【二一〇《致命的な問題》】:一

【致命的な問題】


 次の日の昼、コテージの一階で俺は視線の先に居る理緒さんを見上げる。

 理緒さんは、昨晩、海で俺に話した意見を俺以外の全員の前で主張した。それを聞いて、ほとんどの人が視線を落とす。


「筑摩さん、私は凡人くんがやりたいって言うならサポートするべきだと思う」

「露木先生は先生だから反対は出来ませんよ。教え子が社会問題に取り組もうとしてるのに、反対出来る先生なんて居ませんし。でも、私は凡人くんの親友として、凡人くんを好きな一人の女として反対します」

「私も先生だから賛成してるわけじゃないよ。凡人くんは、高校時代から一人で行動しようとするタイプの人だから、無理に止めて隠れて一人で動かれるよりみんなで見守りながら一緒に行動した方が安心だと思ったの。確かに、筑摩さんが言った通り、もしかしたら凡人くんに助けられた高校生の女の子は凡人くんに恋愛感情を持ったかもしれない。でも、それは凡人くんのせいではないし、高校生なら恋愛が全て自分の思い通りにならないって分かってるはず」

「もし分かってなかったら? もし、恋愛が全て自分の思い通りになると思ってたら? 思い通りにならなかったら何でもやって思い通りにしようとする子だったら? もしそうだったら、凡人くんに危害が及ばない保証はないんです」


 俺は理緒さんと真弥さんの話を聞きながら、心の奥に小さなひっかき傷が付くような痛みを感じる。

 昨日からそうだ。理緒さんは人として立ちたくない立場に自ら立って、人として言いたくない言葉を自ら発している。それは、理緒さんの本心であって全く作られたものではないのかもしれない。でも、理緒さんが根は凄く優しく、とても頭が良いことを考えると想像してしまう。


 俺のために反対の立場に立ってくれているのだろうと。

 理緒さんは昨日言っていた。『みんな賛成するに決まってる。特に、凛恋は一番賛成して凡人くんを応援するに決まってる。だから、私は反対するよ』と。


 物事の真理というか、何が正しくて何が間違っているかを判断する時、必要なのは情報だ。そして、その情報は賛成ばかりよりも否定もあった方が多く得られる。みんなが賛成すれば議論の余地はなく決定してしまうからだ。そうなると、見落としてしまう可能性だってある。議論では表に出ずに隠された致命的な問題を。


「それに、さっきも話しましたけどやっぱり確実に効果を出すなら、学生団体みたいに大きな力が必要です。そういう大きな力を運営して指揮するのは凄く労力が必要です。今、凡人くんは大学に通いながらインターンをしています。そして、今は分離不安障害になっている子のケアにも協力してます。その上に学生団体の運営は無理です」

「でも、凡人くん自身も学生団体は自分の力量では難しいって判断してる。だから、他の方法を――」

「他の方法を採るにしても大して必要な労力に差はありません。むしろ、学生団体みたいに沢山の人達で役割を分担する方法を採らなかったら、一人に掛かる負担が増えます。そうなったら、凡人くんの日常生活に支障が出ることだってあります」


 毅然とした態度で真弥さんに反論する理緒さんはやっぱり本心で反対している。もちろん、一方的な議論にならないようにという気もあるのかもしれないが、理緒さんの目と声が一切ぶれなかった。


「理緒の言ってることは正しいと思うよ。でもさ、結局やるのは凡人くんでしょ? 凡人くんはどうなの?」


 理緒さんと真弥さんの話が落ち着いたところで、里奈さんが俺に視線を向けて尋ねる。すると、隣に座っていた凛恋が俺の手を握って口を開いた。


「私……考えが甘かった」


 凛恋のその言葉を聞いて、里奈さんはその場を凛恋に譲るようにテーブルに少し乗り出した体を戻した。


「私はね、凡人のためになるなら何でもするって思ってる。それに、凡人が言うことは全部正しいと思ってる。だから、凡人のやりたいことを、言ったことを否定したくないって思ってる。でも、理緒が言った通り、凡人にとっては大変なことになるし、もしかしたら凡人が危ない目に遭うかもしれない。そう思うと、賛成するって言った言葉を今言えるかって言われたら……言えない。だって……私が大切なのは凡人だから……誰かのために凡人が何かをして凡人が傷付くなんて嫌だから……たとえそれが私自身のことでも、絶対に凡人に傷付いてほしくない。みんなで考えれば、みんなと一緒なら何とかなるって思った私は凄く考えが甘かった」


 俺の手を握る凛恋の手は冷たくなって小刻みに震えている。そして、視線を落として呟いた。


「今の私は……凡人に何もしないでほしい」

「凛恋……」


 俺は凛恋の背中を擦って、ポロポロと涙を流す凛恋の背中を擦る。


「それで、肝心のカズはどうなんだよ」

「俺は……」


 俺は栄次に話を促され、心の中でまだ考えが纏まっていないことで言葉を発せなかった。

 人は迷う生き物だ。だから、俺の今の気持ちも人として正しいのかも知れない。


 自分が正しいと思うことをやろうとした。しかし、その結果で自分以外の大切な人に危険が及ぶ可能性だってある。

 何事にもメリットデメリットが存在しリスクがあるのは常だ。だから、人は議論してメリットデメリットを出し合い、やると決めたらリスクマネジメントをして安全に目標が達成出来るように計画を立てて行動する。だけど、もし目指している目標に対してあまりにもリスクが大きければ中止することだってあり得る。


 レディーナリーの企画会議でも、企画の練り直し以外に却下も沢山ある。その前に、編集長である古跡さんのところで却下される企画も含めれば、その却下される企画の数は膨大だ。

 却下されることは悪いことじゃない。それを知っているし、却下されたから諦めて新しい企画を立てることも間違ってはいない。それは、編集部のみんながちゃんと目標を見失っていないからだ。


 良い雑誌を作る。みんなはその目標を持って日々仕事をしている。自分の企画を載せたいという思いもあるが、そのエゴで雑誌全体を壊すようなことは絶対にやらない。

 それを思って、俺は自分のことを考えた。俺は、そもそも何をしたかったのだろうと。


 夜の駅前で、出会い系サイトに頼った一人の女の子。その子は俺と同じように、実の母親から存在を否定されていた。俺は、その子が自分のことのように思えて、その子を放っておくことが出来なかった。だけど、俺が踏み込んだせいでその子の心に暗い闇を作ってしまった。それが申し訳なくなって――いや……怖くなって俺はその子と距離を取った。そして……。


「俺は……罪滅ぼしのためにやろうとしてたんだ……」


 俺は気付いた。自分の心の中に隠された致命的な問題に。

 俺は何か出来ることはと思って、施設や里親に預けられる子達の現状を広めようと思った。でもその根本的な考えは酷く不誠実だった。だから、俺は学生団体という効果的な方法を除外した。

 俺は、自分が満足するために人が困っている大きな問題を利用しようとしたんだ。


「ごめん……少し一人に」

「「「ダメっ!」」」


 凛恋と真弥さんと理緒さんが同時に俺を引き止めた。それで俺は、凛恋に強く腕を引っ張られて動きを止められた。


「絶対に一人になんてさせない。凡人、手が震えてる」


 凛恋が寄り添って俺の体を温めてくれるが、俺の体には全身を震わせる寒気が走る。


「そう思うんだったら、俺は凛恋さんと同じように何もしないべきだと思う。中途半端な覚悟で何かしようとして傷付くのはカズだろ。だったら、何もしない方が良い。無理に何かをしても、何も生まれずにカズが傷付くだけだ」


 栄次は冷静に淡々とした口調で言う。その栄次の隣では、希さんが俺に視線を向けていた。その希さんの視線は優しく温かかった。


「大丈夫。みんな知ってるよ、凡人くんが軽い気持ちで誰かの力になりたいって言わないことくらい。それと同じくらいみんな知ってる。凡人くんが何でも出来る人じゃないことくらい。だから大丈夫」


 希さんが繰り返してくれる大丈夫には、とてつもない安心感があった。でも、その安心感で俺が気付いた致命的な問題が消えるわけじゃない。


「凡人くん、私は切っ掛けがどんなことだとしても、誰かが困っていることを解決しようと考えたことはとても大切だと思うよ。大抵の人は誰かが困っていることは気付きもしないし、気付いたとしても自分から解決しようなんて考えない。見て見ぬ振りをしたり、自分以外の誰かがやってくれるって高を括ったりする。そんな人達に比べたら、凡人くんの考えは凄く偉くて素敵なことだよ」

「真弥さん……俺は自分の罪悪感を拭うためにやろうとしてたんです。それは――」

「罪悪感って悪いことなのかな」


 俺の言葉の途中で、里奈さんがそう言った。その言葉を発した里奈さんは、顔を俯かせていて声にも元気がなかった。


「上手く言えないんだけどさ。私……凛恋と凡人くんが一度別れた切っ掛けを作――二人を別れさせた後、自分がやってしまったことを凄く後悔した。やっちゃいけないことをやってしまって、大切な友達のことを本当に取り返しが付かないくらい傷付けたって思った。でも、私はどうしても凛恋と仲直りしたかった。私が凛恋と仲直りするまでに……ううん、まだ私の心の根っこにはあの時の罪悪感はある。確かに私がやったことは悪かった。でも、あの時も今も感じてる罪悪感は悪くないと思ってる。この罪悪感がなかったら、私は凛恋と仲直りしようと考えなかったはずだから。だから、何かを間違ってた、悪いことをしたって振り返ってる凡人くんは何も悪くないと思う。確かに間違えたかも知れないけど、凡人くんは今その間違えに気付いて考えを変えてるでしょ?」

「里奈さん……」

「凡人くんは高校の頃からずっと頭が良いし優しい。それに、凄く頼り甲斐のある人だよ。でもさ、私が言うと全然説得力ないけど……人は間違えるものじゃん。それと、私と凡人くんには、そういう間違いを、普通だったら取り返しの付かないような間違いをしても受け止めてくれる人達が周りに居るじゃん。私がやった間違いに比べたら、凡人くんの間違いなんて全然軽いと思うし。凡人くんは、私みたいに何か行動する前に気付けたんだからさ」

「ありがとう里奈さん。そうだよな、自分の考えや行動を顧みるのは悪いことじゃない。だから、俺もそう考えるから里奈さんも、もう罪悪感なんて考えないでほしい」

「ありがとう、凡人くん」


 里奈さんに感謝して言うと、里奈さんの背中に小鳥が手を回して優しく撫でる。俺はそれを見てから立ち上がる。でも、凛恋は俺を一人で立ち上がらせずに、手を握ったまま一緒に立ち上がった。


「凛恋、少し一人で――」

「ダメ。歩きたいなら私も一緒に行く」

「分かった。ごめん、みんなちょっと歩いてくる」


 頑なな態度の凛恋を連れて外へ出る。でも、海までは行かずに、コテージ周囲の遊歩道の途中にあったベンチに腰掛けた。そして、隣に座った凛恋は、夏の暑さで少し汗ばんだ俺の腕を両手で抱き締める。


「理緒の言うとおりだった。凡人は良いことをしようとしてるけど、それが凡人にとって良いことか分からない。それに……夏美ちゃんは良い子だと思うけど、私は夏美ちゃんの全てを知ってるわけじゃないから」


 辛そうな声で凛恋が言う。辛くないわけがない、凛恋は優しい子だ。夏美ちゃんに凛恋が何か悪いことをされたのなら話は別だが、夏美ちゃんは凛恋に何もしていない。そんな夏美ちゃんを、想像や予想、可能性で悪く言うということに凛恋が何も感じないわけがない。それは、凛恋だけじゃなく理緒さんもそうだ。


「凡人は人の深いところまで入っていけるよね。私だったら迷うことでも、凡人はどんどん前へ進んで行く。凡人は友達のためにどんな苦しい場所からも助け出してくれる。それで私も助けてもらったし、希達もみんな私と同じ。だから、私達は凡人のことを信頼して、親友で居るし私は凡人の彼女で居る。…………考えた結果でさ、無理だって思うのは悪いことじゃないよ」

「分かってる。俺が何でも出来る万能人間なんかじゃないってことくらい、俺が一番分かってる。出来るか出来ないか考えて、出来ないって判断してやらない選択が間違ってないってことも分かってる。でも、そうしたら俺は自分のために人として大切なものを切り捨ててしまうんだ。道徳心もそうだし人情をさ」

「ほんと……凡人ってずっとずっとそう。ずっとずっとずっと……凡人は凄く優しい。そういう凡人が大好きで、私は怖くなった」


 凛恋は俺の両頬を両手で優しく包み込み、ゆっくりと唇を重ねる。温かい凛恋が必死に俺を包み込んで癒やしてくれようとしている気持ちが流れ込んでくる。それに、俺は思わず目から涙を溢れさせた。


 俺は全くの無力ではないのかもしれない。でも、確実に言えるのは俺は酷く非力だ。自分一人で出来ることなんて本当に限られている。大抵のことを、俺は誰かの力に頼らなければ成し遂げることは出来ない。そんな俺が、日本という巨大な集団を変えようとしたことは、間違いではないが俺のおごり高ぶりだったのだ。


 正しいと思えば何でも出来ると、正しいと信じて歩き続ければいつか必ず結果が出るものだと、正しいことはどこまで行っても正しいと思い込んでいた。

 自分が正しいと思ったことが正しいなんてことはあり得ない。それは、他人と正しいことの認識の違いなんて話じゃない。もっと単純な話だ。


 人は間違え――人は……勘違いする生き物だ。人は物事の本質を見誤って誤認して、正しいと信じ込んでしまう。今回の俺は、それだったのだ。

 罪悪感は里奈さんの言った通り悪くはない。罪悪感を抱いたからこそ、俺は自分の心の中に現状に対する迷いを抱いた。だから、その現状に対する迷いを解決するために考えた。だが、考えた結果、それは正しくはなく、それを実現するために俺の力はあまりにも弱かった。

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