでムラムラしてきた~!」
酔いと男の俺しか居ないという状況からか、飾磨は言葉に対して理性がない。
飾磨の言うエロいことが、空条さんを見てドキリとしたという意味なら、正直にドキリとした。俺には凛恋という大切な世界一可愛い彼女が居るが、可愛い人や綺麗な人を魅力的だと感じる感覚を無くしているわけじゃない。むしろ、そういう感覚があるからこそ内面以外にも外見でも凛恋のことを大好きで居られる。
「この悶々とした気持ちはどうすりゃいいんだ~」
「知らん」
「多野だってちょっとは考えるだろ? エロいこと」
「二人とも可愛い人だとは思うけど、俺にとっては大切な友達だ」
「そうか? まあ、多野は彼女持ちだしな~。ちなみに、どっちかとエッチ出来るならどっちがいい?」
「飾磨。それは冗談で済まされないぞ」
飾磨の言葉に、俺は明確な不快感を露わにして言い返す。流石に今の発言は酔いのせいだとしても聞き流せなかった。
「冗談じゃないぞ? 俺は千紗ちゃんと奈央ちゃんなら喜んで据え膳を食う」
その飾磨の言葉を聞いて、俺はそれ以上何も言い返さなかった。
結局、飾磨は自分の発言を反省する素振りは何一つなかった。
元々、飾磨と俺は感覚が全く違うというのは分かっていた。俺の立場から言えば飾磨は軽々しく感じるが、飾磨の立場から言えば俺は重々しく感じるのだ。
世の中に、飾磨みたいに付き合う前やそもそも恋愛感情がなくてもエッチが出来る人も居る。それは男ではなく女性でも居るという話は聞いたことがある。実際、飾磨と交流のある女性の中にはそういう女性も居るようだ。でも、空条さんも宝田さんもそういう人じゃない。むしろ、普通の人よりも自分のことを大切にする人だ。
「飾磨。その話、絶対に空条さん達にはするなよ」
「するわけないだろ。話した瞬間、千紗ちゃんと奈央ちゃんに嫌われるし」
「じゃあなんで俺には話したんだよ」
「男の多野には気を使う必要なんてないだろ。それに、女の子とエッチしたいとかいつも話してることだし」
「俺の知らない女の人なら別にどうでも良いけど、俺の友達でそういう話はするな」
「多野はケチだな~。ちょっと妄想するくらい許してくれてもいいのによ~。他のやつとは下ネタで盛り上がれるけど、多野はいっつもノリ悪いんだよな~。なーんか、紳士振ってるっていうか、女の子に媚びてる感じが――」
「もういい」
「はあっ!? なになに? 今のでキレんの? 器狭くね?」
飾磨の言動に我慢の限界だった。そもそも前々から飾磨の女性に対する軽々しさが気になっていた。でも、基本は良いやつだからと飾磨の話に付き合ってきたがもう無理だ。俺の大切な友達に対して侮辱を続けるなら、もうこれ以上こいつと関わる義理はない。今日の飲み会だって、飾磨が言い出したことに俺が付き合わされただけだった。
飾磨を追い越して早歩きで駅に向かった俺は、いつもよりもはるかに速く改札を抜けて丁度来ていた電車に乗り込む。そして、窓際のボールに背中を付けて腕を組んだ。
飾磨が言ったように思うのは勝手だ。でも、それを言葉に出した時点で思うだけにはならない。
「あいつ、もしかして凛恋や希さんでも……」
俺は嫌なことを口に出してしまい、電車の中で拳を握り締める。
もう飾磨と関わり合いになることはない。だから、これ以上あいつのせいで心を乱すのは損だ。
電車が駅に着くと、電車を下りて俺は家に帰る足を速める。
空条さんの家では楽しく飲めていたが、帰りのせいでかなり気分が悪い。だから、俺は途中で二四時間営業のスーパーに酔ってシャンパンを買う。
凛恋は二〇歳の誕生日にシャンパンを飲んでからシャンパンがかなり気に入ったようだった。今回は誕生日の時に飲んだシャンパンよりもお手頃な物だが、帰って凛恋と希さんと一緒に飲み直したかった。
街灯の明かりだけの薄暗い夜道を歩いていると、俺のスマートフォンが震えた。
「もしもし? 凛――」
『凡人っ……』
「凛恋!? どうした!?」
電話から聞こえた凛恋の元気のない消え入りそうな声に、俺は焦って聞き返す。すると、凛恋が甘えた声で言った。
『希が寝ちゃったの……寂しいから帰ってきて……』
凛恋が寂しそうに言った言葉に、俺は思わず笑みが溢れて歩く足を走り出させた。
「今帰ってる途中」
『迎えに行く!』
「もう暗いから家で待ってろ。すぐに帰るから」
『うん。待ってるね』
電話を切って家に向かって走り出す。こういう時、飲み過ぎていなくて良かった。
凛恋のために早く帰って、凛恋と楽しい話をして嫌なことは忘れよう。そう思って俺は全身に籠もっていた余計な力が抜ける。
アパートの敷地内に入り、俺は階段下にある郵便受けをいつもの癖で開ける。すると、郵便受けの中には一通の封筒が入っていた。その封筒の表には俺の名前が書いてあり、俺宛の手紙だというのは分かる。しかし、表に書いてあるのは俺の名前だけで、郵便番号も住所も、切手も消印も何もない。その手紙に俺は嫌な予感がした。
俺の名前だけしか書かれていないこの封筒は郵便局員が配達に来たものじゃない。書いた本人が直接アパートに来て俺の部屋の郵便受けに投函したのだ。それを考えて思い出す。
あの、真っ黒い手紙のことを。
今回届いた手紙に使われているのは、控えめな花柄とレースのような加工が施されたおしゃれな封筒だ。だから、この前の見るからに不気味な手紙とは違う。でも、直接投函されたということに同じ種類の不気味さを感じた。
俺は小さな照明しかない薄暗い郵便受けの前で封筒を開ける。すると、中からベージュの落ち着いた雰囲気の便せんが出てきた。
『毎日、編集部でのお仕事お疲れさま。最近は仕事が忙しいのか顔に元気がなかったね。大丈夫? 体を壊してない? 編集部で夜食をご馳走になってるみたいだけど、ファストフードが多いみたいだから栄養が偏ってないか心配です。貴方にちょっかいを出してる女は料理が得意みたいだけど、あんな信用ならない女の手料理なんて食べない方が良いよ。代わりに私が貴方の体のことを考えた料理を作ってあげる。早く、貴方と結婚して一緒に温かい家庭を持てる日が来ると良いな。 貴方の妻、多野南都子(たのなつこ)より』
手紙の内容を確認した直後、俺は一度アパートの敷地から出て、首を振って道路の左右を確認する。しかし、人の気配は全くなく薄暗く静かな道しか見えない。それを確認した瞬間、俺の背筋にゾッとした感覚が走った。
誰かに見られていると自覚した瞬間、純粋で鋭い恐ろしさだけが俺の体に四方八方からその切っ先を向けてくるのが分かった。そのせいで体は震え、俺は全身を強張らせて気を張り詰めた。
この手紙は間違いなく俺に宛てられた手紙で、この手紙を書いた人間は確実に俺を監視している。
手紙の内容は、俺に対して好意があるような内容だ。でも、俺はそんな手紙を貰うほど異性から好かれる人間じゃない。だから、これはストーカーの手紙を装った脅迫だ。
俺をずっと見ていて、俺のインターン先も知っていて……そして、手紙の主は凛恋の存在も認知している。
相手が何を企んでいるかは分からない。でも、俺は今、俺自身以外にもインターン先のレディーナリー編集部と凛恋を人質に取られている。
もし俺のせいで、俺以外の誰かが危害を受けたら……。そう考えた瞬間、さっきよりももっと明確な恐怖に襲われた。
特定された個人の心当たりはない。でも、俺が誰かに脅迫を向ける可能性に対しては思い当たることが多い。そして、その可能性は広がり過ぎて、俺では特定の個人を限定することは出来ない。
すぐに警察に相談するべきだ。俺はそう思ってすぐにスマートフォンを取り出して警察に電話を掛ける。しかし、電話が繋がる間の呼び出し音を聞きながら、俺はアパートの建物を振り返って唇を噛んだ。
警察に通報したら、絶対に凛恋にも知られる。そうなったら、凛恋は感じる必要のない恐怖を抱くことになる。
頼めば凛恋に事情を聞く警察官は女性にしてくれると思う。でも……凛恋は思い出してしまう。高校時代、自分がストーカーにされてきたことを。
凛恋は高二の時にストーカーから付きまとわれて、俺が今手にしているような手紙を送り付けられた。その手紙の内容は、俺が持っている手紙の内容なんて生易しいとしか言いようがないくらい酷かった。その手紙で、その手紙を送り付けたストーカー達のせいで、凛恋は一生消えない心の傷を負って、その傷に今でも苦しめ続けられている。
俺はその凛恋の傷を一生掛けて癒やしたいと思っている。それは癒やせない傷なのかもしれないが、ずっと俺が凛恋の側に居て凛恋を傷付けるもの全てから凛恋を守って、凛恋の心が少しずつでも傷を癒やせるような環境にしたいと思っている。そんな俺が、そんな俺のせいで凛恋は心に付けられた傷をまた直視しないといけなくなる。そんなことを……そんな辛くて苦しいことを凛恋にさせたくなかった。でも……俺は警察に通報しなくちゃいけない。
俺は弱い。俺はいざという時に凛恋を絶対に守れるほど強くない。警察の力を借りなければ、凛恋に迫るかもしれない危険を取り除けない。だから……凛恋の安全のためには警察に通報して守ってもらわなければならない。
「凛恋……ごめん」
悔しかった。凛恋の心を守らないといけない俺のせいで、凛恋の心にまた痛い思いをさせてしまうことが。だけど……自分の情けなさを直視することの惨めさを感じることよりも、俺は大切な凛恋を守ることの方が大事だ。だから、今だけ俺は……。
自分の無力さを棚に上げて警察に頼るしかない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます