【一五一《夜夜中の、ほとんど協奏曲のように、相競って演奏される星空つきの奏鳴曲》】:二

 俺は音楽フェスを舐めていた。いや、音楽フェスに対する露木先生の熱意を舐めていた。


 メインステージから離れて芝生の上で、俺は座り込んで大きくため息を吐く。日はすっかり沈んでいるが、流れる空気は観客の熱気を含んでムッと蒸し暑い。


 視線の先で明るくライトアップされているメインステージからは、激しく体を動かしながら歌うアーティストが見え、そのステージには跳んで跳ねてとテンションを振り切らせて盛り上がる観客達が群がっている。あの中のどこかに、露木先生が居るはずだ。


 まだ、フェスティバルが開幕して二時間も経っていない。しかし、ステラの出番まで体力を温存しておかないといけない俺は、凛恋と一緒に一旦ステージを離れて休憩することにした。


 隣で座る凛恋は、買ったかき氷をちびちびとスプーンで食べながらステージの方を眺める。


「凡人。はい、あーん」

「あーん」


 凛恋が横からかき氷をすくったスプーンを差し出してくれて、俺は口を大きく開けて凛恋が差し出してくれたスプーンからかき氷を食べる。練乳と苺シロップというオーソドックスなそのかき氷は、フェスティバルの熱気で火照った体を少し冷ましてくれた。


「露木先生凄いね」

「そうだよな。始まった瞬間から跳んで跳ねてして、あれじゃ最後まで保たないだろ」

「でも、凄く楽しそうで良かったね」

「だな。あれだけ楽しんでくれると、誘って良かったと思う」


 凛恋は俺に体をピッタリくっつけて座り、俺の肩に頭を置く。俺はその凛恋の頭に自分の頭を預けるように傾けた。


「これからまだ一五時間も一緒に居られるなんて嬉しい」

「二人暮らしして、休日は二四時間一緒だっただろ?」

「そうだけど、凡人が免許取りに行ってた時は本当に寂しかったんだから」

「毎日電話したよな。なかなか凛恋が電話を切らなくて困った」

「だって、切ったら次の日まで凡人と話せないし。……やっぱり私は凡人が居ないとダメだって思った。もう、寂しくて寂しくて仕方がなくて、希に毎日泊まりに来てもらってたし」


 凛恋が小さく笑って空を見上げる。そして、小さく息を漏らしながら感嘆した声を発する。


「星が綺麗……」

「そうだな」


 俺も凛恋と一緒に空を見上げると、綺麗な星空が広がっていた。


 日頃、夜に空を見上げることはない。それは俺だけかも知れないが、改めて夜空を見上げてみると心が穏やかな気持ちになる。

 小学生の頃に、天体観測をしましょうという宿題をやった記憶がある。学校で貰った星座盤を使って、星座を探してその感想を短いレポートにして提出。当時の俺は酷くつまらない宿題だと思った。小学生の俺は、全く星座に興味が無かったからだ。


 今の俺も星座に興味があるわけじゃない。でも、凛恋と一緒にこんなロマンチックな景色を見られることに嬉しくなっていた。


「凛恋、織り姫と彦星が居るぞ」

「え? どこどこ?」

「あっちだ」


 夜空を指さしながら、俺は空に浮かぶ明るく輝いた星二つを指さす。そして、その二つから少し離れた場所にある星を指さした。


「んで、あっちが天帝様だな」

「知ってる! 織り姫と彦星を引き裂いた悪いやつ!」

「おいおい、めちゃくちゃ偉い神様なんだから、悪いやつって言ったらばちが当たるぞ」


 神様の中でも最も偉いとされる天帝様を悪いやつ呼ばわりした凛恋の言葉を笑いながら、指先で夜空に線を引いてその三つの星を繋ぐように俺は手を動かす。


「はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイル。夏の大三角をこんなにじっくり見たのは初めてかもな~」

「凡人ってほんと物知りだよね。私、星座なんて全然分からないし」

「俺だって小学校の理科で習うような有名なやつしか知らないぞ」

「はぁ~チョー綺麗……。こんな綺麗な星を、チョーイケメンの彼氏と一緒に見られるとか、私ってチョー幸せ」

「こんな綺麗な星空の下で、美人で美少女の彼女と一緒に居られる俺も、とんでもない幸せ者だ」


 ステージの明るさが際立っているせいか、ステージから少し離れると周囲は一気に闇に包まれる。そこは、たった一人で居れば心細い空間でしかないが、好きな人と、恋人と居れば静かで幻想的な雰囲気の空間になる。


 見上げた顔を下ろして俺は凛恋の方を見る。視線の先には同じように俺の方を見ている凛恋の顔があって、その凛恋の顔にある空の星よりきらきらと煌めいている二つの瞳が目蓋で隠される。それを見て、俺は凛恋の肩に手を置いてゆっくり凛恋の唇へ自分の唇を近付けた。


「凡人、探した」

「――うわッ! ススス、ステラ!?」


 凛恋の唇と俺の唇が触れる寸前、ステラに声を掛けられて顔をステラの方向に向ける。

 ステラは夏らしい花柄をした淡い水色のワンピースを着ている。そのワンピースはノースリーブになっていて、ステラの白くしなやかな両手が肩までさらけ出されていた。


「もうすぐ私の出番」

「もちろん覚えてるって。何のために今日来たんだよ。それにしても、探したってこれだけ広くて人が多い中でよく分かったな」


 隣から何か沸々と煮えたぎるような雰囲気を感じるが、視線をステラに固定して聞き返す。しかし、俺の無駄な抵抗も虚しく、隣に座っている凛恋が煮えたぎらせた怒りが爆発した。


「ステラ! なんてタイミングで声掛けるのよ!」

「凛恋、私の目が黒いうちは、凡人とキスはさせない」

「ステラの目は黒じゃなくてブラウンでしょッ!」


 ステラに対する凛恋の返しに「上手い! 座布団一枚!」と言える雰囲気もなく、俺は睨み合う凛恋とステラを交互に見る。


「せっかく良い雰囲気だったのにっ!」

「それは私に言われても困る」

「ステラが、その良い雰囲気を壊した本人だから言ってるのよ!」

「私は悪くない。私が来た時に、勝手に良い雰囲気になっただけ」

「ちょっとは空気を読みなさいよ!」

「読んだら凛恋が凡人にキスをする。それはダメ」

「凡人は私の彼氏なの! 分かる? カ! レ! シッ!」


 顔を真っ赤にして怒る凛恋と、平然とした様子で見返すステラ。この雰囲気の差というか、持っている余裕の違いを見ると、どっちが年上か分からない。


「ステラ、一人でほっつき歩いて良いのか? 宗村さんはどうした」


 威嚇する猫のようにステラを睨み付ける凛恋の肩を抱き寄せながら尋ねる。すると、ステラは俺が抱き寄せた凛恋の方を一瞬見てから俺に視線を戻した。


「智恵は迷子。大人なのに迷子になるなんて智恵は頼りない」

「……なるほど。迷子から見たら、保護者の方が迷子に見えるのか」


 きっとステラはこの人混みの中で、宗村さんとはぐれてしまったのだろう。それで、運良く俺達のところに辿り着いたから良いものの、誰にも見付からなかったら大変なことになっていたかも知れない。


「そろそろ移動しないといけないし、一緒にステージに行くか。凛恋、露木先生に電話してくれるか?」

「分かった」


 俺が凛恋に言うと、少し機嫌を取り戻した凛恋がスマートフォンを取り出して電話を掛けてくれる。それを見て、俺はステラに視線を向ける。すると、ステラはさっきよりも俺に近付いて来て、俺の顔を下からジーッと見上げる。


「ステラ?」

「凡人はまた格好良くなった」

「え?」

「きっと、大学に行ったのが原因」


 そう言ったステラは、俺の方にまた一歩近付こうとした。しかし、そのステラの体は後ろに引っ張られた。


「ステラ! 勝手に歩き回らないでって言ったでしょ!」

「智恵、どこに行ってたの?」

「それはこっちの台詞!」


 焦った様子でステラに駆け寄って来た宗村さんが、ステラの両肩に手を置いてステラの様子を確かめる。その二人のやり取りを見ていると露木先生が駆け寄って来る姿も見えた。


「多野くん! 八戸さん! あっ! 宗村さんと神之木さん! こんばんは。今日は本当にありがとうございます」

「露木先生、ご無沙汰しています」


 走って来た露木先生は、ステラと宗村さんの姿を見てチケットのお礼を言い、宗村さんと社会人らしい挨拶をする。

 露木先生はかなり楽しんでいたのか汗をびっしょり掻いていて、頬がステージからの明かりを反射させている。

 露木先生を見ていたら、隣から頬を摘まれて引っ張られる。俺の頬を引っ張った凛恋は、俺を見て頬を膨らませていた。


「露木先生のおっぱい見ないで」

「見てないって……」

「見るなら私のおっぱい見てよ」

「それは今すぐ見たい」

「ちょっ! 今は服の上からだけよ!?」


 小声でからかって言うと、凛恋は真っ赤な顔をして恥ずかしがる。


「ほら! 二人共行くよ!」


 先に歩き出していた露木先生が俺達を振り返って手を振る。それを見て、俺は凛恋の手を握って歩き出した。しかし、すぐに凛恋は俺の握った手を離し、俺の腕に自分の腕を絡めた。その腕を絡められた俺の二の腕には、フワフワとした弾力のある柔らかいものが押し付けられる。そして、凛恋の小さくぼそりと呟くような声も聞こえた。


「今はこれで我慢してね」




 沢山の照明で眩しいくらいライトアップされているメインステージではなく、そのメインステージから少し離れた場所にあるサブステージ。そこは、これから始まるクラシックコンサートに合わせて、照明の光度を落として淡い光を放つ落ち着いたステージになっていた。

 宗村さんはステージに立つステラの付き添いであるから、ステージ袖に控えているらしい。だから、ステージを正面から見ているのは俺と凛恋、そして露木先生の三人。


 クラシックコンサートが行われるサブステージは、メインステージと比べると観覧者の数は少ない。いや、ほとんどの人が足を止めていない。

 ジュードは世界的に有名なプロピアニストで、アマチュアのステラも世界レベルのコンテストで優勝出来る実力を持っている。でも、この音楽フェスではクラシック音楽の人気度はあまり高くないらしい。


 俺もステラに出会うまではクラシック音楽を聴こうとも思っていなかった。きっと、みんなはポップスとかロックとか、そういう曲を聴くのが好きな人達ばかりなのだろう。実際、ポップスやロックの方が観覧者が多かったし、必然的にポップスやロックを演奏するアーティスト達はメインステージのような大きなステージに立っていた。


 観覧者の数は少ない。でも、その少なさがステージ全体にリラックス出来る落ち着いた雰囲気を作っている。俺は、こういうゆったり聴ける方が好きだ。

 周囲の人が少ないということで、俺達は芝生の上に座ってステージを下から斜め上に見上げる。


 淡い明かりのステージは、ステージ後ろに広がる星空の輝きを邪魔することなく、そのステージと星空の共演が情緒を感じさせる。


『続きまして。弱冠一七歳の世界的プロピアニスト、ジュード・ウェイド・ヒギンズさんと日本を代表する世界レベルの天才ヴァイオリニスト、神之木ステラさんです。今回演奏していただく曲は、ベートーヴェン作曲のヴァイオリンソナタ第九番イ長調、作品番号四七、クロイツェルです』


 ステージに穏やかに響くアナウンスが、ジュードとステラの紹介に合わせて演奏楽曲を紹介する。しかし、毎度毎度思うが、クラシックのタイトルは長いし、タイトルを聞いても全く想像が出来ない。


「露木先生。ステラ達が弾く曲ってどんな曲ですか?」

「クロイツェルは、ベートーヴェンの作っているヴァイオリンソナタでは第五番のスプリングソナタと同じくらい有名な曲だよ」

「スプリングソナタ、ですか?」

「スプリングソナタは、春を想像させるような明るい曲調で、そこから付けられた愛称。正式には、ヴァイオリンソナタ第五番ヘ長調、作品番号二四。神之木さん達のクロイツェルか~。楽しみ」


 露木先生から目を離すと、ステージの上ではそれぞれ演奏の準備を終えたステラとジュードが居た。

 ジュードの方は、やっぱりステージに立ち慣れているせいか、表情にも笑顔が見られて随分余裕そうに見える。まあ、二〇〇〇人以上入るような大きなホールで演奏しているのだから、このまばらな観覧者数のステージでは緊張もしないのだろう。


 ステラの方は、相変わらずというか……視線を俺に向けている。俺の方は、宗村さんから「出来るだけステージの正面に居て」と言われていたから、俺を見ているステラの視線の向きには違和感はない。


 ステラが右手に持った弓をゆっくり持ち上げ、優しい動きで演奏を始めた。


 澄み切ったステラの奏でるヴァイオリンの音色が、ムッとしたステージ周辺の空気を一気に浄化する。そして、そのステラの演奏を後押しするように、音の邪魔にならない程度の潮風が流れた。


 ステラのヴァイオリンのソロから始まったが、次はジュードのピアノソロパートがあった。しかし、そのジュードのピアノソロを聴いて、俺は目を見開いた。


 俺の知っているジュードは、なんだか明るくてうるさくて、ジュードの印象は騒がしい感じしかない。でも、ジュードの指で奏でられるピアノの音色は、穏やかで優しかった。

 ジュードのピアノソロにステラがヴァイオリンを奏でて加わる。そこから、ステラとジュードの協奏が始まった。


 穏やかな雰囲気から始まった二人の演奏は、少しずつ盛り上がりを見せていく。ただ、単純に激しいわけじゃない。ステラとジュードの演奏に心を躍らせられている。


 隣に座っている凛恋が俺にもたれ掛かって来るのを感じて、視線を凛恋に向ける。凛恋は穏やかに微笑みステージを眺めていた。

 俺は凛恋を見ていた時、周囲に沢山の人が集まっているのに気付いた。


 人がまばらだった周囲にはいつの間にか人が集まり、いつの間にか潮風が消えたサブステージ。そのステージを見上げて、俺は星空を背景にして、涼しげにヴァイオリンを奏でるステラを眺める。そうしながら、凛恋の肩に手を回して凛恋の体を引き寄せた。

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