【一五〇《夏の始まり》】:二

 運転免許合宿では、まず実際に本物の車に乗る前にシミュレーターで練習することになった。

 シミュレーターはゲームセンターにあるレースゲームの筐体みたいな感じだったが、当然ゲーム性なんてあるわけもなく『典型的なシミュレーター』という感じだった。


 シミュレーターは本物の車に乗る前に、実際に公道で起きそうな危険なことが頻発するように作られている。

 勇猛果敢にいきなり車の前に飛び出してくる歩行者。一時停止もせずに飛び出してくる車やバイク。車を吹き飛ばすかのようなあり得ないほど強い風……。


 多分、そういう脚色された過剰な危険は、危険を予知するために前知識として必要なんだろう。

 シミュレーターは実際は一時間程度しかやらず、その後は乗車前の車の点検を教えられ、実際に教習車に乗って、自動車学校内の教習コースで速度を安定させたり、カーブの練習をしたりした。


 俺はオートマチック車、いわゆるAT車の免許コースだから、操作も簡単だし特に問題は感じなかった。

 そして、第一関門の仮免許の学科試験も技能試験も簡単にパスし、晴れて路上に出られることになった。


 今は、路上教習の中でも高速道路を走る高速道路教習で、後ろには俺以外に二人の教習生が乗っている。

 ただ、なんの因果かは分からないが、後ろに乗っているのは初日に空条さんに声を掛けて来た男と、その男に声を掛けられた空条さんだった。

 こんなに気まずいドライブ……いや、高速道路教習を経験した人は居るだろうか?


「今度、教習生でカラオケ行こうよ!」

「そうだね」


 後ろからは、男と空条さんの会話が聞こえる。助手席に座る教官は、バックミラーで後ろの二人を見て微笑ましそうな笑顔を浮かべている。

まあ、何も知らない教官からすれば、女の子にアタックする男子大学生の微笑ましい光景に映るのかもしれない。ただ、俺からは、一度撃沈した男がめげずにアタックしているのを、空条さんが適当に聞き流しているように見えている。


「多野くんと空条さんは同じ大学でしょ?」

「はい。多野くん、すっごく頭が良いんですよ。教授達の間でも有名で」

「そうなんだ。そんなイメージはないけど」


 爽やかかつ和やかな声でさり気なく酷いことを言う教官の話を聞きながら、俺はアクセルを踏んだまま視線をフロントガラスの先に向ける。

 高速道路は僅かにカーブするところもあるが、ほとんど一直線で代わり映えのしない道が続くだけだ。

 ただ、代わり映えがしないからと言ってボーッとするわけにもいかない。俺は今、自分を含めて四人の命を左右するハンドルを握っている。


「でも、本当に多野って頭が良く見えないですよね~。俺も最初会った時、塔成大生って聞いてビックリしましたし」


 後ろから、教習生の男のその声が聞こえる。まあ、顔がパッとしないのは自分でもそうだと思う。だから、俺の顔を見て「こいつは頭が良い」と判断出来る人は居ないだろう。しかし、それよりも名前も知らない男から呼び捨てにされていることに、俺は僅かに心の中に引っ掛かりを覚える。

 ただまあ、俺の知らないところで俺のことを呼び捨てにしている人間なんて沢山居るだろうし、あまり気にしない方が良いのは確かだ。


「あのさ。それ、多野くんにめちゃくちゃ失礼でしょ」

「えっ?」


 楽しそうに笑って話をしていた男が、隣に座る空条さんから明るさのない冷たい声で言われて表情を曇らせる。

 俺がルームミラーから見える男の表情は困惑していて、空条さんの表情は不機嫌そうな表情だった。


「え、じゃなくてさ。多野くんのこと何も知らないのに、見た目で決め付けるのって多野くんに失礼でしょって言ってるの。それに、多野くんと全然話とかしたことないのに呼び捨てにするのも多野くんに失礼」


 ハンドルを握りながらその会話を聞いて、俺は「この狭い空間で揉め事は止めてくれ」そう思った。しかし、それは仕方がないのかもしれない。


 合宿に参加してから、同乗している男はことある毎に空条さんに話し掛けていた。そして、それを空条さんの方が煩わしく思っているのは、何となく雰囲気で俺も察することが出来ていた。


 凛恋や、高校の友達達のお陰で多少は空気を読むという能力が身に付いた俺だが、それでも萌夏さんや栄次のようにレベルの高い空気を読む能力は持っていない。むしろ、最低限にも満たない乏しいレベルだと思っている。


 そんな俺でも空条さんの雰囲気で分かるのだから、いかにも空気が読めそうな後ろの男ももちろん分かっているはずだ。なのに、男は空条さんに話し掛けることを止めなかった。それはもしかしたら『押しを強くすれば行ける』とでも思ったのかも知れない。


 世の中には、積極的な男性が好きな人は多いらしい。だから、後ろに座っている男とタイプの合う女性はきっといくらでも居るだろう。ただ、空条さんはそういう意味では、後ろに座っている男とはタイプが合わない女性だったらしい。


「ごめん……」


 空条さんに怒られた男は、そう弱々しい声を出した後に黙ってしまう。そして、空条さん達の会話が途切れて以降、後ろから物凄く重く苦しい空気感が伝わってくる。


「多野くん、次のサービスエリアに入って。そこで休憩してドライバーを交代しよう」

「はい」


 教官が気を遣ったのか、それとも単にたまたまだったのか、俺は教官の指示に従ってサービスエリアに入る。どっちにしても、ここで車の中から出られるのは良かった。


 サービスエリアの駐車場にバックで難なく駐車する。そして、俺はお手洗いに行った後にサービスエリアにあった自販機で缶コーヒーを買った。


 もうすぐ自動車学校の卒業検定があり、それが終わったらすぐに運転免許試験場に行って学科試験を受けなければいけない。

 決まりでは、自動車学校を卒業してから一年以内で良いらしいが、間を開けるよりすぐに行った方が良い。それは、時間が経てば学科の知識が薄れていくというのもあるが、単に俺が面倒くさがりだから時間が経てば経つほど試験場に行くのが億劫(おっくう)になるからだ。


「はい、多野くん」

「えっ?」

「私の奢り」


 両手に持ったソフトクリームの片方を俺に差し出して微笑む空条さんが目の前に現れ、俺は躊躇いがちに差し出されたソフトクリームを受け取る。


「あ、ありがとう」

「さっき、車の中で嫌な思いしたでしょ? それ食べて元気出して」


 隣に並んだ空条さんは明るい笑顔を向けてそう言ってくれる。

 空条さんが言った嫌な思いというのは、車の中で後ろに乗っていた男から頭が良いようには見えないと言われたことだろう。

 俺の方が気にしているかは別として、空条さんが気を遣ってくれるのは嬉しかった。


「さっきは雰囲気を悪くしてごめんね。あの人しつこかったし、それに多野くんのこと悪く言ってたのが許せなくて」

「ありがとう。でも、特に気にしてないから大丈夫」


 もらったソフトクリームを食べながら応えると、空条さんはさっきよりもより明るく笑ってソフトクリームを舐める。


「今度、多野くんの彼女さんにも会わせてよ。一緒にゲームもしたいし」

「分かった」


 空条さんの頼みに、俺は頷いて答える。

 空条さんも俺より、女の子の凛恋の方が好みが合って話も合うはずだ。それに、凛恋も空条さんと仲良くなって友達になれるかもしれない。


 大学に入ってから出来た飾磨以外の知り合いは空条さんくらいだ。

 大学で話す時も気さくだし明るい。それに、車の中の些細なことでも怒ってくれた空条さんは良い人だ。


 飾磨の開いた食事会は面倒だった。でも、空条さんみたいな良い人と出会えたことは、飾磨に感謝しなくてはいけないのかもしれない。


「さっ! そろそろ車のところに戻ろうか」


 空条さんは俺の隣から離れて教習車の方に駆け出して行く。それを追い掛けていると、空条さんのところに走って近付いていく男の姿が見えた。


「あれでめげないって、凄いなぁ~」


 空条さんに怒られたのに、めげずにアタックを続ける男に感心しながら、俺は教習車の方に歩いて行く二人の姿を眺め、教習車に向かって足を進めた。




 運転免許試験場での学科試験の日。学科試験を終えた俺は、結果が発表されるまで座って待つ。待ちながら、俺は凛恋から貰った青いお守りを見て苦笑する。でも、大げさだなとは思ったが、単純に嬉しかった。


 凛恋は俺が学科試験に合格するように、希さんと一緒にお守りを買いに行ってくれたらしい。

 学科試験の内容は、正直、国家資格の試験問題にしては簡単過ぎて、こんなに簡単で良いのかと心配になった。


 試験終了まで四回も見直しをして間違いはあり得ないと確信した。よっぽど俺の目がおかしくない限り、不合格はあり得ないだろう。

 一緒に試験を受けている人達は、下は高校生っぽい人から上は中年に見える人も居る。まあ、普通自動車免許は一八歳以上なら誰でも受けられる試験だから、受験者の年齢層が広くて当然だ。


 最近はマイカーを持つ人は減っているようで、運転免許を取ろうという人はあまり多くないのかも知れない。

 実際、マイカーは維持管理費が掛かるし、交通の便が良いところに住んでいる人はわざわざマイカーを持つ必要はないのかも知れない。


 視界に見える範囲だけで、若い人はみんな手を止めてボーっとしている。

 俺も正面のホワイトボードに書かれている試験時間が書かれた黒い文字を眺めながら、他のことを考える。


 試験に合格して免許を取ったら、やっぱり最初に凛恋とどこかに行きたい。それで、時々はレンタカーを借りて凛恋と遠出をするのを続けたいと思う。でも、そうなると問題がある。


 レンタカーを借りるには、当然レンタカー代が必要になる。でも、俺は今収入源がない。

 夏休み前に、俺は元々アルバイトをしていたスーパーを辞めている。そして、その後にアルバイトは見付けていない。


 スーパーのアルバイトで稼いだお金が、全て自動車学校代で消えたわけじゃない。数万円は残っている。でも、その数万円も当然使えばなくなる。


 レンタカーを使って遠出すれば、レンタカー代以外に出掛けた先で出費があるのも当然だ。そんなことを何度も続けていれば数万円なんてすぐに使い切ってしまう。

 新しいアルバイトを探さないといけない、そうは思う。しかし、それも夏休みが終わった後でも良いだろう。


 自動車学校で二週間弱潰れたことで、凛恋はかなり渋い顔をしていた。それを、更にアルバイトを始めるからほとんど潰れます、なんて言ったら凛恋は落ち込んでしまう。

 来年のことはまだ分からないが、今年の夏休みは凛恋のために沢山時間を取っておきたい。


 アルバイトを始めることを考えると、俺はまた面接を受けなければいけないのか……ということに気付く。

 履歴書は自分の学歴を書くだけで良いし、志望の動機もそんなにかしこまったものを書く必要もない。でも、面接は初対面の人と会話をしなければならない。それは、俺にとってかなり勇気の必要なことだ。


 一気に嫌なことを考えてテンションが落ち掛けたが、アルバイトの面接でうだうだ言っていられない。

 俺は大学三年になれば就職活動をしなければならない。それを考えれば、アルバイトの面接でテンションを落としているようじゃ、就職試験の面接で合格出来るわけがない。


 俺は何としても大学卒業後に新卒で就職したい。それは、凛恋のお父さんお母さんとの約束だからだ。

 俺は凛恋と結婚する。俺はそのために大学に進学している。だから、ちゃんと凛恋のお父さんお母さんに認めてもらえるように就職を頑張らなければいけない。


「今から合格者の番号を読み上げます。番号を呼ばれなかった方はすぐに退室して下さい」


 試験官が戻ってきて、手に持った紙に視線を落としながらそう言う。


「一番……二番……三番……」


 試験番号を読み上げるのを聞きながら、俺は自分の受験番号を見る。四角い紙に『三六』と書かれた文字を見てから、すぐに視線を試験官に戻す。


「三三番……三四番……三六番……」


 淡々とした試験官の声を聞いて俺は目を見開いた。俺の番号は読まれた。でも、俺の直前の番号が読まれなかった。ということは、俺の目の前に座っている中年女性は不合格だったと言うことだ。


 高校と大学の受験で、どんな試験でも必ず不合格者が居ることは分かっている。でも、目の前で不合格者が出るのは、合格した俺は少し胸の奥を締め付けられる思いがした。


 定員のある高校と大学受験と違い、普通免許の試験は合格ラインに届く知識量があれば全員が合格する。だから冷たい話にはなるが、不合格だった人は努力が足りなかったということだ。


 目の前に座っている人以外にも数人の受験者が自分の番号を呼ばれず試験会場の部屋から出て行く。その人達を目線だけで見送りながら、俺は手に持っていたお守りをポケットに仕舞う。


 試験が終わった後は、合格者向けに試験官から交通事故が多発していることや、運転者として自覚のある安全運転を心掛けて欲しいという話があった。そして、運転免許証に使う写真を撮り、すぐに全員へ運転免許証が配られる。


 俺は自分の無愛想な顔が載った運転免許証を見詰め、運転免許を取ったという自覚よりも、もうちょっと写りが良く写れなかったのかと思った。

 運転免許証の証明写真は写真写りが悪くなるという噂は聞いていた。しかし、これほどまでに写真写りが悪いと、あまり気にしない俺でも撮り直しをしたくなる。

 この後、凛恋に運転免許を見せるのが少し恥ずかしくなってしまった。


 免許証を受け取り、既に他の人は立ち上がって試験会場から退室している。俺も、その人の波が落ち着いてから席を立ち、試験会場から外に出る。

 運転免許試験場から出て、俺はスマートフォンを取り出して凛恋に電話をする。


『もしもし凡人! どうだった!?』


 呼び出しもほとんどせず、凛恋が電話に出て尋ねる。その声は、ずっと心配してくれていたことが分かる声で、俺はその凛恋の優しさが嬉しく心が温かくなった。


「受かった。凛恋のお守りのお陰だ」

『やったぁ! 希! 凡人受かったってっ!』


 どうやら希さんも一緒らしく、凛恋は電話の向こうで希さんにすぐさま俺の合格を報告していた。


『凡人くん、おめでとう』

「希さん、ありがとう」


 電話を替わった希さんにお礼を言うと、電話の向こうの希さんはクスクスと笑いながら、からかうような声で言う。


『今、試験場の近くの喫茶店に居るの』

「えっ!?」

『凛恋が、どうしても心配だから一緒に来てって』


 希さんの言葉を聞いて、俺は驚いた声を返しながら照れくさくて頭を掻いた。

 心配してくれるのは嬉しいが、流石に試験場の近くまで来るのはやりすぎだ。もちろん、迷惑なんて思わないし、純粋に嬉しい。でもやっぱり、ちょっとだけ恥ずかしい。


『凛恋、ずっと両手を組んで凡人くんが受かるようにって祈ってたんだよ? センター試験八五〇点超えの凡人くんが、運転免許の学科試験で落ちるわけないって言ったんだけど』


 希さんが笑いながら言う言葉が聞こえて、俺は体がカッと熱くなるのを感じた。


『の、希! それは言わないでよっ!』


 凛恋の焦った声が聞こえ、俺は小さく息を吐いてから小さく口を歪めて電話の向こうに居る凛恋か希さんに話し掛ける。


「とりあえず今居る喫茶店を教えてくれ。すぐに行くから」


 そう言いながら、俺は僅かに視線を上に向けてすっきりと晴れ渡った青空を見上げる。

 前半二週間は自動車学校で潰れてしまったが、これからやっと俺と凛恋の夏休みが始まる。

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