【一五二《ブラコン》】:一

【ブラコン】


 庭の芝生の上にあぐらを掻いて、俺は視線を下に落とす。視線の先には、俺をジーッと見上げるそいつが座っている。


 ピンッと伸びた三角の耳に、キラキラとした黒真珠のような二つの目。そして、尖った顎の先にはしっとりとした光沢のある黒い鼻が付いている。その鼻は、俺の匂いを嗅ぐためかヒクヒクと動いていた。


 そいつはどう見たって、日本犬の一種である柴犬だった。

 昨今、柴犬は海外でも人気の犬種らしい。それは、愛くるしい見た目と性格の従順さからだ。しかし、その柴犬がなぜ、俺の家の庭でくつろいでいるのかは分からない。


「カズお兄ちゃん。遊んでワン」


 その声が後ろから聞こえると、俺の目の前で座っている柴犬は俺の膝に乗って来て体を横たえて目を閉じる。どうやら、俺があぐらを掻いた足の凹みが収まりが良かったらしい。


「栞姉ちゃん、この柴犬はどこで拾ってきたんだ?」

「大学に棲み着いてたの。でもずっと大学に置いておくわけにもいかないから、里親を探すポスターが貼られ始めて。それで、お爺さんとお婆さんに相談して連れて来たの」


 後ろを振り返って栞姉ちゃんに尋ねると、膝に手を突いて後ろから柴犬を覗き込む栞姉ちゃんが微笑みながら言う。

 俺は何も聞いていなかった。しかし、俺は長期休暇の時しか家には帰ってこないし、許可を取られても取られなくても別に問題はない。


 うちは一軒家で庭もある。だから、この柴犬は俺の家で飼われることになったらしい。しかし、この柴犬……人懐っこ過ぎやしないか?


 柴犬は一般的に『自分が主人と認めた人間には忠実ではあるが、警戒心と攻撃性が強い性格』であるらしい。つまり、柴犬は番犬に打って付けの犬種なのだ。しかし、この柴犬は会ったばかりの俺の膝に寝転んで寝てしまっている。


 犬も生き物だから、個人差……いや個体差がある。性格も攻撃的なやつも居れば、こいつみたいに大人しいやつも居るのだろう。ただ、こいつがうちの番犬にはなれないだろうことは確かだ。


「カズくんにはすぐ懐いたね」

「いや、これだけ人懐っこかったら誰にでもこうなんじゃ?」

「ううん。結構警戒心が強い子で、私に慣れてくれるまで時間が掛かったんだよ? でも、カズくんはすぐに仲良くなれるなんて羨ましい」


 俺の前に来た栞姉ちゃんが柴犬の体を撫でると、柴犬は頭を持ち上げて自分を撫でる栞姉ちゃんを見る。


「こいつの名前は?」

「モナカだよ」

「……モナカ?」

「そう。よく今みたいに丸まって寝てて、その姿がお菓子の最中(もなか)に見えるからモナカ」


 栞姉ちゃんからそれを聞いて、もっと他にあったろうに……と思った。そう思うと、もモナカという名前に、自分の『凡人』という名前にも通ずる不憫(ふびん)さがある。


 俺は凡人という名前が嫌いなわけではないし、改名したいわけではない。昨今話題になっている『キラキラネーム』というやつに比べれば随分マシだ。ただ、多野凡人という並びになると、大体の人に『タダノボンジン』と読まれて笑われるのがめんどくさい。


 まあ、モナカならパリパリとした薄めの皮とほどよい甘さの餡が美味しく親しみがありそうだから良いのかも知れない。それに、人に笑われる俺と違って、モナカは人に愛でられる対象だ。それくらいの茶目っ気のある名前の方が合っているのだろう。


 モナカは栞姉ちゃんから俺に顔を向けると、また腿の上に頭を置いて目を閉じる。


「やっぱり分かるのかな。カズくんが優しい人だって」


 栞姉ちゃんはモナカを優しく微笑みながら撫でて、ハッとした表情をする。


「そうだ! カズくんにお願いしたいことがあるの」

「お願いしたいこと?」

「うん。モナカの登録と予防接種とか、あとはモナカに必要な物も買いたくて。モナカのために買ったのはリードだけだから」

「良いよ。今日は凛恋も女子会で、俺は特に予定もないし」

「ありがとう」


 今日は凛恋が希さん達と女子だけで遊びに行く日だ。女子だけでつもる話もあるだろうし、ゆっくり女子だけ話す機会はあっていい。それに、男が混ざっていると話せない話もあるようだし。


「モナカ、今からカズお兄ちゃんと一緒にお出掛けするよ」


 俺がモナカを足の間から抱えて芝生の上に置くと、モナカは頭を上げて俺を見上げる。

 家の中に戻った栞姉ちゃんが、犬用の首輪とリードを持って来てモナカに付ける。モナカは全く嫌がらず首輪を付けられるのを待っていた。


 モナカの顔は穏やかだが、決してキリッとしているわけではない。だから、表情からは賢さが全く感じられないのだ。しかし、モナカの行動を見ていると、モナカはかなり賢い個体のようだ。


「栞姉ちゃん、モナカの飼い主は探さなくて良いのか?」

「大学で届け出て飼い主は探したんだけど三ヶ月見付からなかったの。三ヶ月を過ぎても元の飼い主が見付からなかったら、新しい飼い主として登録をして良いらしくて」

「そうか。じゃあ、モナカは綺麗さっぱりうちの家族になるんだな。よろしく、モナカ」


 栞姉ちゃんが持ったリードに繋がれたモナカは、しゃがんだ俺の手をクンクンと嗅いでからペロッと舐める。


「さ、行こうか。モナカ~行くよ」


 リードを持った栞姉ちゃんが歩き出すと、その数歩後ろからモナカがピッタリとついて行く。その栞姉ちゃんとモナカを見つめていたら、ふと振り返ったモナカが、俺も見てワンと鳴いた。


「カズくん、カズお兄ちゃんも早くってモナカが言ってるよ」


 手招きをする栞姉ちゃんの隣に並ぶと、俺を見上げていたモナカが正面を向いて栞姉ちゃんを追い越さないように歩く。


「ほんと、モナカは利口だな~」

「大学に居る頃からお利口だったんだよ。誰かが躾けたのかな?」


 栞姉ちゃんの言葉に、これだけ躾けられた犬が飼い主が見付からない迷子犬になるのだろうかと不思議に思う。

 飼い主が見付からない迷子犬。モナカのことをそういう表現をしたくなるほど、俺の頭には嫌な表現が先に浮かんだ。


 捨て犬。その言葉に酷く嫌悪感を抱き、酷く胸を締め付けられる。


 俺が小さい頃から、捨て犬や捨て猫のような飼い主が世話を放棄したペットは問題になっていた。でも、何年経ってもそれはなくなってはいない。

 俺は小学校の道徳の時間に、捨て犬について扱った時、強い怒りを感じた。でも、それは生き物に対する思いやりなんて綺麗な考えじゃない。


 それは単に、自分と捨て犬が重なっただけだった。


 栞姉ちゃんと動物病院に行き、予防接種のためにモナカを獣医に預ける。人の少ない動物病院の待合室で、俺は栞姉ちゃんと並んでモナカを待つ。


「カズくん、言わなくてごめんね」

「まあ怒ってはないけど、言ってくれても良かったと思う」

「余り考える時間がなかったから。…………モナカ、このまま飼い主が見付からなくて里親も見付からなかったら、保健所に連れて行くしかないって話になってて」

「保健所……か……」


 保健所に連れて行かれたモナカがどうなるか。それは簡単に想像出来た。

 保健所に連れて行かれた犬や猫は、一定期間飼い主や里親が見付からなかったら殺処分される。殺処分なんて事務的な言葉を使ってはいるが、保健所に連れて行かれたら殺されてしまうのだ。


 動物の保護団体はある。でも、捨てられる犬や猫がその善意で動いている保護団体に全て受け入れられるわけがない。それだけ、犬や猫……生き物を育てるということは大変なのだ。


「その話を聞いたらね……放っておけなかった。モナカの置かれてる状況が、カズくん達に受け入れてもらえる前の私と重なったの」


 栞姉ちゃんは施設で育った。その経験から、俺と同じように捨て犬のモナカと自分自身の境遇を重ねたのだろう。

 人は保護される。人は捨てられたからと言って殺処分されることはない。でもペットはそうじゃない。


「私ね、カズくん達に家族にしてもらえて本当に嬉しかったの。一度、その気持ちを裏切っちゃったけど、それでもカズくんやお爺さんお婆さんは私を受け入れてくれた。そんなみんなが居たから、私は今こうやって生きていられる。だからね、今度は私がモナカを助けたいって思ったの。今度は、私がモナカを幸せにする番だって思った」

「きっと、栞姉ちゃんに拾ってもらってモナカも幸せだ」

「そうだと良いな。でも、私にはなかなか懐かなかったのに、カズくんにはすぐ懐いてちょっとショックだった」


 冗談めかして言った栞姉ちゃんは手で髪を耳に掛けながら、モナカが連れて行かれた方向を見る。


「俺は何もしてないんだけどな~」

「やっぱりモナカは頭が良いから分かるんだよ。カズくんの優しさが」

「優しさって言うか、モナカは俺に親近感が湧いたのかもな。モナカは飼い主、俺は親に捨てられた同士だから」


 こんな話は、凛恋には話せない話だ。凛恋が聞いたら、凄く心配するし俺の心の中のことを考えて落ち込ませてしまう。

 経験していないことは想像するしかない。想像では正確に把握するのは難しい。大抵、過大に想像してしまう。


 凛恋は凄く優しい。だから、俺の心の傷をとても大きいものだと想像する。俺自身はそんなに大きなものではないと思っている。でも、俺はストレスから一度、失声症になっている。その経験があったから、凛恋はより過大に、過剰に俺のことを心配する。


 栞姉ちゃんは、俺よりも辛い経験をしている。母親に捨てられてすぐに爺ちゃん婆ちゃんに引き取られた俺と違い、栞姉ちゃんは施設での生活が長かった。だから、俺の心の傷の想像が実際の傷の大きさと大きく変わらない。過大に過剰に傷を扱おうとはしない。


「私達は仲間だね。一人ぼっちだったけど、誰かに助けてもらった同士」

「そうだね。でも、俺よりはモナカの心の方が強そうだよ。人間に捨てられても人間を諦めてない」

「カズくんも諦めてない。諦めてないから、カズくんの周りには沢山の人が居るんだよ」


 横から栞姉ちゃんに頬を指で突かれて、それで微笑まれる。確かに、今の俺は人間を諦めていない。もちろん、全ての人間を諦めてないわけではないが。


「モナカちゃんの予防接種、終わりましたよ~」

「ありがとうございます。モナカ、お利口にしてた?」


 栞姉ちゃんは獣医さんに連れて来られたモナカに駆け寄ってモナカの頭をワシャワシャと両手で撫でる。

 俺はその光景を見ながら、モナカが優しさを分かっているのは、俺じゃなくて栞姉ちゃんの方だろう。そう思った。




 その日の夜、酒に酔った爺ちゃんを部屋に運んで寝かせた俺は、居間に戻って来る。

 ダイニングの端には室内用フェンスがあり、そのフェンスに囲われた中には、犬用ベッドがある。


 昼間、モナカの登録と予防接種に行った後、モナカのために色々と必要な物を買った。フェンスとベッドもその時に買ったものだ。

 ベッドの収まりが良いのか、ベッドの中でモナカは気持ち良さそうに目をウトウトとさせている。

 アニマルセラピーという言葉があるが、本当に動物を見ていると癒やされる。


「凡人、栞さんも部屋に運んでくれるかい?」

「分かった」


 座卓の上を綺麗に片付ける婆ちゃんが、座布団を枕にして寝てしまっている栞姉ちゃんを見て微笑む。


 二〇歳になりお酒を飲めるようになった栞姉ちゃんは、爺ちゃんの付き合いで酒を飲んでいた。爺ちゃんは日本酒を好んで飲むが、栞姉ちゃんの方は果物系の缶チューハイを飲んでいた。そして、酒に酔った末に眠りこけてしまったのだ。酔い方が説教臭くなる爺ちゃんと比べると大人しい。


「栞姉ちゃん、起きてくれ」

「う~ん……」


 ムクっと体を起こした栞姉ちゃんは、俺を見上げて頭を押さえて床を見る。


「……ごめん、飲み過ぎちゃった」

「肩を貸すから部屋まで行こう」

「ありがとう……」


 栞姉ちゃんに肩を貸そうとしたが、身長差があり過ぎて俺の肩に栞姉ちゃんの腕を回すのは難しかった。


「ひゃっ!」

「ごめん。こっちの方が楽だった」


 肩を貸すことを諦めた俺は、栞姉ちゃんをお姫様だっこして栞姉ちゃんの部屋まで歩いて行く。

 居間から栞姉ちゃんの部屋まで歩いて行くと、俺に抱えられた栞姉ちゃんが自分から床に下りた。


「あ、ありがとう」

「ちゃんとベッドで寝てくれよ。いくら夏だからって言っても、ちゃんとした場所で寝ないと風邪引くし」


 部屋のドアを開ける栞姉ちゃんを見ながらそう言うと、振り返った栞姉ちゃんが壁に背中を付けて俺を見上げる。


「カズくん、もうちょっと話さない?」

「良いけど、栞姉ちゃんは寝なくて大丈夫なのか?」

「うん。まだ全然眠くないから」


 まあ、ついさっきまで寝ていたのだから今眠くなくても仕方ない。

 俺も夏休み中だし少しの夜更かしは良いだろう。次の日の朝叩き起こされても昼寝をすれば良いだけの話だし。


 栞姉ちゃんの部屋に入ると、ドサッと音を立てて栞姉ちゃんがベッドに座る。そして、ゆっくり体を傾けてベッドの上に寝転がってしまった。

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