【八四《魔法のキス》】:二
俺が倒れる前に見たのは、俺が忘れている記憶の一部で、それが見えたのは記憶が戻ろうとしているから。そう診察をした男性医師が言っていた。
それを聞いて爺ちゃんは喜んでいて、それを聞いた八戸さんのお父さんも喜んでいた。でも俺は、その人達と同じ気持ちにはならなかった。
間違いなく、俺が思い出した記憶の一部は良い記憶じゃなかった。
家に戻ってから爺ちゃんは、婆ちゃんと田丸さんに病院で言われたことを話した。婆ちゃんも田丸さんも嬉しそうな顔をして「良かったね」と言っていた。
すぐにプレハブ小屋に戻ってベッドに横になる。
頭が痛い、体も重い、吐き気だってする。でも、それを誰かに言う気にはならなかった。
誰に言っても分かってもらえない。誰も俺の気持ちなんて分かってくれない。
断片的に見えた光景の詳細は分からない。でも、未来の俺が八戸さんと付き合っていた時、人から好かれていない俺は、周りから八戸さんの彼氏として相応しくないと思われていたようだ。でも、それが当たり前だ。
あんな可愛い人が俺なんかの彼女なんて、八戸さんのことを好きな男が認めるわけがない。
俺が記憶喪失になった原因や経緯は、八戸さんのお父さんから説明を受けた。
八戸さんのお父さんはかなり言葉を選んでいたが、結局は八戸さんのお爺さんが俺と付き合うことに反対したからだ。
未来の俺は、八戸さんの身内からも反対されていたようだ。
真夏のはずなのに体に寒気を感じ、ガーゼケットを被り込んで目を閉じる。
思い出すなら、良い記憶を思い出したかった。
…………いや、多分思い出せなかったんだ。良い記憶なんてなかったから。
八戸さんという彼女が居たなら、良い思い出くらいあったはずだ。でも、思い出した記憶は悪い記憶ばかりだ。それは、良い記憶がなかったからに決まっている。
俺の今まで歩いてきた人生を考えれば、良い記憶がなくても頷ける。
中三までの一五年間だって良いことなんてなかった。
八戸さんがなんで俺なんかと付き合っているか分からない。
八戸さんは本当に、心から好きで俺と付き合っていたのだろうか。もしかしたら、俺は八戸さんの弱みを握って脅していたんじゃ……。
俺なんかと八戸さんが付き合う理由なんて他には思い付かない。だけど、八戸さんに感じた信頼と安心に違和感を抱く。あれの正体が分からない。
どうして八戸さんと居ると安心出来るんだろう。どうして八戸さんのことは無条件で信頼出来るんだろう。
「…………凡人? 起きてる?」
「…………」
後ろから八戸さんの声が聞こえる。
「寝てるか。……凡人、パパに送ってもらったから、一人で来たわけじゃないから安心してね」
後ろからそっと頭を撫でられる。温かくて柔らかい八戸さんの手に撫でられると、心がホッとする。
「一人で来ると凡人を心配させちゃうでしょ? だから、ちゃんと送ってもらったの。ほんと、凡人は心配性だからさ」
明るい声で八戸さんが言う。俺はそのことを知らない。だから、未来の俺に向かって言ってるだろう。
「ママと優愛が……二人とも寝込んじゃって……。ママはずっと自分のことを責めてて、優愛はショックで……」
後ろから八戸さんの震える声が聞こえる。
「分かってるの……一番辛いのは凡人なの。周りの人が知らない人ばかりで、周りの人が自分の知らないことばかり話して。そんなことが起きたら、私だって怖い」
心臓が止まるかと思った。急に八戸さんが後ろから抱き締めたのだ。背中から八戸さんの温かな体温と胸の柔らかい弾力を感じる。
「かずと……凡人、忘れないで……」
ズンッと胸を押し潰すような悲しみと切なさが押し寄せてくる。
今すぐに抱き締め返さなければいけない。今すぐに八戸さんの唇を塞いで言葉を止めなければいけない。
悲しい思いなんてさせちゃいけない。
「忘れちゃイヤだよ……忘れないで……忘れないでよ……」
「グアッ!」
「凡人!? 凡人! どうしたの!?」
頭が割れる。喉が裂ける。胸がよじれる。
八戸さんの悲しい声と言葉を聞いて、その言葉が乗り移るかのように悲しくて苦しくなる。
「アガッ……ガッ……」
息が上手く出来なくて、頭の中にある光景が浮かんだ。
刑事ドラマでよく見る警察署の面会室が見える。
爺ちゃんと婆ちゃんが並んで座るのが見え、面会室を遮るガラスの向こう側には、囚人服を着た金髪の中年女性が居た。
『あんたが生まれたせいで男に捨てられて私の人生は滅茶苦茶になったのよッ! あんたなんか――』
そこで俺の見ていた景色は一変する。目の前に八戸さんが見えた。
優しく閉じられた瞳からは沢山の涙が流れ、触れている唇は小刻みに震えていた。
頭の中に風景が浮かぶ。回想ではなく、本当に目で見ているような風景だった。
張石舗装の細い路地。
舗装用の石には隙間が所々あり、そこからは緑色の雑草が執念深く葉を伸ばしている。そのちょっと古臭い路地の奥に、彼女が立っていた。
ベージュのブレザーに赤チェックのプリーツスカート。スカートから伸びる、細い足の先には、紺色のハイソックスと綺麗に磨かれたローファーを履いている。そして、路地に差し込む太陽の光が反射して、染められた金色の髪を輝かせていた。
『初めて会った時から好きでした! 私と付き合って下さいっ!』
その声と共に、記憶のスライドショーが目まぐるしく切り替わる。そして、俺は――凛恋の体を引き寄せた。
重ねた唇から凛恋の体温と感触を直接受けて、更に強く感じようと凛恋の体を引き寄せる。
「んんっ……」
凛恋の漏れる吐息を聞きながら凛恋に視線を合わせると、凛恋が俺の目を見て微笑み俺を強く抱き返す。
凛恋のキスが変わる。安心させるための優しく包み込むようなキスから、自分を安心させてほしいとせがむ甘えるようなキス。俺はそのキスに応えた。
途方もない時間キスを交わして、ゆっくりと唇を離すと、凛恋が首にしがみついて来る。
「凡人っ!」
「凛恋……ごめん」
「謝らないの!」
「……凛恋のことを忘れるなんて」
「凡人はちゃんと覚えててくれた! 頭で覚えてなくても心が覚えててくれた!」
「……ありがとう。凛恋がずっと俺の側に居てくれたからだ」
凛恋は俺の腰に手を回して、限界ギリギリまでくっ付いていた体を更に押し付ける。
「凡人、私の名前は?」
「八戸凛恋」
「年は?」
「一六歳だ」
「……凡人の彼女は?」
「後にも先にも凛恋ただ一人だけだ」
「良かった。ちゃんと思い出してくれて」
「……凛恋のキスが戻してくれたんだ。凛恋がキスしてくれたから、全部思い出せた」
嫌な記憶を掻き消す良い記憶のお陰で、俺は忘れていた記憶を取り戻せた。
「凡人、パパとママに連絡するね!」
凛恋は寝返りを打ってテーブルの上に置いたスマートフォンに手を伸ばす。しかし、俺はその凛恋の体を引っ張って凛恋を引き戻す。そして、凛恋の上に覆い被さる。
俺をしたから見上げる凛恋は、顔を俺に向けたまま、手に持ったスマートフォンをテーブルの上にそっと戻した。
凛恋の首筋に顔を埋めて、汗ばんだ凛恋の首筋にキスをする。
「あっ……ちょっ、ちょっと! 凡人ストップ」
「りこぉ……」
「そ、そんな悲しそうな顔しないでよ。……少し休憩しよ」
「分かった」
分かったと言いながらも、凛恋を引き寄せて凛恋の甘い香りを嗅ぐ。
「凡人の匂い……」
凛恋が鼻をクンクンと動かす音が聞こえ、凛恋がキュッと体を抱き返してくれる。
凛恋の手が甘えるように俺の手を手繰り寄せて握り、真正面で俺の目を見詰める。
「凡人……本当に、本当に凡人に感謝してる。凡人は私の大事な家族を守ってくれた。ママをあの人から守ってくれて本当にありがとう。凡人が守ってくれなかったら……」
「お母さんが無事だったんだからそれで良いだろ? もう悪いことは考えるなよ」
凛恋の頭を撫でて励まそうとすると、凛恋が体をガタガタと震わせる。その凛恋の異常な様子に不安を抱く。
「凛恋!? 何かあったのか!?」
「あの人が優愛と結婚させようとしたの、二二歳の人で、私は……三五歳のおじさんだったんだって……」
「凛恋、大丈夫。凛恋は誰にも渡さない。凛恋も俺と結婚してくれるんだろ?」
「うん。凡人以外となんて絶対にあり得ない。でも……気持ち悪くて怖かった。そんな人と結婚させられようとされてたなんて……」
「させられようとされてても関係ない。絶対に凛恋は渡さない」
三五のおっさんに凛恋を渡すわけがない。凛恋は俺の彼女だ。
「二階で優愛と一緒に居る時にも、優愛が泣いてたの……知らない人と結婚なんて嫌だって」
「嫌に決まってる。俺だって知らない人と結婚なんて言われたら嫌だ。それに、女の子はやっぱり怖いよな……」
「うん、でもそれを助けてくれたのは凡人」
ニコッと笑った凛恋はチュッと俺の唇に軽くキスをする。そして、俺の頭を何度も撫でてくれる。
「色々、危ないことはしないでとか、めちゃくちゃ心配したとか、それから……凄く、寂しかったこととか。いっぱいいっぱい文句言いたいけど……本当に良かった」
ムギュっとした凛恋の柔らかい胸の感触を胸に受け、俺は凛恋の唇にキスをする。凛恋はほんのり頬を赤くして、はにかんだ顔を近付ける。
「凡人とキスするとすっごく幸せになれる。凡人のキスは魔法のキスみたいね」
微笑みながら言う凛恋に、俺は微笑みを返しながら思う。
記憶を戻してくれた凛恋のキスの方が、魔法のキスだと。
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