【二〇三《オペラ・ゴーストはhihiEを愛する》】:二

 予想の遥か上を行っている状況に、思わず敬語になりながら空条さんに続いてリムジンを降りた。

 想像していたよりもスケールが大き過ぎる。別荘と言っても、マンションの一室とかを一定期間借りるタイプかと思ったが、一軒家で規模も桁違いだとは思わなかった。いったい、この別荘はいくらしたんだろう。

 短い階段を上ると、扉の脇からスーツ姿の男性が扉を開いた。


「お嬢様、お帰りなさいませ」

「ありがとうございます。お願いがあるんですけど、軽い食事の支度をお願いします」

「かしこまりました。お食事は入浴後に合わせて用意いたします。既に浴室の準備は済ませてあります。お嬢様のご学友の方もごゆっくりおくつろぎ下さい」

「えっ?」


 素泊まりを考えていた俺は、食事と風呂が用意されることに驚く。しかし、優しい空条さんの性格を考えると、ただ寝泊まりさせるだけにするわけがない。


「多野くん。ゆっくりお風呂に入って落ち着いた方が良いよ。大丈夫、着替えも用意してもらってるから」

「何から何まで、本当にありがとう」

「ううん、大切な友達をもてなすのは当然だよ。付いてきて」


 俺は歩き出す空条さんに付いて行きながら、壁際に飾られている絵画を横目に見ながら体をガチガチに堅くした。




 銭湯の大浴場より狭い。でも、一般家庭にある浴室の倍の広さはあった。そんな浴室を目の当たりにし、乗って来たリムジンと別荘の外観を思い出し「不況と言われる世の中でも持っている人は持っているな」という感想を抱いた。

 浴室も広いが脱衣室も広く、俺は脱衣室にあったカゴの中に用意されたバスローブを羽織る。初めてバスローブを着たが、下着を着けないからか何だか色々な場所が不安定で不安だ。


「うわっ! す、すみません! 居ると思わなくて!」


 バスローブ姿で不安を感じながら廊下に出ると、目の前に空条さんの別荘に入った時に扉を開けた男性が立っていた。


「お嬢様に多野様がお泊まりになる部屋へご案内するように言われております。こちらへどうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 スーツ姿の男性が何者であるかは分からないが、空条さんのことをお嬢様と言っているから、空条さんの家で雇われている使用人か何かをしている人なのは間違いない。

 男性に案内されるまま階段を上って二階に上がると、男性は高そうな両開きの扉を開いて軽く頭を下げた。その扉の先には、ソファーに座っているバスローブ姿の空条さんが居て、俺を見てソファーから立ち上がり微笑んだ。


「多野くん、そこに座って」

「えっ?」


 立ち上がった空条さんが手で指し示している先を見ると、丸テーブルとその丸テーブルを挟むように置かれた二脚に椅子が見える。更に、丸テーブルの上にはサンドイッチとクラッカーにチーズや生ハムが乗ったカナッペ、それからワインのボトルとグラスが二つ置かれていた。


「ワインだけ開けてもらって良いですか? その後は下がって下さい」

「かしこまりました」


 俺が空条さんに勧められるまま椅子に腰掛けると、向かい側の椅子に空条さんが腰掛ける。そして、横からスーツ姿の男性がワインオープナーを使って手早くワインを開け、グラスにワインを注いでボトルをテーブルの上に置いた。


「ありがとうございます」

「失礼します」


 空条さんがお礼を言うと、スーツ姿の男性は丁寧で軽やかな身のこなしで部屋を出て行く。


「多野くん、一杯くらいは付き合ってくれる?」

「ああ」


 お酒を飲む気分ではなかったが、空条さんにはお世話になりっぱなしだし、一杯くらいならとグラスを手に取る。


「じゃあ、パリで出会えたことに乾杯」

「乾杯」


 微笑んで差し出した空条さんのグラスに軽く自分のグラスを当てると、空条さんははにかみながらワインを一口飲んだ。俺も空条さんに続いてワインを一口飲む。相当良いワインなのか、渋みもほとんどなくすっと喉を通っていく感覚がした。かなり飲みやすいワインだ。


「でも、本当に良かった。多野くん、もう少し遅かったらただの怪我じゃ済まなかった」

「それは本当に感謝してる。それにお風呂と寝る場所まで貸してもらえて」

「多野くんじゃなかったら入れないけどね」


 クスッと笑った空条さんは小さくため息を吐いた。


「夏休みに入る前にね、父から大量のお見合い写真が送られて来て。それで全員との食事の予定も決めたとか言われて……」

「それはかなり強引だな……」

「でしょ? だから、パリまで逃げて来たの。ロサンゼルスでも良かったんだけど、今年はパリかなって思って。でもパリにして良かった。夏休みに多野くんに出会えたんだから」


 グラスからワインを上品に飲む空条さんを見ながら、ロサンゼルスでも良かったということは、ロサンゼルスにも別荘があるのだろうと思う。もしかしたら、この別荘と同じ規模の別荘なのかもしれない。


「空条さんがお金持ちってのは知ってたけど、正直に言うとここまでとは思わなかった」

「私がお金を持ってる訳じゃなくて、私の父親が持ってるだけなんだけどね。結構自由に使わせてはもらえてるけど」


 空条さんはグラスに入ったワインに視線を落として肩をすくめる。


「家がお金持ちで良いことなんてお金に困らないことだけだよ。それ以外は不自由でしかない。家を出るまでは四六時中監視するみたいに人がついて回ってたし、習い事とか色々させられて大変だった。それに将来も勝手に決められそうだし」


 お金に困らないことは何よりも良いことだと俺は思う。世の中、金さえあれば生きていけるという面が大きいからだ。もちろん空条さんが言うように、お金だけあっても他が窮屈に締め付けられたら、息が詰まってしまうとは思うが。


「多野くん」

「ん?」

「もう少しリラックスして。そんなに緊張してたら眠れないよ。明日も八戸さん達とパリ観光なんだよね?」

「ああ。とりあえず朝一凛恋を迎えに行くよ。もしかしたら空条さんが寝てる間に出ることになるかもしれない。でも、凛恋のことが心配だから」


「あの……私も多野くん達と一緒にパリ観光して良い?」

「俺は全然構わないけど、空条さんは良いの? 何か予定があるんじゃ?」

「さっきも言ったけど、父親から逃げるためだから特に何も予定がないの。だから、仲間に入れてくれると嬉しい」

「分かった。明日、凛恋達には俺から――」

「ううん。八戸さん達には私からお願いする。私が仲間に入れてもらうんだから、自分でお願いしたい」

「そっか。萌夏さんも良い人だし、きっと空条さんも仲良くなれるよ」

「うん。ありがとう、多野くん」


 美味しそうにワインを飲む空条さんは、カナッペを一つ食べる。

 凛恋はもう眠っただろうか。きっと希さんが一緒に居てくれるから大丈夫だ。でも……俺は結果的に女の子二人だけにしてしまっている。


「多野くん?」

「ごめん……凛恋達のことを考えてて」

「心配?」

「ああ。絶対に誰も入れるなって言ったし部屋も開けるなって言ったけど、女の子二人は心配で」

「二人共、小学生じゃないんだから大丈夫だよ」

「そうなんだけどさ……」


 空条さんにそう答えて、俺はワインで口を潤す。空条さんの言うとおり、凛恋も希さんも子供じゃない。だけど、海外に女の子だけというのは、本人達ではなくそういう状況下に置いてしまった俺の方が心配だ。


「パリに来てからワインにハマったの」

「そうなんだ」

「あっ、でも毎日ワインばかり飲んでるわけじゃないよ? 夕食とか夕食後に少したしなむ程度だけ」

「俺はワイン自体をあまり飲まないけど、美味しいワインだね。凄く飲みやすい」

「良かった。多野くんと二人きりで飲むのって初めてだよね?」

「そうだな。確かに、空条さんと二人でってのはないかも」


 日頃、俺はほとんど飲み会の場には参加しない。前までは飾磨がどうしてもという時があれば参加していたが、飾磨の連れてきた男に絡まれてから行くのを辞めている。空条さんはそれよりも前に飾磨の飲み会は渋るようになった。理由は、言い寄ってくる男が面倒だかららしい。


「八戸さんも居るし二人でってのは誘い辛かったんだ」

「まあ、結構凛恋って心配性だからな」

「それは多野くんもでしょ?」


 からかうように笑った空条さんは、ワインを飲み干して空になったグラス越しに俺を見る。俺は、テーブルに置かれたワインボトルを手に取って首を傾げる。


「おかわり、多野くんに注いでほしいな」

「注ぎ方のマナーは分からないけどいい?」

「私もマナーなんてよく分からないから大丈夫。お願いします」


 ほんのり頬を赤くした空条さんのグラスにワインを注ぎ、再びワインを飲み始める空条さんに合わせて、自分のグラスに口を付けて傾けた。




 次の日、空条さんに車を出してもらって俺達が宿泊しているホテルに入る。相変わらず俺は中に入れてもらえず、代わりに空条さんが中へ入ってくれた。


「凡人くん!」

「萌夏さ――」


 ホテルの正面入り口で突っ立つ俺に、萌夏さんが駆け寄って飛び付く。そして、俺の体を力一杯抱きしめた。


「心配した……」

「心配掛けてごめん」


 すぐに俺の体から離れた萌夏さんは、俺が手に巻いた包帯を見て、そっと包帯が巻かれた手に触れる。


「この怪我……どうしたの?」

「昨日転んで。でも、ただの擦り傷だから大丈夫」

「良かった……」


 萌夏さんがホッと息を吐くと、俺は横からまた衝撃を受けた。


「凛恋……」

「良かった……凡人……」


 飛び付いてきた凛恋を抱きしめ返すと、俺は凛恋の脇にキャリーバッグがあることに気付く。


「凛恋、なんで荷物を?」

「空条さんがこのホテルを出て、空条さんの別荘に泊まってって言ってくれたの。私もこんなホテルに泊まるなんて嫌だったから、お言葉に甘えちゃった」

「多野くんも八戸さん達と一緒の方が安心でしょ? 皆さんの荷物をお願いします」


 希さんと歩いて来た空条さんは、俺に笑顔で言ってボディーガードの人達に指示をする。


「ありがとう。でも、そこまでしてもらっても良いのか?」

「良いの良いの。部屋は余りまくってるし。えっと……あなたが多野くんの高校時代の同級生?」

「私は切山萌夏。よろしく」

「空条千紗です。よろしく。切山さんもどう? 多野くん達が居る間だけでもうちの別荘に」

「じゃあお言葉に甘えさせてもらっても良い?」


 女性陣達が話をトントン拍子に進めていき、急激に仲を深めて行くのを見ていると、ホテルの前に重厚な排気音を響かせた眩しい黄色のスポーツカーが停車する。そのスポーツカーを見た瞬間、萌夏さんが俺の後ろに隠れて、後ろから震える手で俺の手首を掴んだ。


 黄色のスポーツカーはシザーズドアという上にドアが開く方式で、運転席のドアが上に大きく開くと、真っ白いスーツに黒いワイシャツを着た白人男性が降りてきた。

 明るい金髪をオールバックにしたその白人男性は、俺ではなく萌夏さんを見て微笑む。


「萌夏さん、あいつが?」

「そう……ホテルの経営者の息子……」


 萌夏さんが怯えている様子から予想はしていたが、俺の視線の先に居る以下にも良いところのお坊ちゃんという外見のやつが、萌夏さんを傷付けた犯人らしい。

 お坊ちゃんが乗ってきたスポーツカーの後ろには、黒光りした太めのセダン車が二台停車する。そのセダン車から、ピンクベージュのスーツに身を包んだアジア系の顔立ちをした女性が降りてくる。


 お坊ちゃんと二言三言言葉を交わした女性は、俺にきびきびとした動きで近寄って来て、全く表情を変えずに淡々とした声を発した。


「こちらの方は、オーリックホテルズCEO、モーリス・オーリック様の御子息であるレオポルド・オーリック様です。私はレオポルド様の通訳をしております」

「それで? 俺に何の用ですか?」

「レオポルド様は皆さんをセーヌ川のクルージングにご招待して差し上げるとおっしゃっております」

「じゃあ、俺だけ行くと伝えて下さい」

「凡人くん! 一人でなんて危ない!」


 通訳の女性に答えると、萌夏さんが後ろから掴んだ俺の手を振って名前を呼ぶ。しかし、俺は萌夏さんではなく空条さんの方を見て笑顔を向けた。


「空条さん、みんなのことをよろしく。俺は、あのお坊ちゃんの話を聞いてくるよ」

「私は多野くんだけ行かせるのは容認出来ない」


 空条さんは萌夏さんと同じで俺が一人で行くことを否定する。しかし、俺は首を横に振って否定を返す。


「何してくるか分からない男の船にみんなを乗せるわけにはいかないだろ?」


 俺が肩をすくめて答えると、凛恋が俺の腕をしっかり抱きしめて俺を見る。


「私は絶対に凡人から離れないから」


 その凛恋の隣に立つ希さんは、怖い顔で俺を睨む。


「凡人くんを一人にしてろくなことなんて起きないし、付いて行った方が安心出来る」


 その、全く信用されてない希さんの言葉に苦笑いを浮かべて、俺は諦めて小さく息を吐く。しかし、俺は首を振って否定した。


「レオポルド様はそちらの四名の同行を求めています」

「ダメだと言って下さい。信用出来ない人間の船に恋人と友人達を乗せることは出来ません。そうじゃなかったら、話はしないと」

「凡人! 私も――」

「ダメだ。絶対に凛恋達を連れて行かない」


 相手は全く信用出来ない相手。しかも、萌夏さんを傷付けた相手だ。そんなやつの所有物であるクルーザーになんて乗せられない。もしそこで、レオポルドの言うことを聞かなければ降ろさないと言われたら抵抗出来ない。


「レオポルド様は、あなたの要求を飲むそうです」


 俺は通訳の女性の言葉を聞いて、視線をレオポルドに向ける。そのレオポルドはニッコリと微笑んでいる。しかし、そのレオポルドの視線は俺ではなく、俺の後ろに向いていた。

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