【一五九《幸せな片想い》】:二

『切山萌夏です。多野凡人くんはご在宅でしょうか?』

「ご在宅です」


 インターホンの受話器を取った瞬間、丁寧な口調の萌夏さんの声が聞こえる。その萌夏さんに答えると、モニターに映る萌夏さんが眉をひそめる。しかし、すぐに小さく笑ってカメラの前にケーキの箱を持ち上げてみせた。


『少し話せない?』

「良いよ。今行くから待ってて」


 受話器を元に戻し、俺は歩いて玄関に行く。モナカも俺の足元について来た。


「いらっしゃい」

「お邪魔します。モナカ~お邪魔します」


 傘を畳んだ萌夏さんがドアを抜けて廊下に上がると、廊下の端まで一緒に来たモナカを撫でる。


「悪いな。気を遣ってもらって」


 俺が視線をケーキの箱に向けると、萌夏さんは首を横に振りながら微笑む。


「練習ついでに作ったやつだから」

「それでもありがとう」

「ううん。それと、今日はモナカのために犬用ケーキも挑戦してみたの」

「モナカにも!? モナカ、良かったな。萌夏さんのケーキが食べられるなんて」


 萌夏さんに撫でられているモナカは嬉しそうにワンワン吠えて応える。

 萌夏さんと一緒にまずはいまにあるモナカのスペースへ行く。そして、萌夏さんがモナカの餌皿に綺麗なケーキを置いた。


「これ、犬用のケーキなのか? 人間が食べるやつと変わらないように見えるけど?」

「使ってる素材が違うかな。人間が食べても味がなくて美味しくないよ」

「でも、モナカはガツガツ食ってるな」

「喜んでもらえて良かった」


 一心不乱に萌夏さん特製ケーキを食べるモナカ。しかし、瞬く間にケーキを食べ切ってしまう。


「モナカ~、そんなに早く食べたらもったいないだろ……。もうちょい味わって食べろよ」

「良いの良いの。早く食べてくれたってことは、それだけ喜んでくれたってことだから。ありがとう、モナカ」


 ワシャワシャと両手でモナカを撫でた萌夏さんは立ち上がってニコッと微笑む。


「さて、私達もケーキ食べようか」


 俺はインスタントコーヒーを淹れてから、萌夏さんと一緒に部屋へ行く。そして、萌夏さんがケーキを用意した皿の上に出しながら話し始めた。


「露木先生、遂に凡人くんに告っちゃったんだね」

「萌夏さんは誰から聞いたんだ?」

「本人からメールがきた」

「そうか」

「私は、卒業式の日に告白するんだと思った。あの、食事会で露木先生が凡人くんを呼び出した時に」


 萌夏さんはコーヒーを飲みながら淡々と言う。凛恋の言う通り、萌夏さんも露木先生の気持ちに気付いていたんだ。


「露木先生は真面目だから、生徒と教師の立場じゃなくなってから告白すると思ってたから。でもね……露木先生って意外とガツガツしてる人みたい」


 萌夏さんが乾いた笑いを浮かべた。そして、俺をチラリと見て困ったような顔を向ける。


「名前で呼ばされてるんだって?」

「それは誰から?」

「それも露木先生から。凡人くんには真弥さんって呼んでもらってるって言ってたから。それと、誰にも遠慮するつもりはないって」

「俺は凛恋が好きだから、真弥さんと付き合うつもりはない」


 俺がそう宣言すると、萌夏さんはケーキをフォークで食べながらボソリと口にした。


「露木先生、かなり本気だから、二、三回振られたって諦めないかもね。そういうの見てるとね、羨ましくなる。あの人、多分凡人くんと付き合えるなら、私達に嫌われても良いって思ってる」

「えっ……」

「露木先生は、私が出来なかったことをやろうとしてる」

「出来なかったこと?」

「そう。もし露木先生が凡人くんと付き合うとしたら、略奪愛じゃん? しかも、元教え子同士のカップルから彼氏を奪うって相当よ。周りから見た印象はかなり悪い。でも、露木先生はそれでも凡人くんを凛恋から奪おうとしてる。たとえ、凛恋に嫌われて恨まれるって分かってても。そんなこと、私には出来なかったからさ」


 萌夏さんは大きくため息を吐く。俺はケーキを食べながら、視線をカップの中で渦巻くコーヒーに向けた。


「じゃあ、本題に移ろうか」


 両手でカップを持ってコーヒーを飲む萌夏さんは、視線を俺に向けずにテーブルの天板へ落とす。さっきの真弥さんの話は本題ではなかったようだ。


「露木先生が花火大会の時に言った、凡人くんに相応しい人の話。あの話だと、私は真っ先にそれから除外される人だと思う。私は……凡人くんに助けてもらいたいって思うから」

「萌夏さん……」

「だって仕方ないよ。こんなに頼りになる男の人、今まで出会ったことないんだもん。凡人くんが普通の人間だって分かってるのに、凡人くんなら私の心を救ってくれるって思えるの。だから、露木先生が言ってる相応しい相応しくないで言ったら、私は全然凡人くんに相応しくない」


 カップをそっとテーブルの上に置いた萌夏さんは、足を伸ばしてスカートの裾を整えるように手を動かす。


「相応しくないって言われて、相応しくないって自覚して、それで絶対に私のことなんか凡人くんは好きにならないって分かってても、やっぱり好きなものは好きなんだよね。凛恋と友達でも居たいから、結局今の親友って立場に収まり続けてる。だって凛恋とも凡人くんとも話せなくなるなんて嫌だしさ。二人と親友じゃなくなったら、私は生きて行けない」

「俺と凛恋は萌夏さんの親友だ。ずっと、ずっと親友に決まってる」

「うん。でもまあ、複雑なのは複雑だけどね。やっぱり、凡人くんのことが好きだからさ。休日に一人でケーキを作ってる時、今頃凛恋とデートしてるのかな~とか思ったら、ちょっと胸が締め付けられるんだ」


 笑いながら言う萌夏さんは、腕を伸ばして背伸びをしながら息を吐く。その萌夏さんに俺は、尋ねた。


「突き放してもらった方が萌夏さんは良かったんじゃないか? 下手に友達で居ようなんて言われるよりも」


 俺の問いに、萌夏さんは激しく首を振って否定する。


「そんなことない。さっきも言ったけど、私は二人が親友じゃなかったら、絶対に生きて行けない。…………内笠のことで、絶対に心を押し潰されてた。そうならなかったのは凡人くんと凛恋が居たから。だから、私は凡人くんに親友で居てもらえて良かった。だから、私達はずっと親友。ただ、私は永遠に親友に幸せな片想いをしてるだけ」


 そう言った萌夏さんは、俺を見て微笑む。その笑顔に俺は一安心した。

 俺がやったことは間違いではなかった。萌夏さんは笑ってくれたし、俺と親友で良かったと言ってくれた。それだけで、答えとしては十分過ぎる。


「ただ、私にも少しは愚痴ってほしいな。相談までしてほしいとは言わないけど、小さなストレスを発散する相手くらいにはしてほしいとは思う」

「俺は頼ってるつもりなんだけど……」

「でもそうなんだよね。そうやって、人に弱さを見せないところも格好良――ご、ごめん」


 ボッと顔を赤くした萌夏さんは慌てた様子で両手を俺に向かって振る。そして、真っ赤な顔のまま俺に向かってはにかんで言った。


「凡人くん、これからもよろしくね」




 萌夏さんが帰って行って、お腹いっぱいになったモナカも眠ってしまい、俺は家で完全に一人を過ごしていた。

 スマートフォンでぼちぼちインターネットを見ているとメールが一通届いた。差出人は理緒さんだった。


『今から家にお邪魔しても良いかな?』


 そのメールに俺は『良いよ』とメールを返す。今日はよく人が来る日だなと思いながら体を起こすと、すぐに家のインターホンが鳴った。


「はい」

『こんにちは。筑摩です』

「今開ける」


 受話器を戻し玄関のドアを開けると、ひさしの下で傘の水気を落とした理緒さんが傘立てに傘を立てて置く。


「凡人くん、こんにちは」

「こんにちは。上がって」

「お邪魔します。凡人くん、はいこれ」

「気を遣わなくて良かったのに。でも、ありがとう」


 理緒さんが、ドーナツ屋のロゴが入った箱を俺に差し出してくれる。どうやら、お土産に買ってきてくれたらしい。


「飲み物を持って来るから部屋で待ってて」

「私も手伝うよ」

「お客様だしゆっくりしてて」

「ダメ。飲み物を持っていくくらい手伝う」


 理緒さんはジッと俺を見て首を横に振りながら俺について来る。まあ、手伝ってくれると言うのなら断る理由もない。


「凡人くんはまだこっちに居るんだよね?」

「ああ、夏休みが終わる二日前に帰るつもり」

「そうなんだ。私もそれくらいに帰ろう」


 インスタントコーヒー用にお湯を沸かしながら振り返ると、後ろの手を組んだ理緒さんがニッコリ微笑んだ。


「さっき同じ生徒会だった人達と久しぶりに会って、ドーナツ屋さんでお茶してきたの。みんなに、彼氏出来たのー? って聞かれてちょっと疲れた」

「まあ、恋の話は良いドーナツのトッピングになるかもな」


 お湯が沸いてコーヒー粉の入ったカップに注ぐと、理緒さんが流しに置いてあった洗ったカップを見て首を傾げた。


「誰か来てたの?」

「ああ、萌夏さんが来てたんだ」

「萌夏が……そうなんだ」


 俺はカップを持って部屋に行く。そして、テーブルにカップを置いて座ると、理緒さんが俺の隣に座ってコーヒーカップを手に取った。


「いただきます」

「どうぞ」


 俺も理緒さんに続いてコーヒーを一口飲むと、理緒さんは小さくため息を吐いた。


「疲れてるな」

「うん……ちょっとここまで来る間に男の人に三回声掛けられて。三人共、少ししつこかったから面倒くさかったなって思って」

「モテる女子は大変だな」


 ここまで来る間に三回ナンパされたなんて、やっぱり誰が見ても、可愛いという理緒さんに対する評価は変わらないらしい。


「モテるのは凡人くんの方だよ。露木先生まで本気にさせちゃって」

「……それって誰から聞いた?」

「露木先生からメールがきたの。真弥さんって呼んでもらって告白もしたって書いてたよ」

「うんまあ……でも――」

「露木先生、断らせなかったでしょ?」

「えっ? あ、ああ……断ろうと思ったんだけど」

「ちょっと……ううん、結構大人げないな、露木先生」

「大人げない?」


 理緒さんの言葉に、俺はカップを持ちながら首を傾げる。

 あの時の真弥さんを俺は、圧倒的な大人だとは感じたが大人げないとは思わなかった。

 そんな首を傾げる俺を見た理緒さんは、困ったように笑う。


「凡人くんって結構言葉にこだわる節があるから。友達になろうって言わないと友達なのか分からないとかあるし」

「それがなんで大人げない話になるんだ?」

「断ったら、凡人くんの中で区切りを付けられちゃうからだよ。区切りを付けられたら、もう凡人くんの中で終わっちゃう。終わらされちゃったら、露木先生は凡人くんに振り向いてもらえる可能性がなくなる。だから、凡人くんに断らせないで、自分のことを凡人君の中で区切らせなかったんだと思うよ。多分だけど」

「そうなのかなぁ~」


 そんな深く考えたことだったのだろうかと思う。まあ、理緒さんは多分と言っているし、それは可能性の話でしかないのだと思う。


「そういえば萌夏は何か用事があったの?」

「ああ、萌夏さんは色々と話したけど、これからも親友で居ようって言ってくれた」

「そっか、萌夏はそっちを選んだんだ」


 なんだか、理緒さんだけが納得しているような雰囲気で、俺は理緒さんが何を納得したのか分からずまた首を傾げる。


「今日は凛恋と会わなかったの?」

「ああ、今日はお母さんと一日買い物に出るって言ってた。親子水入らずってやつだな」

「じゃあ、今日は凛恋に構ってもらえないんだ」

「まあ、凛恋も家族の用事があるしな」

「そっか。家の人も誰も居ないよね」

「ああ。爺ちゃん婆ちゃんは夜遅くなりそうだし、栞姉ちゃんも今日は遅番シフトだからな」

「そっか。じゃあ……誰も居ないんだ」


 理緒さんは両手を腿の上で組んで置く。そして、小さく細く息を吐いた。


「あのね、凡人くん」

「ん?」

「この前の、露木先生が言ったこと覚えてる?」

「この前って、俺が人に頼らないって話?」


 俺の言葉に、理緒さんは黙って頷いた。萌夏さんもその話をするために来た。理緒さんも萌夏さんと同じ目的だったのだろう。


「露木先生が言ったのは、凡人くんの彼女に相応しい相応しくないって話じゃないと思う」

「えっ?」

「露木先生は凛恋や、凡人くんを好きな私や萌夏だけじゃなくて、栄次くんや瀬名くんにも言ったの。だから露木先生は、友達ならもっと凡人くんのことをちゃんと見てあげてって言いたかったんだと思う」


 確かに花火大会の日の夜、公園には栄次達も居た。それに、瀬名の彼女の里奈さんも居た。あの場所には俺の友達全員が居た。ということは、友達に向けた言葉というのも納得出来る。


「じゃあ、真弥さんが俺のことを好きだって言うのは、冗だ――」

「それは本気だよ。それも、凛恋にとっては凄く困るくらい本気も本気の好き」


 俺は花火大会の日のことが、全て真弥さんがみんなに自分の考えを伝えるためだけのことなのかと一瞬思った。しかし、理緒さんに否定されてから、すぐに俺の考えを否定する答えが自分の中から出てくる。

 真弥さんは冗談でキスするような人じゃない。そう考えると、俺の自分に都合の良い考えを否定するには十分だった。


「多分、この前の事件がなかったら、露木先生はあのまま見守ってたかもしれないね。私達を、それから凡人くんと凛恋を……」


 この前の事件。それは内笠の事件のことだ。

 内笠の身勝手な欲望によって引き起こされた事件に俺は巻き込まれた。真弥さんもそれについて激しく感情を剥き出しにして俺へ訴えた。だから、あの事件が何かを変えたのは理緒さんの言う通りだ。


「私、露木先生が本気で凡人くんのことを好きになって、自分を好きになってもらおうとさせてるのが分かる。だからね、私……」


 理緒さんは俺の方を向いて真っ直ぐ見つめる。


「私も、凡人くんに相応しい人になる。でもそれは友達としてじゃなくて、恋人として」


 凛とした理緒さんの言葉に、俺はただジッと視線を返すことしか出来ない。でも、聞き逃したわけではない。意味が分からなかったわけでもない。

 部屋はシンとしている。しかし窓の外では、シトシトと弱々しく降っていた雨音が、一気に強く激しくなるのが聞こえた。

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